第2話 トラウマの女

 居住拡張計画について民政局長のプレゼンテーションが終了すると、ミレアは医師から処方された精神安定剤を服用した。


 周囲の者の見る目が変わったのは彼女も自覚している。そして自分自身が以前とは何か違っているという自覚もある。


 その原因もわかっていた。


『…器質的という意味で脳に異常は認められません』


 救出された直後に搬入された病院で医師はミレアにそう告げた。


『でも心の傷は一生治らないわ』


 虚ろな瞳でまだ涙が乾ききらぬ女の言葉に医師は心的外傷の兆候を認めた。


 病院側の方針がサイコキネシスでダメージを受けた内蔵器官の治療を優先させたために精神面でのフォローは自然と後回しになってしまった。


 半ば強引に入院させられたミレアは毎晩夢のなかにレティシアが登場しては「卑しさの告白」の光景がフラッシュバックして体験することになる。彼女は悲鳴とともに目を覚まし、泣き崩れ、そしてナースが駆けつけてきて取りなすというパターンがルーチン化されることになる。


 そのため肉体の傷が回復するのに反比例して精神状態は悪化する一方であった。遅まきながら精神科医による問診がおこなわれたものの時既に遅くミレアは心的外傷の経緯を話すのを拒否した。なぜならば肉体の回復とともに自尊心も回復しており、あの屈辱的な会話を他人に話すのはプライドが許さなかったからである。


『高等弁務官…』精神科医は困惑の表情を隠そうとはしなかった。『…当時の状況をすべて話していただけないと私としても対処のしようがない』


『嫌なことを忘れさせてくれるお薬があれば助かるのだけど』


『薬では何も解決しませんよ。しかも依存症になって効果が強い薬を求めるようになり、最後には…』


『あなたに私の何がわかるというの』心的外傷の経緯に触れられたくないミレアは次第に高圧的な態度をとりはじめた。それは発覚することへの恐れでもあった。『薬を処方しなさい。高等弁務官としての命令です』


 相手が相手なだけに精神科医は匙を投げて薬を処方した。


 薬は一時的に悪夢を消えさせた。だがやはり一時的なことだけでありレティシアはすぐに戻ってくる。


 職務に対する意欲は著しく衰え、何をするのも億劫となり、最後に熟睡したのがはるか大昔のように思える。


 優しく慰めてくれる恋人も支えとなってくれる友人もこのラザフォードには存在しない。高等弁務官としてひたすら仕事一筋に打ち込み、人間関係を顧みなかったことがいまツケとなって現れている。


 そしてミレアは知っていた。


 あのエレボス事件のときに自分が死ねばいいと心秘かに願っていた者が数多く存在したことを。いまでも身心異常を名目にして高等弁務官のポストから彼女を引きずり降ろそうと画策する連中が存在することを。


『私は…いったい何なの』


 いなくなることによって喜ぶ者の顔はいくらでも思い浮かぶか、いることによって喜ぶ者の顔はまったく思いつかなかった。


 いまさらながらにして自分は一人なのだと痛切させられる。レティシアが諭そうとしていたことは彼女の思い上がりではなかったのかもしれない。


「私は…」ミレアは誰もいない執務室でボソリと呟いた。「…卑しい人間」


 このまま誰にも振り向いてもらえず心を病んだまま表舞台から消えていくのだろうか。ラザフォードに着任してからというもの一人でいることが苦痛になったことはないが、いまは無性に人恋しい気分であった。


 でも誰もいない。


 人工知能によるヴァーチャル人格で慰めを得るという方法もなくはないが、それを本気に思いこめるほど彼女はまだ盲目ではなかった。


 ミレアは回線で秘書を呼び出した。


「昼からの執務予定はすべてキャンセルします」


「何か突発的な用件でも?」


「所用で外出します。行き先は軍病院です。向こうに私の訪問を告げる必要はありません。余計な気をつかわせることになりますから。今日はそのまま帰宅するのでそのつもりで」

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