62. 焦りと近づくモノ
嵐のように元気を振りまく女子生徒が慌ただしく去り、ひとときの静寂に包まれた放課後の教室。そこで困ったようにため息をついているのは、友人から思わぬ話を聞かされて困惑している菜月だ。
(はぁ、まさかこんな身近に大也くんのファンがいるなんて……)
実際には大也の、というよりも金剛の、といった方が正しいのだが、菜月は金剛としての彼と接した時間がほとんどないため、同一視してしまうのは仕方がないことだろう。
憂いや焦りの宿った双眸を瞼で隠しつつ、一つの決意を固める乙女。
(大也くんがあの執事喫茶でバイトしてることは絶対に隠し通さないとっ!)
強い思いを胸にしまいこみ、菜月は先ほど物音を発生させるという失態を犯した張本人へと話しかける。
「……久世くん。聞いてたよね? 葵のことどう思う?」
「いやー、オレもマジで驚いた。まさかクラスメイトに金剛のファンがいたとは……。さっきの音、誤魔化してくれてありがとな。東内さんについてだけど、本人も言ってたようにただのファンっぽいし、恋愛感情とかじゃなさそうだから心配はいらないと思うぜ? アイツの執事モードはヤバいからなぁ……。ファンならたくさんいるって」
どこからか出現し、焦ったように頭を掻きながら説明する翔斗だが、その表情に緊張感などなく、声を含めて仕草以外はいつもの自然体といった様子だ。だからこそそこには嘘や誤魔化しが感じられず、率直な意見であることが伺える。
それによって少しだけホッとした菜月は、彼の本心から紡がれた言葉の中で一つ気になった単語があったためそれを尋ねた。
「それならいいんだけど……。それで、その執事モードって?」
「羞恥心を捨てて女性に尽くす状態、かなぁ。上手く言葉にするのは難しいけど、歯の浮くようなセリフだって自然に出てくるし、それが全部本心から褒めたり笑ったりしてるから余計性質悪いというか……。まあとにかく、さっきも言ったけど天性の人たらしであることは間違いない。だから先生のことだって――――」
自分が声をかけてもらったときもその状態だったのだろう。当時の話を振り返っていた際に大也が恥ずかしそうにしていたことを思い出した菜月は、そのことをすぐに理解した。
しかし話の続きを聞いている途中で突然ハッとした表情になり、彼女は問いに答えてくれている友人の言葉を遮ってしまう。
「そうだったっ! 早く様子見に行かないと! 生徒指導室だったよねっ!?」
焦ったように叫んだかと思うと、そのまま走り去っていく菜月。その背中は先ほどの葵のそれとそっくりで、翔斗は既視感を覚えながら苦笑いを浮かべながら小さく呟いた。
「……返事聞かずに行くのかよ。はぁ、とりあえず追いかけねえとな」
頬を緩めて口角を上げた彼は、自分の席とその前後に置いてある三つのカバンを手に持ち、他に誰もいない教室を後にする。親友がすぐバイトへ迎えるように、ここへ戻ってくる手間を減らそうと考えたようだ。
無人となった教室を背に歩みを進めながら、翔斗は再び小さな笑みを浮かべて呟く。
「まあでも、面白そうだからいいか」
静かな廊下を一人楽しそうに歩く彼であったが、瞳だけは実に真剣であり、そこには友への思いやりと覚悟が秘められているようであった。
「ん? あれは……」
マイペースに廊下を進む翔斗の視界に入ってきたのは、朝からこれまでに何度か名前を聞いた元クラスメイト。ほとんど生徒の残っていない校舎内を、キョロキョロ視線をさまよわせながら歩いているところからして、誰かを探しているというところだろうか。
そう察した彼にとって、不審者が探す目的の人物が誰なのかは明白であった。
(さっき東内さんが言ってたのと同じ理由で、部活勧誘中に黄波さんが帰ってないことに気付いたってところか? もしそうなら相当だぞ、こいつ……。オレのいないとこで黄波さんと遭遇してなくてマジでよかった……)
先に走っていった菜月が鉢合わせなかったことに安堵しつつ警戒心を強める翔斗であったが、当の不審な生徒は目的の人物以外が視界に入っていないらしく、彼のことは一瞥しただけですぐに横を通り過ぎて行った。
(元クラスメイトに対して挨拶もなしか……。黄波さんと別のクラスになって焦ってんのか? たしか
先ほど無人になったばかりの教室の方向へと早歩きで消えていった元クラスメイトに対し、馬鹿な真似だけはしてくれるなよ、と翔斗は内心で警告する。
そして彼は再び目的地へと歩みを進めつつ、帰り際に見つかるリスクを減らすための策を思案するのだった。
太陽と同じ時間に存在する白い月。夜になると明るく輝き出すそれは、青空に囲まれて守られているようであった。
――――――――――――――
担任教師から呼び出され、親友とやってきた生徒指導室。あまり近づきたくない印象のあるこの部屋で菜月さんの件に関して青星先生と情報交換を行い、ひとまずの対策を話し合ってその小会議は終了した。
