希望、中一。そのさん

 ああ、これは不味いかもしれない。朦朧とする意識の中で、そう思った。

 視界はぼやけているし、ノゾミの泣き声が離れていく。喉に異物が詰まったかのように、呼吸がしづらい。いつもとは違う、変な呼吸音が出ている。もう一体、影人間が壁から現れた。そして、もう一体が、天井から顔を覗かせている。三体の影人間が、僕にジッと薄気味悪い粘着性のある視線を向けてくる。

 両手に力を込めて、体を持ち上げる。なんとか、お座りの状態に持ってきたけれど、自分でも分かるくらい不格好だ。ゼエゼエという呼吸音が、非常に耳障りだ。懸命に酸素を吸って、大声を上げた。でも、声は出てくれなくて、むせ返ってしまった。何度もえずき、何度目かで嘔吐してしまった。胃をねじ上げられるような痛みが走った。その僕の口から発せられた音によって、家族の視線が僕に集中したのが分かった。次の瞬間、ノゾミが一目散に駆け寄ってきてくれた。

「ホップ! 大丈夫!? 苦しいの!?」

 ノゾミは柵の目に指をかけて、僕の顔を覗き込んできた。ノゾミの瞳からは、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちている。

「ホップ! ホップ! しっかりしてよ!」

 ノゾミに頭をぶつけるようにして、ノゾムが泣き出しそうな顔をしている。ノゾムの口元から、薄っすら血が出ていた。舐めてあげたいけれど、どうにも体に力が入らない。

「ママ! ホップをすぐに病院に連れて行ってあげて!」

 ノゾミとノゾムが後ろを振り返った。二人のすぐ後ろには、ママとパパがいる。ママも泣き出しそうな表情を浮かべて、唇を噛み締めながら、顔を左右に振った。

「どうしてよ!?」

 ノゾミが大声を上げた。ノゾミがこんなにも大きな声を出したのは、初めてだ。ママは口元を押さえながら、涙を零した。すると、パパがノゾムの前にしゃがんだ。

「ノゾム、ホップをゲージから出してあげて。そっとだよ、そっと」

 しゃっくりを上げるノゾムが、涙を拭いながら、小さく返事をする。そして、僕の部屋の扉を開け、僕をゆっくりと抱き上げた。僕はノゾムの胡坐の上に、すっぽりと収まった。みんなが、僕を囲むようにして見つめている。パパがノゾミとノゾムの頭に触れた。

「さっきの話の続きをしよう。ホップは、入院も手術もさせない。無駄に手を加える事はせず、ホップの人生をまっとうさせよう。それは、つまりね。ホップを僕達全員で、看取ってあげるって事なんだ。最後まで、傍にいてあげよう」

「そんなもう最後みたいな言い方しないでよ。ちょっと、咳き込んだだけじゃないのよ。すぐ落ち着くはずよ」

 ママが弱々しく零して、僕の頭に触れてくれた。まるで、ママがママ自身に言い聞かせているようだ。でも、最後に病院に行った時に、先生が言っていた。

 容体が急変したら、危ないと思って下さい。

 その日の夜から、ママは僕の部屋の隣に布団をひいて寝るようになった。四六時中、ママは僕の傍にいてくれた。

 ごめんね。本当は、みんなを悲しませたくはないんだよ。

 でも、ごめんね。体が言う事を聞かないんだ。

 先生も言っていたじゃないか。これだけ、長生きしたんだから、寿命ってやつだよ。

 だから、悲しまないで。

「ホップ! ごめんね! 嘘だからね! 元気出してよ!」

 ウンウン、分かっているよ、ノゾム。

「ホップ。大丈夫だからね。きっと、大丈夫だからね。みんないるから、安心してね」

 ウン、大丈夫だよ。ちっとも寂しくないから、ノゾミは早くよくなるといいね。

「ホップ。ありがとね。ホップがウチにきてくれて、本当によかった」

 ウン、僕もみんなと一緒にいれて、よかったよ。パパが僕を連れてきてくれたんだよね。

「ホップ。ノゾミとノゾムの面倒をみてくれて、ありがとね。お兄ちゃん」

 ウン、本当に大変だったけど、楽しかったよ。もっと、ずっと、一緒にいたかった。ママとノゾミとノゾムとパパと、本当に本当に幸せだったよ。

 家族のお陰で、体が楽になってきた。みんなが、傍にいてくれるだけで、とても安心するんだ。

 ノゾミとノゾムが、小さかった頃は毎日が大忙しで、目まぐるしく時間が過ぎていったね。ノゾムの嘘には、本当に困ったものだったよ。ノゾミは、小さな頃から、優しい子だったね。自分よりも、周りの人を大切にする子だ。もう少し、自分の事も大切にしてね。パパは、頼りないところもあるけれど、いざとなったらしっかりと家族を引っ張ってくれたね。昔は下に見ていて、ごめんなさい。ノゾムが家出をしたり、ノゾミが恋をしたり色々あったよね。どれもこれも、本当にいい想い出だ。それから、ママ。一番ママとは、一緒にいたね。やっぱりママは、特別だった。いつもいつも、本当にありがとうね。みんな大好きだよ。

 一つ、心残りがあるとするなら、ノゾミの病気の事だ。早く元気になって欲しいし、元気になった姿を見たかった。最近はほとんど、一緒に散歩できなかったけれど、僕は覚えているからね。ノゾミの元気な姿を。大丈夫、すぐよくなるから。

 不思議と呼吸が落ち着いてきた。ノゾムの足の上で眠っているけれど、フワフワと浮かんでいるような感じだ。みんな、心配かけて、ごめんね。もう大丈夫そうだよ。

 家族の笑った顔が見たい。鉛のように重い瞼をゆっくり開いた。

 みんなの顔を見た瞬間に、心臓が破裂しそうなほど、早鐘を鳴らした。

―――僕を囲んでいる家族を、影人間が取り囲んでいた。

 五体の影人間だ。また数が増えている。家族達の間から顔を出すようにして、僕の事を凝視している。おぞましい光景だった。ノゾミが見たら、気絶してしまうのではないだろうか。すると、一体の影人間が、ユラリと動いた。僕の視線は、そいつに釘付けになっている。動いた影人間が、僕とノゾミの間に、ヌッと顔を突っ込んだ。ノゾミの顔が、真っ黒に塗りつぶされる。あまりの衝撃に、息が止まりそうになった。

 そいつは、確実に、ノゾミを見ている。

 ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!

 これほどまでに、怒りを覚えた事はない。力を振り絞って、歯を剥き出しにする。

「そんなに命が欲しいなら、僕の命を持っていけ!」

 怒鳴り声を上げた。お腹の奥から込み上げてくるものに、激しくむせ返った。それでも僕は、強引に息を吸った。

「だから、妹には手を出すな!」

 まるで、僕の口から衝撃波が出たように、僕とノゾミの間にいた一体の影人間が霧散した。次の瞬間、そこかしこから、黒い手が伸びてきて、僕の体を掴んできた。

「・・・ホップ?」

 ノゾミは、赤く腫らした目を、大きく見開いていた。

 息苦しい。酸素が上手く、体内に入っていかない。

 ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐く。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。

 ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。

 

 吸って、吐いて・・・吸って、吐いて・・・吸って―――

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