3 声

 ぱちぱちと、音をたてて火の粉が爆ぜる。適度な長さに折った枝を炎の中へと放り、狭雲は空を見上げた。薄墨に、数滴青を垂らしたような色だった。

 暮れが早く夜明けの遅いこの季節では、正確な今の時刻は計りにくい。影絵のような木々の隙間から覗く空に星の姿を見つけることができて、かろうじて夜の始まりなのだとわかる程度だ。


 佐久耶はもう自分のねぐらに戻っているだろう。人のそばにあまり近づくことのない相棒は、それでも狭雲が必要としている時にだけは必ず姿を現す。

 狭雲は時折、実は佐久耶は人の言葉を解しているのではないかと思う時があった。それほどに、かの鳥は他の鳥たちとどこか違うところがあるように感じるのだ。

 少し大きくなりすぎた火柱に、枝をくべる手をとめた。

 ふと、滑空する佐久耶に怯えた少女の顔を思い出し、口元に笑みが浮かんでいた。


――あなたの正体が妖でも人でもそれ以外でも、狭雲は狭雲でしょ? それ以上に重要なことはないわ。


 つられて甦った記憶に、じわりと胸の辺りに何かがこみあげてきて戸惑いを感じ眉を寄せる。見たのは泣き顔のほうが多かったくらいなのに、なぜだかあの真剣な表情が頭から離れない。

 同時に、戒めのように遠い昔のある一瞬を思い出す。怯えて、強い拒絶を示す瞳を。

 手のひらに視線を落とすと、その中心が、ふいに赤く滲んだ気がした。息を詰まらせぎゅっと拳の形に握る。恐る恐るもう一度開くと、そこには一滴の赤も浮かんではいなかった。

 ぱちん、と炎が一際大きな音をたてる。はっとして、節ごと竹を混ぜてしまったかと手近な場所にあった枝をとる。火を掻こうとした、その時だった。


「誰だ!」


 感じた気配に向けて手にしていた枝を放つ。

 しかし、それが相手に当たった手ごたえはなかった。腰に帯びた大刀の柄に手をやる。

 と、明かりに照らされ現れた姿を見て、狭雲は息を呑んだ。


「……お前は……」


              *

 

「姉さま、狭雲とはもう話した?」


 ふいの問いかけに、依はどきりとした。帳の向こうから姿を現して目の前に座った珠津姫は、身なりを整えはしていたもののやはり疲れが顔に見えた。その彼女から、予想もしていなかった名前を聞いて動揺した。冷静を装ってうなずく。


「う、うん。話したけど……」


 それだけじゃなく、叩いたり抱えられたりからかわれたりしたのだが、それは言わなかった。


「そう。よかった」


 安堵したような妹の様子に、首を傾げる。


「なにが、よかったの……?」


 依の問いかけに、まるで思いがけないことを言われたというように珠津姫は目を瞬かせた。何気ない調子で言う。


「姉さまと狭雲は、知り合いなのでしょう?」


 しばらくの沈黙。今度は、依が驚く番だった。


「……えぇ!?」

「違うの……? 少なくとも狭雲は、姉さまを知っているようだったけれど」


 怪訝そうな様子に、ぐっと言葉に詰まる。はっきりと否定はできなかった。依はまだ五依姫としての記憶を全て思い出したとはいえない。そして、狭雲については知らないことが多すぎたからだ。


「だって狭雲、そんなこと今まで一言も……」

「言いだせなかったのかしら。探していたはずなのに」


 その言葉に、森での彼の台詞を思い出す。


――あなたを探していた。


 それは、宮の人間としてなのだと思っていた。命令に従って、依を探していたのだと。もしそれが、彼個人としての言葉だったとするなら。


「……どうして……」


 歯がゆさに拳を握った。

 なぜ狭雲は問いかけてくれなかったのか。俺を覚えているかと。そしてなぜ言ってくれなかったのか。俺はあなたを知っていると。

 けれど一番歯がゆいのは。

 こう聞いた今でも、自分のなかに、彼についての記憶が欠片も甦らないこと。


「……姉さまが羨ましい」


 ふいに珠津姫がつぶやいた。

 なぜ、と視線で問うと、彼女は短く息をついた。


「姉さまは五依姫。別々の流れをまとめるように、縁を繋ぐ人よ。だから、名も知らないのに探してくれるような人がいる」


 狭雲のことだろうかと、なんとなく思った。さらりと珠津姫の長い髪が布の上を滑る。背を丸めてうつむいた彼女は、先ほどまでより小さく見えた。


「わたくしだったら、どうかしら……」


 独り言のような言葉だった。


「露草は……? 彼は、あなたの供人ではないの?」


 訊ねると、明らかに彼女の顔が曇った。


「……露草は、わたくしの乳兄弟なの。姉さまがいなくなってあまりにわたくしが沈んでいたから……乳母が呼び寄せてくれて、それからずっと一緒にいてくれたの」


 その言葉に、おぼろげな記憶ながらお互い別々の乳母がついていたことを、思い出す。珠津姫の乳母であるという女性は気のよさそうな美人で、言われると確かに露草に目元の辺りが似ていたかもしれない。


