左手よりも短い右手

泉宮糾一

1.

 青白い月の光が天井を照らしていた。木目に浮かぶ瞳が三つ、僕を見下ろしている。自分のベッドからの見慣れた景色だ。

 頭は起きているけれど、身体は動かない。この状態を金縛りということをこの前テレビで知った。心霊現象を科学で解明する番組。理屈がわかっていても、動かないという困りごとは変わらない。瞳を開け閉めすることもできない。僕はただ光を見つめていた。カーテンの隙間から伸びる、天井に浮かぶ平面のモノリス。それが少しだけ欠けていることに気づくと、息をすることができなくなった。

 人が窓辺にいる。頭の中は怯えながらも冷静だった。そうならざるを得なかった。身体は動かない。何をすることもできないのだ。されるがままになるしかない。抵抗できない代わりに粘り気のある汗が頬を伝い落ちてくる。その人は僕に近づいてきた。足音さえ聞こえなかった。

 兄ちゃん?

 僕の声は誰かが急にミュートを解除したような聞こえ方だった。

 三つ上の、大学二年生。兄は今フィリピンにいるはずだった。東南アジアの島嶼国。それ以外には何も知らない。兄は一か月の短期留学という形で日本人学校を訪ねると聞いている。深入りはしなかった。もとより交流が少なかった上に、あと一ヶ月後には僕の大学受験が控えていて、集中する必要があった。

 兄らしきその人は僕に右手を伸ばしてきた。やはり音はなく、怖いというよりも驚いた。そしてやはり身体は動かなかった。

 兄は口を開けていた。音の無い映画のようだ。白い月光と黒い人影。モノクロの景色は現実味が薄かった。寒さを感じる。左手はわずかに動き、指の腹がシーツを引いた。右腕はまだ動かなかった。

 やがて兄の影は僕の身体を覆った。それが兄の顔であることは確かだ。暗がりに浮かぶ顔は無表情で、怒っているともつかめない。家族とはいえ、兄に詳しいわけではない。小学生か、中学生の頃から、兄の生活と僕の生活は離れていた。同じ屋根の下にいても、見えている景色が異なっている。そういえば僕の部屋に入ることもなかったはずだ。この場に兄がいることへの違和感は意外とそんなところにあるのかもしれない。

 伸ばした手がゆっくりと僕に迫ってくる。爪が伸びた兄の中指がまず僕の右手に触れた。思いの外、温かかった。触れた指の先がかすんで見えなくなっていく。感触が薄れる。温かさはすぐにうやむやになった。眠気が意識を飲み込んでいく。視界の真ん中で、兄は僕を見ていた。無表情だとばかり思っていたけれど、その瞳には光が見えた。月光よりも鮮やかな涙がひとしずくその頬を伝い落ちていった。

 どうして泣いているの。

 答えは聞こえなかったと思う。


 朝日を浴びると寝覚めが気持ちよくなる。これもテレビで聞いた話だ。それを聞いた日から、僕はカーテンをあけたまま眠るようにしている。それゆえに、妙な夢を見た翌日の朝は僕力的な温もりで僕の身体を照らしてきた。

 少しはだけていたパジャマを着直して、右腕の裾に余裕があることに気づいた。洗いすぎて服が縮まることはよくあるけれど、たったひと晩で伸びることは珍しい気がした。

 右腕と左腕を重ねて、前に伸ばす。すると左の手のひらが、右の手のひらを覆ってしまった。右手は全て、爪が伸びていた。覚えがない。深爪気味の左手と比べるとその差は明らかだった。

 夢の景色はまだ微かに名残があった。青白い月光の下で兄を見た夢。そんなわけはないと頭ではわかっている。フィリピンにいる兄の帰国は三月だ。春が始まる前の帰国は聞いていない。理屈は通じても、実感はまた別に在る。昨日の兄は本当に兄だった。僕より背の低い兄の腕は、僕よりも短くはなかっただろうか。

 考えがまとまらないまま、リビングで仕事に出る母が用意してくれたトーストと目玉焼きを食べていたら、テレビにフィリピンが映っていた。大きな地震のニュースだった。

 フィリピンは日本と同じように火山帯にある。だから地震も同じように起こる。津波もあり、日本の沿岸部にも多少の影響がみられるらしい。淡々とした状況説明の奥で、フィリピンの街が煙を上げていた。ニュースキャスターは日本人の被災者について領事館に確認していると三回繰り返し、天気予報に切り替わった。日本中の天気が快晴だということが判明し、学校に行く時間が迫っても、僕は動かなかった。電話が掛かってくるのではないか。そう思うと、日が傾くまで一歩もそこから動けなかった。



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