悔しい

2.

「私は断然ありだわ!!!」

 ゼミが終わってから、テラスでの清美のテンションは半端なかった。

 かくいう私は……とにかくぐったりだ。

 名前を覚えているという理由だけで、とにかくゼミ中に呼ばれる、呼ばれる。

 事ある毎に、「じゃあ菊池さん」で、ある。

 あの薄っぺらい笑顔をなんとか剥ぎ取ってやりたい。

「春樹はいいなぁ。鳥羽教授と同じ名前だからって覚えてもらえててさぁ」

 ちっともよかない。それに……──

「鳥羽、『助教授』だから! まだ教授じゃないし!」

「何ムキになってんのよ……。そりゃぁ、あんたがあのおじいちゃん先生に夢中だったのは、よぉく分かってた事だけどさ……」

 紙パックのジュースをペコッとへこますと、清美はゴミ箱へとほん投げた。

 ストライク。

「もうヤダよ。何あの人……。へらへらへらへら笑っててさ……」

「何言ってんのよ! あの笑顔がいいんじゃない! スラッとした容姿に、どこか漂う男のフェロモン……。たまんないじゃない……!」

 どこが?

 堂本教授のが断然良かったよ。丸眼鏡から覗く瞳はいっつも優しくて、柔らかくて、とても穏やかに私の名前を呼んでくれていたんだ。


 ──菊池さん、では、貴方の意見を聞かせて下さい。


 今でも覚えてる。思い出せる。

 あの声。姿。思い出せる。


 胸にじんわりと堂本教授の存在が広がっていく。

「ちょっ! 春樹っ……、泣いて、る?」

「……泣いてないよ」

「はる、き?」

「ほらっ、泣いてないっ!」

 私は無理矢理に笑顔を作ると、席を立った。

「泣いてなんかいられないもんっ! あんの助教授負かす為に、あっ! と言わす様な論文書いてやるんだから!!」

「あー……やだ。そうか……もうそういう時期か──」

「進級の論文、めちゃくちゃスゴイの書いてやるっ!」

 ガッツポーズを作った私とは反対に、清美は呑気にあくびをしている。

「こらっ!」

「いや、さあ……だって、言うなれば論文評価の為に来た様なもんじゃない? 鳥羽教授って。おじいちゃん先生、急に死んじゃったからさぁ──だから、ちょっとは大目に見てくんないかなぁ……とか──」

