希望、小二。そのよん

「おいおい! 突然、どうしたんだ?」

 パパが驚いた声を上げて、僕についてくる。首が絞まって息苦しい。僕が走り出すと、パパも一緒になってついてきた。だが、パパはあまりにも足が遅く、僕の首はリードで絞まる。息苦しいし、パパは遅いから、もどかしいけれど、足の回転を緩めた。

 二宮さんの家の裏側は、すぐに橋になっている。そして、僕んちを含めた五件並びの向こう側に、同じように橋がある。橋の下は、こっち側と川を挟んだ向こう側の計四か所だ。僕は失念していた。ノゾムがもっと小さかった時に、僕に教えてくれた事があった。皆で川沿いの広場を散歩している時だ。ノゾムが、僕に耳打ちをした。

「あの橋の下に隙間があって、そこが僕達の秘密基地なんだ。皆には、内緒だよ」

 確か、あの時、ノゾムはその場所を指さしていた。ああ、思い出せない。とにかく、全部を見て回るしかない。

 僕とパパは、橋の手前にある階段を下った。少し下りた所で、立ち止まる。この場所から階段の柵を抜けて、橋の真下の隙間に行けるのだ。当然だが、橋の上に設置してある街灯の明かりは、まるで届かない。橋の下は、真っ暗でなにも見えない。すると、突然、光の線が橋の下目掛けて走った。僕が振り返ると、パパが懐中電灯を手にしていて、明かりを向けていた。おお、さすがパパだ、準備がいい。

「もしかして、橋の下に望がいるのか?」

 パパは、階段の柵に身を預けるようにして、橋の下を探す。しかし、パパは僕を見て首を左右に振った。じゃあ、次だ。僕は、パパを引っ張るようにして、階段を下った。反対側の橋の下でも同じことをしたが、結果は同じであった。階段を上り切り、今は亡き堂本のおじいさんとマルが住んでいた家の反対側にある橋を渡る。ゼエゼエとパパの苦しそうな息遣いが聞こえる。パパ頑張れ。辛いだろうけど、それでも僕を信じてついてきてくれる事が嬉しい。橋を渡り切って、階段を下り振り返る。パパは両膝に手をついて、前屈みになっている。パパは一息つくと、懐中電灯の明かりを橋の下に向けた。

「ああ、ノゾム。こんな所にいたのか」

 パパからの心底安堵した声が聞こえた。パパはしゃがみ込み、僕の首にあるリードを外して、ポケットにしまった。そして、僕を抱きしめた。

「ホップは凄いな! 本当に、望を見つけちゃったんだもんな。偉い偉い。天才犬だな。さすがお兄ちゃんだ」

 パパは、顔面をクシャと崩して、僕に頬ずりをした。嬉しいんだけど、ノゾムの事が先だよ。僕は身をよじって、橋の下を見た。僕の動きで、パパは肝心な事を思い出したようで、階段の柵をよじ登った。柵の向こう側に行くことは、さほど苦労はしなかったみたいだけれど、問題はここからだ。僕やノゾムなら、難なく通れるのだが、パパにはこの狭い隙間は難しい。パパは、僕を片手で抱えて、四つん這いになって隙間に入る。正確には、三つん這いだ。僕は、パパの腕の中で、周囲を確認する。影人間は、見当たらなかった。クロの奴は、ほんと素直じゃない。それも、野良のプライドなのだろうか。

 ノゾムの傍までやってきた所で、ようやくノゾムが顔を上げた。狭い隙間にすっぽりと収まるように、ノゾムは体育座りをしていた。ノゾムの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。目が合ったと思った瞬間に、ノゾムは声を上げて泣き出した。

「よくこんな場所見つけたな。秘密基地みたいでワクワクするな」

 パパは、微笑みながら、呑気なこと言っている。けど、これはノゾムを刺激しないようにしているのだと、分かった。いや、それは気のせいかもしれない。パパは、いつも呑気だ。パパは、僕を胸に抱いたまま、ノゾムの隣でゴロンと横になった。そして、僕を片手で持って、ノゾムへと差し出す。僕はノゾムの頬を盛大に舐めまくった。一人で怖かっただろうし、心細かっただろう。パパは、ポケットからスマホを取り出し、器用に片手で画面を叩いていた。

