46. 二人のその後
春の夕陽に照らされながら少し駆け足で我が家へと戻り、閉めていた鍵を開けて母さんの様子を確認する。
「ただいま、母さん。すげえテンションだったけど、体調大丈夫なのか?」
「おかえりー。だいじょーぶ、げんきげんき」
高級なケーキと紅茶を味わったテーブルに伏せた状態でこちらを向き、先ほどまでとは比べ物にならない弱々しい声で答える母さん。見ていたくないその無理な笑顔をされれば、否が応でも状態を察することができる。
「……無理してたんだろ。ほら、早く布団敷いて横になれって」
「あーうん。ありがとね……」
「もっと自分の身体労わってくれ……」
「……だって大也があんなに可愛い子連れてくるから」
しまっておいた布団をいつもの定位置に広げていると、やはり力のない声で子どものような言い訳が聞こえてきた。
「だって、じゃねえ。というか、俺のせいかよ……」
「……ホント、どうして繰り返すかなぁ」
大人ならもっと自制心をはたらかせてくれよと思いつつも、若干の申し訳なさを感じていると、近くまでふらふらと歩いてきた母さんが遠くを見ながら呟いた。
「……どうしたんだよ、いきなり?」
「ううん、なんでもない……。あ、今日は晩御飯いらないから好きなモノ食べておいで」
いつもの寝床へと入り、今にも泣きだしそうな顔を隠すかのように布団をかぶった母さんがまた困ることを言う。それではダメだと、いつも言っているだろうに……。
「食欲ないのは無理してケーキ食べたからだろ……。適当に栄養ゼリーみたいなもの買ってくるから、それくらいは胃に入れて薬飲むように。じゃあ買い物行ってくるから、しばらく寝とけよ」
「……うん。でもまあ、さすがマザコン息子ね。怖いくらいの世話焼き具合っ!」
「……違うって言ってんだろ。それじゃ、行ってくる」
再びカギを手に取り、財布や買い物カバンを持って玄関へと向かう。
「これじゃどっちが親かわからないじゃん……」
靴を履いていると、背中越しに小さくか細い呟きが漏れたような気がした。その内容までは聞き取れなかったが、どうしてか胸が締め付けられるのだった。
「はぁ。あのお金は俺の学費なんかよりも母さんの治療費に、なんて言ったら怒られるんだろうけど……。ホント、どうすりゃいいんだよ……」
いつもの買い物ルートを歩きながら、独り呟く。自問自答を繰り返してみても、そこに答えなどありはしなかった。一度感謝して頑張ると決めたものの、それは母さんが生きていてこそのことだ。直近の診察では特に変わったことは言われていないが、いつ容態が急変するか分からない。根本的な治療ができなければ、この不安が消えることもないのである。
「はぁ……」
まだ肌寒い春の夕暮れ時、社会人たちの労働が終わる定時を過ぎたこともあって店の周辺も人が多くなってきている。
「ん? ……気のせいか?」
地面をうごめく無数の黒い影。そのいずれかに見られていた気がして、周囲を見渡してみる。しかしその気配は瞬時に霧散していった。
(執事姿でもないし、自意識過剰だったか……。自分で思ってるよりも疲れてるのかもなぁ……)
もったいないと思いながら自分用の栄養ドリンクも母さん用のゼリーと一緒に購入した俺は、気持ちを整理しつつも素早い足取りで帰宅したのだった。
―――――――――――
夕陽によってオレンジへと色を変えた、白宮守家所有の白塗り高級車内にて。
「――― あれ、ここは……?」
「お嬢様、お気づきになられましたか?」
「爺や……? 車の中、ですか?」
シートベルトに固定された状態で倒された座席に寝転がっていた雪華は、まだはっきりとしていない意識で周りを見渡しながら、自分を運搬している乗り物の運転手へと尋ねた。
尋ねられた老執事はミラー越しに主人の様子を確認しつつ、いつも通りの安全運転を維持しながら言葉を返す。
「はい。気を失う前のことは覚えていらっしゃいますか?」
「えっと……たしか、大也さんと一緒に歩いていて……。あれ、何があったのか思い出せません……」
小さな手を頭へと持っていき、可愛らしく首を傾げながら記憶を掘り起こす雪華。しかし思い出すことは叶わず、わずかにしょんぼりとしたご様子だ。
「私も詳しい事情までは聴いておりませんが、ご無事でいらっしゃるのであれば何よりでございます」
「……もしかして、彼と話をしたのですか?」
理由はどうであれ、意識を失っていた自分を放置して帰る人ではない。それが理解できている雪華とって、答えは聞く必要がないものであった。
「ええ。とても誠実で優しい方のようでした。お名前は黒菱大也さん、とおっしゃるのですね。高校生だとお聞きしましたが、礼儀も正しく大人びておいででした」
しかしそこに重大な情報があったため、彼女の心は揺さぶられてしまった。
(今まで隠してきたのに、本当の名前がバレてしまいました……。私が意識を失わなければ、大也さんと爺やが話をするようなことにはならなかったはずなのに……。もしこれが家の人間、美桜とかに伝わったら迷惑をかけることになりかねません……)
自分がどうにかするしかない。責任を感じてその覚悟を決めた雪華は、何を考えているのか分からない不気味さを持つ老執事へと立ち向かう。
「か、彼のこと、家には内緒にしてくれますか?」
「お嬢様のご命令とあらば。……これは個人的な興味なのですが、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