 ──急に死んじゃった。

「あ……うん……」


 急に、死んじゃった。


「春樹?」

「……と、いう訳で! 私これから図書館行ってくる! 小川未明の作品集や文献揃ってるのうちの図書館だけだしっ」

「図書館かぁ……。私は今日は家でのんびりするわ。論文のテーマもゆっくり考える」

「早くしないと、すぐ提出期限の二月になるんだからねっ」

 へいへい、と返事する清美に言い聞かせながら、私はトートバックを持った。

「清美もしっかり論文書くんだよ?!」

 本当は、私だって図書館なんかに行く気なんて起きなくて……。

 いつの間にか、銀杏並木に向かって歩き出していた。

 堂本教授の部屋から、よく見える……銀杏並木に──



 ──銀杏はキレイですね。夏には緑で涼やかに、秋には実をつけて黄金に染まる。



 あったかい緑茶を飲みながら、冬休み前に……堂本教授がぽつりと言っていた事を思い出す。

 あまりに詩的な表現に、私はうっとりとしていた。

 銀杏の実は手がかぶれたり、ニオイがきつかったりするけど……茶わん蒸しに入ってたらすごく美味しい。

 とか、

 私はそんな情緒ない返事をした様に思う。

 でも……教授はそんな私の方を振り返って──「あぁ、茶わん蒸しはいいですね。あれは美味い」と微笑んだのだ。

 だから……私は冬休み中に、頑張って茶わん蒸し作りを練習していた。教授に食べてもらいたかった。


 堂本教授は、突然亡くなった。

 脳梗塞だった。

 倒れた場所が、あの部屋──堂本教授の研究室だったそうだ。


 だから、それを知ってか知らずか、突然ずかずかと越して来たあの男が許せなかったのだ。


 悲しみと怒りが混濁する。

 もう今は、自分がどんな表情をしているのかすら分からない。


 たどり着いた銀杏並木。

 教授の部屋の前で、すとんと腰を下ろす。

 見渡す冬の銀杏の木は、心もとなく……ただひょろりと立っているだけだ。

 緑の葉も、黄金の葉も、ない。

 まるで、教授を失った私みたい……。

 急に、悲しみが怒りを凌駕した。


「寒くないのかい?」


 前言撤回。

 振り返ると、鳥羽助教授……いや、今はそんな称号ですら呼びたくない──! 鳥羽が、窓からこちらを覗いていた。

「寒くないです。何か?」

 私は無意識に水筒を取り出すと、湯気が立ち上る緑茶をカップに注いでいた。

「美味しそうだね」

「あげません」

「部屋においで。あったかいよ」

「セクハラで訴えますよ?」

「でも、この部屋は……僕より君の方が馴染みあるだろう?」

 グサリ、と……何かが胸に刺さった気持ちになった。

 堂本教授の部屋であったそこは……もう、主人を変えてしまった。

 前の主人の最後を、見取って──

「アナタが……」

 やっぱり私は……──

「アナタがそこにいても、部屋だって嬉しくないに決まってる」

 やっぱり私は、泣きたかったらしい。

 ぽたぽたと、涙が頬を伝う。

「おいで。そんな所にいると風邪を引くよ」

 鳥羽の優しい声音が、一瞬だけ……堂本教授の声と被った。

 あぁ……私は憔悴している。

 とても、弱って、弱って──いる……。



「堂本教授を好きになったきっかけは?」

 鳥羽の不意打ちの質問に、私は戸惑った。

 鳥羽の持つコーヒーの匂いがきつくて、すっごい嫌だったけど……年明けの銀杏並木はやっぱり寒かったので……結局「元」堂本教授の部屋にやって来てしまっていた。

 鳥羽は特に何も手をつけようとしておらず、部屋の中は堂本教授の頃と差ほど変わりはなかった──テーブルも、ソファも、デスクや本棚の位置すら変わっていない。

 変わったと言えば、本棚の内容が少し変わったぐらいだろうか。

 私はなんだか変な気分になった。

「なんで、好きになったの?」

 再び同じ事を聞かれてムカっときたけれど……なんとなく口は開いていた。

「一目惚れです」

「へぇ~」

 鳥羽は目を伏せながらも、興味深気に頷いている。

「一回生の秋に初めて教授を見て……銀杏の葉を拾い上げて、優しく笑ったんです。もう、それだけで……」


 それだけで、世界が輝いて見えた。


「中々に詩人だね」

「教授の影響です」

「あぁ、あの人は本当に詩人だった」

 鳥羽はなんでもない風に云ったけれど、私にとっては驚く程重大な事で──

「教授の事知ってるんですかっ?!」

 思わず大声で叫んでいた。

「知ってるよ? 僕も彼の元から卒業した身なんでね」

 例えば鳥羽が今四十歳だったとして……堂本教授はもう六十五歳ぐらいだったから──あり得ない話じゃない。

 話じゃないけど、納得できない。

 あの繊細で物腰し柔らかい堂本教授の元で教わっていながら、何故こんな無神経な男が出来上がるのだろう。

「嘘っ」

「嘘なんかつかないよ。……あぁ、涙はもう止まったな」

 鳥羽は差し出そうとしたハンカチをポケットに仕舞った。

「……それ」

「ん? 卒業祝いに教授に貰った」

 チェックのハンカチ。

 堂本教授も持っていた。持っていたし……そのブランドが好きだった。

 え? ていうか──

「卒業祝いに貰ったの?!」

「うん」

 ケロッと答える鳥羽が憎い。

 銀杏並木に立った時は悲しみが怒りを凌駕していたのに……今は、完全に怒りが悲しみを凌駕していた。

「ずるい!!!」

 自分でも間抜けな一言だとは思ったけれど……。

「ずるい?」

 笑われると更に悔しくなってくる。

「ホントに、恋してたんだね、教授に」

「そんなにおかしい?! そんなに年の離れた人に恋心抱くのっておかしい?! 笑わないでよ!」

「ごめんごめん。違うよ。恋愛に年の差がないのは分かってる。ただ……なんというか──君の発想が、あまりにもその……中学生みたいで。ほら、第二ボタン、みたいな感覚?」

