第2部:洞窟の戦い 第7章:火口その2
甘美な香りにむせながら、ラルダは目覚めた。
自分が狭い場所にいることがわかった。四方どちらを向いても岩肌が見えた。三方は一つながりだったが一方の岩壁の周囲に細い隙間が見えた。岩の窪みを大岩で塞いだようだった。
閉じ込められている? 岩の中に? では、なぜ見える?
その瞬間、記憶がよみがえった。
ラルダが思わず立ち上がると、膝から何かが滑り落ちた。
ローラムだった。もはや息が絶えかけていた。叫びそうになり口元を押さえた手に何かが触れた。伸びかけの牙だった。
ラルダは香りの正体を悟った。ローラムの裂かれた喉から今も流れる血の匂いなのだ。
「お目覚めかな」岩の向こうから男の声がした。
「若造の方は覚めるはずもないがな」
「私たちをどうするつもりっ」
ラルダは岩の向こうの相手を呪殺するかのように睨んだ。
「いったはずだ。そやつの命、汝に托すと」
含み笑いが聞こえてきた。
「放っておけばせいぜい一刻でそやつは死ぬ。だが、すでに汝の牙には転化の魔力が備わっている。ここまでいわねばわからぬのか?」
自分の血の気の引く音が聞こえた。
「……彼の血を吸わせる気? 私に?」
「命じはせぬ。托したまでだ。何度もいわせるでない」
男の声に嘲りが浮き出た。
「むろん汝が耐えられるというなら、それはそれでよいが」
「化物! 悪魔っ!」
ラルダは叫んだ。大岩を叩く拳がたちまち破れた。
「開けて! ここから出して!」
「汝の力では動かせぬわ。今は、な」男は声を上げて嗤った。
「転化してしまえばわけなく開けられるがな」
そして声はしなくなった。
だがラルダには、自分がどうするかを男が見物していることが感じられた。伸びかけた牙をラルダはぎりぎりと噛み締めた。
そんなふうにしているうち、時間の感覚が薄れてきた。足元に目を落とすと、もはやローラムの顔は土色になりかけていた。
狭い岩穴いっぱいに血の香りが充満し、ラルダは麻痺するような感覚に襲われた。牙が疼き、凄まじい渇きが彼女を捉えた。
放っておけばローラムは助からない。
渇きに抗おうとするラルダの耳に、そんな声が囁いた。
「だめ! できない、そんなこと……」
ならば放っておけばいい。彼は死ねる。あとは自分一人だけが化物になるだけのこと。
「一人で……。一人だけで?」
脅えたラルダに声がいった。
彼の身代わりになりたかったのだろう?
「あんな男の餌食にしたくなかった。だから叫んでしまった」
自分が化物になりたかったわけではないと?
「当たり前じゃないの!」
だがもう人間として死ぬことはできない。
言葉を失ったラルダの心に、なぜ私だけがとの思いが湧き出し渦を巻いた。それに乗ずるように、内からの声は続けた。
彼は人間として死ねるなら救われる。一人で救われる。
「死なせたりしないわ! こんなことで、こんなところで!」
なにかが変だ。なにかが間違っている。
ラルダの心のどこかで別の声がした。だが圧倒的な渇きがそれを押し潰した。
ローラムの半身を掻き抱いた。鮮血を間近に感じて牙がさらに伸びた。心のどこかが悲鳴を上げた。
だが次の瞬間、疼く牙はローラムの傷口深く潜り込んだ!
「どうしたの? 私……。何をしたの?」
渇きの狂気が去ったあと、ラルダは呻いた。
足元にはローラムの亡骸が転がっていた。
「なかなか耐えたほうではないか」
泣き叫ぶラルダに、大岩の向こうから声がかけられた。
「おかげで若造の魂は失われたようだが」
言葉にならぬ絶叫をあげ、ラルダは大岩に掴みかかった。その身もろとも大岩は倒れ、まっ二つに割れた!
「ほうら、簡単に開いたろう?」
邪悪な嘲笑を浮かべた男が立っていた。
「殺してやるわ……。許さない!」
血の涙が流れる目に憎悪のありったけを込めて、ラルダは男を睨みつけた。
「無理なことよ」男は肩をすくめた。
「吸血鬼は吸血鬼を殺せぬ。そもそもめったなことでは死ねぬ。汝が我を殺せぬだけではない。我も汝を殺せはせぬ」
「だが、牙にかけた者を支配することはできるのだ」
男の目が妖光を放ち、ラルダは金縛りにあった。
「魂が失われた者は全くの下僕だ。その若造もそのうち空っぽのまま蘇る。そこで人間の血を吸えたなら転化を終えられる。めでたく汝の下僕というわけだ」
「冒涜よ!」
「汝が牙にかけたのだぞ」男はあざ笑った。
「こやつは転化できぬよ。汝がここにいた間、魔術師が乱入してきて洞窟を随分と焦がしたが、巨人に半殺しにされて連れ帰られたばかりだ。当分人間どもは洞窟へは来ぬ。だからこやつは血を得られず死ぬしかないというわけだ。いっておくが、汝の血など与えてもむだだぞ。汝はもう人間ではないのだからな」
「はじめからわかっていて……っ」
歯噛みするラルダにかまわず、男は続けた。
「だが、生きたまま転化した者は魂を失わぬ。肉体が我が支配に逆らえずとも、魂だけは抗おうとする。だから愉しいのだ」
男は笑った。牙を、嗜虐的な本性を剥き出して。
「少し前に我が牙を受けながら地上に連れ帰られた娘がいたが、我がもとへ戻る前に魂を擦り切れさせてしまった。アルマ、とか呼ばれていたか。あれでは話にならぬ」
ラルダは蒼白になった。相手の本当の目的を、留められた人としての魂の闇の深さを、これが始まりなのだとようやく悟って。必死に金縛りを破らんとあがくその耳に絶望的な宣告が届く。
「汝のような者を手に入れることを長い間待ち望んでいたのだ。手離しはせぬぞ、永劫に」
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