第3部:燃え上がる大地 第11章:アルデガン その3
「リア……」アラードは呻いた。二、三歩前に歩み出た。だが、塔の上でのあの恐怖がよみがえり、その歩みを押し止めた。そのとき、翼持つ守護者の思念がリアに呼びかけた。
>汝、人間の姿と心を持つ者よ。なぜ歩み寄る?<
アラードは守護者を見上げた。遠目には竜のように見えただけだったが、間近に見ると頭部がまったく違った。いくらか人間に似ていなくもない細い顔を取り巻く無数の触手が蠢いていた。髪の代わりに蛇を生やした女めいた顔だった。
「私はもう人間ではないわ。だから人間たちとともに在ることはできない」
>……我には汝と人間の区別がつかぬ<
「あなたのその言葉に背中を押されて私は地上へ戻った。少なくとも心だけはまだ人間だと、人間として行動できるのではないかと思えたから、いえ、そう思いたかったから!
心だけはそうだったかもしれない。私を信じようとしてくれた人もいたわ」
「でも、私はやっぱり人間じゃなかった! 信じてくれた人さえ危うく牙にかけるところだった!」
一瞬とぎれた声が、しかし絞り出されるように呻いた。
「だめなのよ、もう、いくら人間でありたいと願っても……」
アラードはがくりと膝をついた。胸が張り裂けそうだった。
あのとき瀕死のリアにしたたる血を飲ませた自分は、ただ彼女を失いたくないだけだった。彼女の魂がこの世から消え去ることに耐えられず、どんな形であれ、この世に留まり続けてほしいと願っただけだった。
自分の思いは純粋だとさえ心のどこかで感じていた……。
その結果がこれなのか!
どこまでも人間としての心を失わずにいたいという思い。自分の執着などよりずっと切実なはずの願い。それをついに自ら断念しなくてはならないところまで彼女は追い詰められたのだ!
なんということをしてしまったんだ……。
>だから、このものたちと行くというのか<
「人間の間にはもう私の場所はない。私はここにいるどんな魔物よりも人間にとって有害な存在。だから、せめて彼らを棲むべき場所へ連れて行くわ」
>棲むべき場所?<
「この北の大地には実りが少ない。この地に留まるならば彼らは人間を屠るしかない。
でも実りの多い場所に棲めたなら、必ずしも人間しか糧にできないわけではないのよ。
だからあなたも彼らを洞窟で養うことができたのでしょう? 洞窟の中にキノコや様々な生き物を増やして与えることで。
この中で、本当に人間しか糧にできないのは、私だけ……」
「リア!」アラードはたまらず叫んだ。
リアが振り向いた。幼いときから身近に見知ってきた少女の顔がけなげにも淡く微笑んでいた。だがそれは、あまりにも大きなものを諦めることでかろうじて得られた平静のはざまに、やっと浮かべることのできたものとしか見えなかった。
そうまでして自分に微笑みかけようとするその心の痛ましさを想っただけで耐えられなくなった。声を限りに叫びたかった。
そんな、そんな微笑みを向けられる資格なんかないんだ!
だが声一つ出せなかった。千々に心乱れるばかりだった。
「私は最悪の魔物なのよ。もう私の場所はここしかないの」
リアの声が聞こえてきた。
「大司教閣下が亡くなられて、私を解呪できる人はもういない。自分で死ぬこともできない……」
表情が翳ったとたん、はかない微笑みはゆらいで消えた。
「……私はきっと多くの人を殺めることになるわ。
だから約束して。いつか必ず私を滅ぼしにきてくれるって」
「それが……望みなのか」
やっと出るようになった声でアラードは問うた。
リアは頷いた。
「……約束する。いや、誓う!」
アラードはいった。一言ずつ、胸から削り出すように。
「ただリアをこの世に留めたかったんだ。どんな形でもいいと、とにかく失いたくないと、あのとき願ってしまった……。
それがリアを苦しめたんだ! これほどむごく、残酷に。
叶えないなんてもう許されない。たとえどんな望みでも!」
リアはふたたび微笑んだ。だが、そこにはまぎれもない喜びとかそけき希望の光が射していた。
「私の魂はアラードに願われてこの世に留まった。だからラルダみたいに自分を憎まずにいられた。私がせめて私にできることをする気になれるのは、アラードのおかげよ。
だから私は魔物たちと行くわ。この身を置ける場所で今できるなにかをなすために。
私のところへ来るときは、魔物たちのいる場所を探して」
>汝の置かれた境遇は我には不可解なもの<
守護者の思念が呼びかけた。
>だが、汝は我に似ているのかもしれぬ。種族としての自らを律せられず故郷を滅ぼして離散したあげく、本来我が場所ならざるこの世界に在りながらもその意味を求めてやまぬ我に<
金色の翼が大きく羽ばたくと、きらめく蛇体はさらに高みへと浮かび上がった。
>この地での我が役割は終わった。我はまたこの世界に漂着した意味を探しにゆく。汝もその心の導く道をゆくがいい<
その思念を最後に、守護者は翼からの光を流れ星の尾のように引きながら、ゆるやかに西の空へと飛び去っていった。
いまや荒野に燃える炎だけがあたりを赤く照らしていた。魔物たちの群は照り返しの中に黒々と浮かび上がり、炎を受けた無数の目が赤く輝いた。アラードと向き合ったままリアが数歩後じさると、彼女の姿も黒い影に溶け込んだ。すると彼らは動き出し、荒野に下る坂道を土煙を上げながら降り始めた。
「約束よ。アラード」
うごめく影の群の中から声がした。
「いつか必ず滅ぼしにきて……」
魔物の群は炎を上げる荒野を黒い大河のように遠ざかり、平野を遮る峨々たる山脈の麓に溶け込んでいった。アラードは崩れた岩山から荒野に下る坂道の上に立ち尽くし、リアの去った道を、自分と分かたれた道を、彼女の最後の声を胸に刻みつけたまま、ただいつまでも見つめていた。
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