 つまり、私を子供だと言いたいんだ、この人。

 思わず手が出そうになったのを止められる。

 さっきまでへらへら笑っていた鳥羽の表情は、いつのまにか真顔へと変わっていた。

「君は……本当に、真面目にゼミに参加していたかい? 教授に会いたいだけだったんじゃないか? 進級論文のテーマはもう決まってる? 好きだった人が死んで悲しみのあまり書けませんでした──とか、言わないよね?」

 急に矢継ぎ早に言われて、急に現実を突き付けられて……私は、固まってしまった。

「僕は甘い採点はしない。君の心がどんなに荒れていようと、そこまで考慮した採点はしないつもりでいる」

 急に、自分が惨めに思えてきた。

 堂本教授に固執するあまり……何も見えていなかった。

この人は……教授の、「できなかった事」を、やりにきたのだ。

 私たちを、見届ける為に来たのだ。


 教授の代わりに──


「認めない! 絶対認めない!」

 認めなきゃいけない。これが現実だ。

 分かってる。分かってる……。

「僕を唸らす様な論文を書いてきてくれよ」

 私は鳥羽の手を振払うと、部屋を真っすぐ後にした。



 ──運命を決めるのは盲目の星。



 とは、かの小川未明氏が書いた、ある童話の中の話だ。

 沢山の星たちが下界を見守り、その事について囁き合ってる中──運命を決める星だけは、その下界の様子が全く分からない。

 それは、彼が盲目故。

 運命を決める星が盲目でなければ、下界は彼の想う様な世界になっていただろう。

 この話に感銘し、私は進級論文の研究テーマを小川未明に決めた。


 でも……教授が死んでしまった事も、私のこのやりきれない思いも……例えば、盲目の星が「運命」として決めているのだとしたら──なんだか、少し腹が立つのは矛盾だろうか?

 とりあえず言える事は、鳥羽にこんな話をしたら笑われるという事。

「絶対見返してやる!」

 涙はすっかりどこかに行ってしまっていた。



 図書館にひとしきりこもり、閉館時間には、窓から雪がちらつくのが見えた。

 皮肉な事に、鳥羽を見返してやりたい気持ちで、論文がはかどってしょうがない。

「……喜んでいいのやら」

 呟くと、「蛍の光」が流れ出す館内。仕方なく立ち上がり、ようやく玄関へと向かう。

 雪は雨ほどは困らないにしても……しょせん溶ければ水。

 ──どうやって帰ろう。

 生憎、今日は傘を持って来ていない。

「雪、止むかなぁ……」

 大体こんな日は、教授の研究室でやり過ごしていたのだけれど……今は鳥羽という、ものスゴく無神経な人間がいるので行きたくない。

「蛍の光」は私を追い立てる。

 仕方なく、玄関を出た。

 鳥羽が、立っていた。


「雪、降ってきたから」

「ちょっ!!! なんでいるんですか?! ストーカーですか?!」

「酷い言い様だな。せっかく傘持ってきたのに……」

 いかにも購買部で買った様なビニール傘。

「いりません!」

「まあまあそう言わず……。せっかく論文にやる気を出した生徒に風邪引かれたんでは困るからね」

 鳥羽は無理矢理に私に傘を渡した。

「返すのはいつでもいいよ。いつでも研究室にいるから」

 つまり、再び会いに行かなければいけないと言う事ですか……。

「いりませんっ!!!」

 叫んでいたら、鳥羽の姿は既に遠ざかっていた。

 鳥羽に借りを作った事が悔しい上に、再び傘を返しに個人的に会わなければいけないと思うと気が滅入る。

「明日……ゼミ終わったら返そう」

 とにかく今は、二人きりで会いたくなかった。

 鳥羽といると、自分が子供だと思い知らされる気持ちになる。

 堂本教授に恋してた自分を、バカにされている様な気持ちになる。

 けれど……悔しいかな、憎らしい気持ちさえあれど、彼の事を心底嫌いになれない自分にも気付いてはいた。

 彼は彼なりに……もしかしたら、私の事を心配しているのかもしれない。論文の事だって、鳥羽がたきつけてくれないと、私はやる気が出ないままだっただろう。

 ──ま、実の所バカにしたいだけかもしれないけど。

「……悔しい」

 呟いて、ビニール傘を開いた。

 透明なビニール傘越しに見える雪。


 ──菊池さん、今日は冷えると思ったら、雪が降ってきましたよ……。


 優しい堂本教授の声が、耳の奥で、響いた気がした。

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