第1部:城塞都市の翳り 第10章:私室

 リアは寝台の上で目覚めた。頭の芯にかき回されたような痛みが残り、奇妙な疲労感が体にまとわりついていた。

 自分の部屋ではないと察した少女が身を起こしたそのとき扉が開き、アザリアが水差しを持って入ってきた。

「ここは……?」

「私の部屋よ」

 そう答えつつ呪文の師は汲んできたばかりの冷たい水をリアにすすめた。水の冷たさが奇妙な疲労感をはらしたとたん、それまでの記憶がよみがえった。

「アザリア様! 探知は成功したんですか? 吸血鬼はいったいどこに?」

「あなたは意識を失っていたのよ」

 腰を浮かせたリアを制しつつ、師は続けた。

「意識のないあなたを通じて大司教閣下は吸血鬼が見聞きしているものを探られたの。洞窟にいるのは間違いないとおっしゃられたわ」

「いったいどんな相手なのでしょう。何かわかったことは?」

「あの術は術者自身にしか感覚が伝わらないし、深入りしすぎると相手に気づかれてしまうから閣下にもほとんどわからなかったはずよ。でも」アザリアは眉を寄せた。

「なにかあったんですか?」

「閣下は三人だけで洞窟へゆくとおっしゃるの。あなたと、それにアラードだけをつれて」


 想像もしていなかった言葉に、リアは呆然としてただアザリアを見つめるばかりだった。そんな彼女にアザリアは気遣わしげな一瞥を向けた。

「閣下は洞窟に入るには少人数で身を隠しながらゆくしかない。だから僧侶の癒しや解呪の技、魔術師の術や探知の秘術もすべて身につけた自分がゆかねばならないとおっしゃるの。皆が反対したけれど、お聞き入れにならなかったわ」

「敵が手強いと考えておられる……、そうなんですね?」

 アザリアは頷いた。

「そもそも吸血鬼は普通の剣や魔法では倒せない、いくら倒してもすぐに復活してしまう怖ろしい魔物で、神聖魔法の解呪の技でその存在を禁じることによってのみ消滅させることができるのは知っているわね。でもあの術は神の秩序への絶対の信仰に基づく意思の力で呪われた存在それ自体を解体しようとする技だから、結局は敵の意思力との力比べになってしまう。閣下があそこまでおっしゃる以上、よほど強大な敵であると察しられたからとしか思えないのよ」

 重苦しい沈黙がおとずれた。


 自分を襲った黒い影がリアの脳裏にうかんだ。正体も姿も定かならぬそれは、いまや悪意と力のかたまりのように彼女には思えた。洞窟の奥底に待ちうける邪悪の権化のような影と対峙せねばならない自分があまりにも小さく無力に思えた。しかもこの身はしだいに恐ろしい影の力に取り込まれてゆくばかり……。

 絶望に屈しそうになった少女の耳に、アザリアの声がからくも届いた。

「あなたに謝らなければならないわね」

 リアは意表をつかれ、どういうことですかと師に訊ねた。

「どちらが、いや、両方ね」アザリアは答えた。

「初めにあなたが宣告をうけたとき、私はあなたが殺されるのを見過ごそうとした。でもあなたの嘆願に負けて、吸血鬼の意識を探る探知の秘術のことを話してしまった。そのせいであなたは、死ぬより恐ろしい旅の門出に立たされている」

 アザリアは目をそらした。

「私は迷いに迷ったあげく、あなたの絶望を引き伸ばすことしかできなかったのよ……」

 集会場での出来事がリアの心に蘇った刹那、あの激しい思いが再び燃え上がり無力感を打ち破った。少女は身を起こし師の手を取って叫んだ。

「そんなことはありません。アザリア様はチャンスを下さったんです!」

 アザリアはリアのひたむきな視線を無言で受けとめていたが、いきなり華奢な愛弟子をぐいと抱きよせた。

 思いがけぬ師の行動へのとまどいは、しかし次の瞬間、奇妙に甘い香りへの驚きにとってかわられた。その香りのもたらした欲望がまったく新しいものだったので、すぐにはそれが知っている香りであることに気づけなかった。

 次の瞬間、リアは悲鳴をあげ身をもぎ離した。それが師の体に脈打つ血の匂いなのを悟って。

「私の友も、アルマもそうだったわ」

 アザリアは硬い声で告げた。脳裏に遠い、けれど忘れられぬ声を、言葉を甦らせながら。自分がそれを感じていることにリアは気づき慄いた。己が身が、そして生来の力までが、異常な変貌を遂げつつあるそれは証だったから。直接師の肉体に触れたことでかき立てられた魔性の力が、忌むべき感応力をかつてなき強さで発動させたことを見せつけるものだったから。

「あなたは敵と闘うだけじゃない。時間と、なにより自分自身と闘わなくてはならないのよ」

 耳朶を打つ師の言葉に、けれどリアは聞き取った。師の記憶の奥底から浮かび重なるもう一つの声を。恐怖と絶望に軋む無惨な震え声を。

”アザリア。どうなるの、私、こわい……”

 瞬間、いまの接触で流れ込んだアザリアの記憶がリアの意識を圧倒した!