「ノゾム、足伸ばして」

 パパの声に、ノゾムは首を傾けながら、足を伸ばした。パパは、ノゾムの太腿の辺りに後頭部を預けた。膝枕という形で、パパはノゾムの顔を見上げた。僕は、パパのお腹の上に乗っている。

「望、ママが心配してたよ」

「嘘だ。ママは、僕の事が嫌いなんだ」

 ノゾムは、鼻を啜り、乱暴に目元を擦った。

「どうして、そう思うの?」

「だって、ママが言ってたもん。弱い者イジメする奴は、嫌いだって」

「そうか、じゃあ、望は自分が弱い者イジメをしていた自覚があるんだね?」

 ノゾムは口を真横に結び、パパは小さく笑った。え? どうして、パパは笑っているの? ここは笑うところじゃないって。相変わらず呑気なパパに、呆れてしまった。

「なにが面白いんだよ?」

 そらみろ。ノゾムは、不愉快そうに唇を尖らせた。

「面白いんじゃなくて、嬉しいんだよ」

 パパは目を細めて、口角を上げる。ノゾムと一緒で、パパの考えている事が分からない。ノゾムが悲しんでいるのに、なにが嬉しいって言うんだ?

「ノゾムは、ママによく怒られるから、ママに嫌われても平気なんだと思っていたよ。別に嫌われてもいい人って、自分にとってどうでもいい人だろ? パパは、それが悲しかったんだ。でも、ノゾムは、本当はママに嫌われたくないんだろ? それが、嬉しいんだよ」

 パパは、腕を伸ばして、ノゾムの頭を撫でた。ノゾムはグッと目を閉じているけれど、それでもポロポロと涙が零れ落ちる。パパの顔が、ノゾムの涙で濡れていく。僕もずっと疑問に思っていた。どうして、ノゾムは怒られる事を理解しながら、同じ事を繰り返すのだろう。怒られる事が平気なのだと思っていた。もしかしたら、本当に馬鹿なのだとも。でも、やっぱりママに嫌われるのは、嫌みたいだ。

「ママには、嫌われたくないよ」

「ママだけに嫌われたくないの? ママだけじゃなくて、希もホップもそうだし、僕だってそうだ。ノゾムが居なくなって、とても心配したんだよ」

「皆に嫌われたくないから、これからは怒られないように気を付ける」

 ウンウン、偉いぞノゾム。ノゾムは、懸命に首を左右に振った。しかし、パパを見ると、先ほどまでの笑みが消えていて、何かを考えているように見えた。どうしたんだろう、ノゾムが反省しているのは、嬉しくないのだろうか。

「それは、少し違うな。少し難しい話になっちゃうけど、いいかな? 今、分からなくてもいいから、たまに思い出して考えて欲しいんだ」

 パパの優しい声に、ノゾムは小さく首を傾け後、ゆっくりと顎を引いた。

「嫌われたくないとか、怒られたくないってのは、結局自分の為なんだよ。相手に嫌な想いをさせたくない、傷つけたくない、悲しませたくない。って、思えるようになるといいね。自分の言動全てが、『怒られない為』っていうのは、とても危険だと思うよ。これは、宿題だね。大人でも難しい事だから」

 パパは、そう言うと、ノゾムの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でて、頭を浮かせた。やはり、ノゾムは理解できていないようであった。僕もよく分からない。

「よし! 帰ろう! お腹空いたね。ママとノゾミが待ってる!」

「うん」

 ノゾムは、小さな体をさらに小さくして、橋の下から抜けていった。僕を抱えたパパは、苦戦している。橋の下を抜けた所で、ノゾムは僕達の到着を待っていた。

 橋の上に設置されている街灯が、僕達を照らした。ノゾムとパパの衣服が、真っ黒に汚れている。僕は幸い、パパに抱かれていたので、黒犬にならずに済んだ。階段の柵を超えて、僕の首にリードが巻かれた。

 ノゾムの右手には僕のリードが、左手にはパパの右手が握られている。

 お腹がすいた。早く家に帰って、皆でご飯を食べよう。


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