第16話 シルベスタが押し倒された理由
「何をするんだ!」
シルベスタは焦った。これでは自分が押し倒された格好ではないか。焦る彼と反対に、ナギの声はどんどん冷静になっていく。
「男が女を部屋に連れ込んでおいて何だ。しかもわざわざこんな所に座ったのに、そういう気も起きないのか?」
「あのなあ!」
実際彼は困った。どういう加減か押さえ込まれた腕に、力が全く入らないのだ。
「君がそんな人には見えなかったぞ!」
ああ陳腐な台詞だ、と彼は思う。だがそんな言葉しか出てこない。
情けない。こんな事態予想だにしていなかったのだ。たかが十六や十七の少女に押さえ込まれるなんて。
「別に私のことをどう見るのもあなたの勝手だが、私は私でな。他の誰でもないし、あなたの見た通りの人間でなくてはならない義務はない」
真顔でそうさらりさらりと言われても。
彼女はそのまま左の腕でシルベスタの首を抱えた。
右の手は、器用に彼の胸のタイを外す。しゅる、と光沢のある布のすべる音がする。
腕を外す拍子に、体重を身体全体にかけたので、驚いたままの彼はそうそう力を込めて彼女をどかすこともできない。
「や… やめろ」
「悪いが少々そのまま続けさせてくれ」
え?
冷静な囁き声に、彼はふと我に返った。目を広げると、真正面至近距離に彼女の金色の瞳があった。その目はあくまで冷静だった。情欲のかけらもない。
「実はあなたに頼みがある」
聞こえるか聞こえないか程度の声が耳に飛び込む。だが彼女の手は別の生き物のように彼の身体の上を動き続けている。
「頼み?」
この状態でどう聞けというのだ。彼は耳に入る冷静な声と、身体に与えられている事態のギャップに戸惑っていた。
「私達は、見られている」
「何?」
彼はふと天井に視線を送った。そう言えば、と思い返す。この建築物の最上階には、人が入れるくらいの天井裏があるはずだ。
帝国の様式が無節操に組み入れられた時代、三角屋根の建物も数多く作られていた。取り入れ方が露骨な程、天井裏ができる部分は大きい。
図書館からの帰り道に気がついたが、このホテルも、傾斜角度は少ないが、三角屋根だった。
「裏に?」
ああ、とナギは声を小さく立てる。そして編んでいた後ろの髪を束ねている黒のゴムを抜き取り、ぴ、と天井めがけて弾いた。
「その相手が誰だか、私はある程度見当はついているのだが、確信がない。だが私が考える相手なら、次に起こす行動は予想がつく。…大丈夫だとは思うが…」
「思うが?」
「もしものことがあった時のために、一つ頼んでおきたいことがあるんだ」
「何だ?」
彼はナギの背に手を回す。それは承諾の意を込めていた。ナギはもう片方の手を取って、大きな襟のついた自分の上着のスナップをぷつ、と外させた。
「帝国の歴史学者のハルシャ・イヴ・カナーシュを知っているだろう? 先刻あなたが持っていた本の作者だ」
「ああ。同じ歴史を研究する者として尊敬している」
「だったら彼に関する事情も多少なりとも知っているだろう? 帝国で彼は追われている」
「ああ。最近発禁処分になった本が多いと聞いてはいた」
「その彼を、逃がしてほしいんだ」
何、と彼の表情がやや険しくなる。
その顔を天井から隠すように、ナギはシルベスタの頬を両手ではさんだ。
「彼は私の師だ」
「…」
彼が驚き、声を立てようとすると、今度はその口が塞がれた。
彼女の唇が、シルベスタの唇から頬、そして首すじへと流れている、そのすきますきまで彼女はあくまで冷静に、彼を驚かせることを告げていくのだ。
「十日前くらいか。帝都からの広報で、カナーシュ先生が第一級不敬罪で指名手配されたことを知った」
「第一級不敬罪?」
「私もよくは知らないが、皇室の最も大きな秘密に触れてしまったらしい。歴史学者と究理学者の間では結構知られたことだ。ただ、それを大っぴらに口に出すと、それは不敬罪にあたる。ところが彼は本でほのめかしてしまった。口に出すだけなら言い逃れもできるだろうが」
「あの本なのか?」
「いや、あれは違う。あれにも一端は書かれているんだが、その次に書かれたものがまずかった。だが彼も覚悟していたのだろう。出版直後に失踪している」
「なるほど」
既に彼のシャツのボタンは全て外されていた。それに応えるように、シルベスタは彼女の内着にも手をかけていた。
変わった服だ、と脱がせながら彼は思った。基本的には連合にある水兵襟の服なのだ。だが合わせ方がやや違う。それに連合の軍隊ではこんな身体にぴったりした内着など着せない。
内着は、黒一色の、首まですっぽり覆った立ち襟のものだった。薄手の生地で作られたそれは、身体の線をあらわにする。
行動の大胆さとは裏腹に、彼女の身体は確かに少女のものだった。肩から二の腕へと続く線も、膨らみの少ない胸の形も、成熟した女性のものとはまるで違っている。
彼はナギに主導権を握られているとはいえ、一抹の罪悪感を感じずにはいられなかった。そして思う。そういう趣味を持つ帝国の貴族達は何を考えて「人形」を手に入れているのだろう?
「その先生を、ここへ来る前に見かけた」
「見かけた?」
「ここへ来るまでには幾つかの駅を通過しなくてはならない」
「君の居た学都は遠いのか?」
「遠い。帝都が内陸だろう? 私が居た東海華という学都は、青海区の方にあった。緯度のわりには温暖な地域だからな。住むにはいいところだ」
「なるほど」
「ところが東海華市の駅は、直接大陸横断列車につながる駅ではない。都市間列車に乗って、総合駅のある駅で乗り換えなくてはならないんだ。―――そのホームで、先生を見た」
「見たのか?」
さすがに彼も、驚いても声をひそめる。そのたびに口を塞がれるというのは。ナギはうなづく。
「ああ。そして私と同じ列車の三等車に乗り込んで行った。彼は連合に亡命するつもりだったんだ」
「危険だ」
「私もそう思った。東海華の学校の、広報スクリーンに顔とか経歴とか、映し出されていた。学校にまで流すくらいだ。一般広報には――― もっと」
「帝国は」
「何だ?」
「学問の自由はそれなりに保障されていた筈だが」
「ものによるな」
「分野による?」
「皇室に対する不敬罪にさえならなければ、自由だ。だがその部分を冒すような学問には制限が加えられる」
「それは自由ではない――― 皇室関係に都合のよいようにと言えば、歴史も文学も社会学もどうにもならないじゃないか」
「究理学もだ。まあ私もそう思う。だが」
究理学も? 彼はそのナギの言葉に引っかかるものを感じた。
「相手の事情を考えればやむを得ないという部分もなくはない」
「相手の事情?」
「そう、相手の事情だ」
それがどんな相手だ。それを彼が聞こうとした時だった。
風が、吹いたような気がした。
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