 栗色の巻き毛の小柄なアルマはアザリアと並び称された魔術師だった。同期生だった二人はすでにアルデガン最高の魔術師と称えられていたが、天分ではむしろアルマの方が上だった。

 だがもともと温和な性格のアルマは戦いの修羅場が続く中で神経をすり減らし、なにかとアザリアを頼りにしていた。高位魔術師であったゆえ彼らは同じパーティに入ることはできず、それぞれが自分の仲間たちの生死を預かる重責を双肩に負い心身を削る戦いを続けていた。


 ある時アザリアは過労のあまり高熱を出し命さえ危ぶまれる容態となった。アルマはアザリアの欠けた穴を埋めるためより多くの戦いに駆り出された。

 そんなある日、アザリアのパーティに加わったアルマは吸血鬼の毒牙にかかってしまった。仲間たちの死に物狂いの抵抗でなんとか地上に帰還できたものの、ラーダ寺院の一室に閉じ込められるほかなかった。

 意識を取り戻したアザリアがこのことを知ったのは、事件からもう幾日も過ぎたあとだった。未だ熱の下がりきらぬ体を引きずり彼女はアルマのもとを訪れた。見るも無残にやつれ果てたアルマの姿にアザリアは思わず彼女を抱き寄せ詫びようとした。

 そのときアルマは血の凍るような叫びを上げ、アザリアの腕をもぎ放した。牙の伸びつつある口元を押さえ、恐怖と絶望に塗りつぶされようとする目で、打たれたように立ち尽くすアザリアにアルマはいったのだ。

”アザリア。どうなるの、私、こわい……”




 アザリアは頭を振り忌むべき記憶を追いやると、右腕にはめていた紫水晶の腕輪をはずした。ようやく我に返った少女に、師はそれを差し出した。

「これを着けていきなさい、リア」

「だめです! それは支えの腕輪」

「そう、人間の意思の力を高め魔力を強める腕輪。この腕輪のおかげで、こんな私もあなたたちに初歩的な魔法を教えるだけならなんとかこなしてこれたのよ」

 アザリアの唇にかすかな自嘲が浮かんだ。

「だからこそ、今のあなたに必要なのよ。これはあなたの意思を強める。敵の支配の意思や魔力にあなたが抵坑しようとするとき必ず力を与えてくれる」

 アザリアはリアの右腕に腕輪をはめた。触れたその手を通じ、師の思いが伝わってきた。

「でも、これはあくまで支えにすぎない。あなたに何らかの意思があってはじめて力を発揮するものなのよ。忘れないで」

「アザリア様、私……」

「いいのよ」アザリアは制した。

「私はこれからアルデガンの外へ出向かなくてはならない。人間相手に魔法を使うわけにはいかないのだから」


 鐘楼から正午の鐘がきこえてきた。

「いかなければならないわ、もう。私も、あなたも」

 アザリアは椅子から立ち上がった。

「別々の道を行くことになってしまったけれど、どこかで思いがけない会い方をするような、いえ、そうなりたいものね」

「あの、一つだけ教えて下さい。そのお友達の方はどうなられたのですか……?」

 慄きを隠せぬ愛弟子の、あのアルマの言葉にも似た問いかけにアザリアは思わず目を伏せたが、意を決し姿勢を正した。癒えぬ古傷のごときその痛みに、窺いきれなかった結末を不安のあまり問わずにいられなかった己を悔いるリア。だが時遅く、恐るべき答えが耳に届いた。

「アルマを襲った吸血鬼は私たちを嘲笑いながら洞窟の中を逃げ回ったわ。奴に追いつけずにいるうちに彼女は恐怖に擦り切れて絶望に屈し、とうとう吸血鬼に精神を乗っ取られて襲いかかってきたの」

 立ち上がったアザリアは扉を開き、背を向けたまま告げた。

「私が焼き尽くしたのよ。この手で、アルマを」

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