とはいえ、この老執事は仕事に忠実な男である。仕える主人のワガママを聞くことくらいは朝飯前だ。そんな熟練の使用人が、珍しく自身の興味で主人へと理由を尋ねた。
主人である令嬢はそのことに意外感を覚えつつ、己の中にある不安を自身の言葉で説明する。
「えっと、その……彼の家にもいろいろ事情があるようですし、それを無理に詮索するようなことはさせたくないからです。私の関係者となれば、彼やその家族を調査したり、その……もしかしたら害するということまでありえますから……」
「きちんと状況把握が出来ておられますね。ただ、その要注意人物の筆頭に挙がるのが私の孫であること、誠に申し訳なく思っております……」
切腹でもしかねないほどに身内の恥を詫びる老執事に、雪華は複雑な気持ちになった。一人で抱えていてもどうしようもないこの気持ちについても。彼女は遠慮がちに言葉へと変える。
「美桜の気持ちは嬉しいのですけど、私の大切な人たちに何かするのは許せません……。もっと強く言えばいいのかもしれないですけど、その場合でもどうなってしまうのか恐ろしくて……」
「弁明の余地もありません……。教育は娘に任せておりましたが、どうしてこうなってしまったのか……。本日もお嬢様の動向を追跡しようと企んでいたようでしたので、お嬢様が約束なされている料理に集中できるよう、キッチンへと閉じ込めて参りました」
「……流石ですね」
浮かれ気分だったせいでメイドの思惑にまったく気づかなかった自分を情けなく思いつつ、雪華は老執事の実力に改めて感嘆した。
何事もこなせそうなオーラを放つそのベテラン執事だが、彼は当然全能というわけではない。
「ですが、一つ気がかりなことがありまして……。あまりに潔く諦めたうえに、いつものように喚かなかったのです。娘の再教育が効いたのか、それとも……」
「考えられるとすれば協力者の存在ですけど……。美桜って友達いるのでしょうか? いつも私につきっきりでしたし、他の人には興味ない感じですよね……」
鋭い推測を述べるご令嬢だが、説明をしていて悲しい気持ちになったのか、徐々に表情と声のトーンが沈んでいった。立場の問題があるせいで、美桜は基本的に自分の話をしない。学院でも主人のことが最優先で、他の誰かと談笑している場面など雪華は見たことがなかった。
一つの問題に気づかされた彼女の姿をミラーで確認した老執事。今のお嬢様であれば乗り越えられるはずだと信じて不要なことは口にしない。
「私も把握しておりませんが、あの孫と気が合うとすればお嬢様に対して異常な愛を抱いている者でしょうか。そのような人物に心当たりはございますか?」
「……は、はい。私が家の集まりに参加しなくなってからしばらくお会いしてませんけど、――――さんが怪しいかなと。美桜と年も近いはずですし、最後にお会いしたとき二人から迫られたことを思い出しました……」
封印していた嫌な記憶を呼び起こしてわずかに表情を曇らせた雪華であったが、その忘れ去りたい過去の情報は老執事にとって有益なものであった。
「……あの家のご令嬢ですか。話を聞く限り、その可能性は十分にございますね。情報が少なくまだ真相がはっきりしたわけではありませんが、この件に関しては、まさかあの美桜が他人の手を借りるとは考えていなかった私の失態です。もし黒菱様にご迷惑をお掛けするようであれば、孫とはいえ徹底的に落とし前をつけさせましょう」
「爺や……? 何かあったのですか?」
いつもより口数が多く、そこに普段は含まれない感情を聞き取った雪華は困惑したように尋ねる。それに対して老執事は苦笑しながら曖昧な言葉を返した。
「少し昔のことを思い出しまして……。あのとき何もできなかった自分を恥じておりました」
「それって……?」
「それはお話しできません……。ですが、私はお嬢様の味方です。雪華お嬢様の初恋が成就するよう、全力でお力添えいたします」
「や、やはり爺やにもバレていましたか……」
既に自覚している感情を何でもできそうな執事に見極められたところで、今の彼女は大きく動揺したりはしない。しかしこれまでは無表情だっただけに、細心の注意を払わなければ察する者も出てくる。
ベテラン執事はそのことをきちんと説明した。
「失礼ながら、最近のお嬢様は分かりやすくなられましたので。彼の存在を知っていればすぐに理解できましょう。そのようなわけもございますので、できるだけ家の人間の前ではいつものような無表情を貫いてください」
「……わかりました」
「それから、その手に握っているモノと髪型もどうにかしておきましょう。思わぬところから口を滑らせる可能性もあります」
「え? あ、これ……」
寝起きからいろいろな情報が入ってきたせいで自分の状況に意識が向いていなかった雪華。肩に乗った二本の白銀の尻尾と、既に握りしめ慣れたいつもの感触にようやく気が付いた。
(今度お母様にヘアゴム返しに行かないと……。大也さんも、いつもの飴玉を……)
「えへへ……」
「お嬢様? ……本当に大丈夫ですか?」
緩んだ表情で嬉しさを隠しきれていない主人に、やる気に満ちた老執事は不安の念を覚えるのであった。
―――――――――――
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