しかし、親友の翔斗は解放されたにも関わらず、俺はいまだにその生徒指導室に座っている。理由は単純で、何の気なしに進路のことを伝えたところ、先生から個別面談を宣告されたから。
バイトの時間までは余裕があるものの、もし菜月さんが俺と話すために残ってくれているなら早めに切り上げて相談したいので、この延長戦を早急に片付けようと頑張った。
その努力が実を結び、進路相談はあまり時間をかけず終えることができそうなところである。
ただ、それほど世界は甘くないということをこの後痛感することになるわけだが……。
「―――― では黒菱くん、進路の件はこれからも適宜話し合っていくということでいいですか?」
「はい。これからもよろしくお願いします」
確認のためちょこっと首を傾げたことで、先生の青みがかった黒色の長髪がわずかに揺れた。同色の大きな瞳からは生徒への思いやりが感じられ、とても教師歴三年目とは思えない雰囲気を醸し出している。
それでいて容姿は年齢よりも若く見えるくらいで、こうして向き合っていると何度目であっても見惚れてしまうほどに端正な顔立ちだ。
対面に座る美人教師は分かっていないらしい。そんな先生に優しい微笑みで話しかけられたときの男子生徒の気持ちを。
「近くの国公立を受験する以上、勉強についてはこれまでより厳しい言葉をかけますからね?」
「……か、覚悟しておきます」
あまりの美しさに見惚れて言葉が出なくなりそうになったものの、勉強に関して発破をかけられたこともあって何とか持ちこたえることができた。
とはいえ、それもぎりぎりの戦いで、接客で鍛え上げた表情筋を総動員して平静を装っている状態だ。そんな俺のことを知らない先生は、さらにプレッシャーがかかるようなことを言ってくる。
「さしあたっては明日のテストですね。あまりにひどい点数なら明日も呼び出します。アルバイトのことも相談しなくてはなりませんし」
「頑張るので勘弁してください……」
バイトを制限されることもそうだが、何よりもこれ以上悪目立ちしたくないという思いがあった。理由はどうであれ、教師から呼び出されるというのは他の生徒から見たときに印象が良くない。
これから菜月さんのことで目立つ可能性があるのに、それまでに悪い印象があるのは不都合なのだ。
しかし、青星先生は別の解釈をしてしまったようである。
「そ、それは私と話したくないということ……ですか?」
「違いますよ。ただあんまりクラスで悪い印象を持たれたくないだけです。それに、先生とこうやって話せるのは役得というか、男子生徒なら嬉しいと思います。美人で優しい大人の女性と二人きりなんですから」
進路の話を今後もしていくことになったのだから、当然話したくないなどと思うはずがない。冷静に考えれば分かるはずなので、先生はいくらか動揺しているのだろう。
かくいう俺もまた、不安そうに悲しげな瞳で担任教師から問われたことで冷静さというものを失っていたようだ。
執事モードでしか言えない言葉が出てしまっているのがその証拠だ。
「……えっ? あ、その、それなら黒菱くんは私のこと……?」
思わず口走った恥ずかしいセリフを聞いて顔を赤くした先生が、ジッとこちらを見つめながら同意を求めてきた。
多少あやしい雰囲気があったものの、ここで求められていることを間違えるほど空気が読めないとは自分では思っていない。
「? もちろん尊敬してますし、(教師として)好きですけど……。そんなに照れなくてもいいのでは……?」
「や、やっぱりそうなんですか!? 私のこと、(異性として)好きなんですか? う、嬉しいですけど、生徒と教師なので、その、あの……」
(……いや、これは間違えたか? もうね、驚き方とか反応の可愛さとか聞こえてくる単語とかがそれを物語ってるっていう……)
「……すみません、やっぱりという部分について、どういうことか教えてもらっていいですか?」
可愛らしくあたふたしているところ申し訳ないと思いつつ、確認しておくべきことを質問しておく。
それに対する先生の回答は、完全に想定外のところから俺の脳に衝撃を与えるものであった。
「え、えーっと、その……文化祭のときに久世くんが『大也は年上にしか興味ないので黄波さんと一緒でも問題ないですよ!』って言ったじゃないですか? それからしばらくして、黒菱くんが私のこと好きみたいって生徒から聞きまして……」
教師らしい厳格な雰囲気が皆無の青星先生。チラチラと視線を向けてこちらの様子を伺いながら、今の状況が落ち着かないのか手を握ったり閉じたりしている。
(普段の大人びた雰囲気とのギャップは最高だよ? でもさ、ホントマジで――――)
「どうしてそうなった……?」
頭を抱え、そのまま机に突っ伏した。
(誰か助けてくれ……)
心の底でそう願ったことを間もなく後悔することになるなど、このときの俺がどうして予想できるだろう。いや、できるはずがない。
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