「けれど、露草も昔とはすっかり変わってしまった……」


 その変わってしまったことが、表情を曇らせた原因なのだろう。ふっと宙を見上げた彼女は、吐息とともにつぶやく。


「ときどき考えるの。もし、鎮圧に行ったのがわたくしだったなら……狭雲のように探してくれる者がいたかしら、って……」

「鎮圧……?」


 繰り返した途端、頭に激しい痛みを感じた。

 揺れる金色。赤。

 心臓が狂ったように脈打ち、呼吸すら難しくなる。手足からはすっと血の気が引いていった。

 異変に気づいたのだろう。珠津姫が顔を上げた。


「姉さま……?」

「大、丈夫……」


 そう返すのがやっとだった。意識して呼吸を繰り返すと、頭の内側から叩かれているかのような痛みは、次第におさまっていった。


「……なにか、思い出したくないことがあるのね……」


 おずおずと、ためらいがちに珠津姫が手を伸ばす。脂汗が滲んで額に張りついた髪を、指先で払う。ひんやりとした指が肌に触れた。


「焦らないで……。姉さまの嫌なことは、思い出さなくていい。どうしても知りたいのなら、ゆっくりとでいいの」


 優しくなでられる感触に、ほうっと息を吐きだす。痛みも息苦しさも、もうほとんど引いていた。


――なにもかも、ゆっくりでいいんだ。


 こんなときでも、兄の言葉を思い出す。会えないからこそ、その言動が端々にちらつく。それを自覚して、長々とため息をついた。人のことは言えない。


「今日は、もう休むわ」


 立ち上がると、袖を引かれた。


「次に来るときは、もっといろいろ姉さまのことを教えて?」 


 見上げてくる珠津姫の目は、外への好奇心に満ちていた。


「姉さまが、今までどんな風に暮らしてきたのか知りたいの。だから聞かせて。どんなものを見て、どう感じてきたのか。わたくしの、命のあるうちに」

「それってどういう――」


 彼女が最後に付け加えた台詞に、眉間を歪め、言及しようとしたときだった。

 突如、甲高い女の悲鳴が辺りに響き渡った。

 反射的に声のしたほうを見た。聞こえた声量からして、御館にかなり近い。


「……来たのね」


 やけに冷静な声音に、振り返る。珠津姫はただじっと声の聞こえた方向を見据えていた。

 嫌なものを感じて、迷いなく、部屋を飛び出す。そのまま悲鳴の聞こえたほうへ足早に向かう。渡り廊にさしかかる前に、それはすぐ目に飛びこんできた。


「これは……っ」 


 眼前に広がる光景。それは一種異様な眺めだった。

 篝火の明かりを受け、珠津姫の寝所となる御館をぐるりと囲むようにまかれたそれは白々と浮かんで見える。

 ふわりと鼻先をかすめたのは、この季節には香るはずのない花の匂い。

 辺り一面に敷きつめられていたのは、桜の花だった。


「なんだって、ここだけ……」

「桜の時期じゃないのに」


 悲鳴で集まったらしい従婢や兵の声がする。そのなかの一人の女が、数人に囲まれすすり泣いていた。どうやら、悲鳴の主は彼女のようだ。珠津姫の部屋に灯りを入れに行こうとしていたのか、火の消えた手燭が足元に転がっている。人の集まりの前へ出るわけにもいかず、依は円柱に隠れるようにして様子をうかがった。


「宮に仕える者が、これくらいで悲鳴をあげるなんて」


 女を叱っているのは、真智だ。けれど、叱責を受けている彼女は気丈に頭を振る。


「大声をあげてしまったことは申し訳ないと思っています。けれど真智様、私聞いたことがあるのです。季節外れの植物には、神様が宿るって」

「ああ、それなら俺も聞いたぞ。確か隣の村の奴が川で時期外れの真っ赤な鬼灯が浮いているのを見たって話した後――」

「そうそう。そいつ、次の朝には死んじまってたんだってな。神様の宿る鬼灯を見ちまったからだってうちのじいさんは言ってたが……」


 その言葉に、ざわざわと人の波がざわめく。


「気味が悪い」

「これも、珠津姫様の託宣の影響なの?」

「しっ、そんなことを言うものじゃないわ」

「でも、これで桜を見たあたしたちも命を落とすなんてことは……」

「馬鹿なことを言わないで」


 不吉な言葉が飛び交う。だれもが目に見えないものに怯えていた。それはそうだ、いくら不思議なものに慣れている依といえど、この異様な光景には背筋が冷えた。


 明らかに、人にはできないことだ。


「静まりなさい!」


 やまない囁きに一喝がとぶ。真智だった。


「私たちは、珠津姫様の御身と宮のことを一番に考えなければならないはず。不吉な託宣ごときに心を乱して真に大事にすべきことを疎かにするような者がいるのなら、即刻宮を去りなさい!」


 しんと、水を打ったように辺りが静まりかえる。

 と、突然どこからともなく快活な笑い声が響いた。


「はは、あんたは相変わらず、手厳しいこった」

「この声は……」


 真智の苦々しいつぶやき。


「大蛇の討伐はどうしたのです。まさか、逃げ帰ってきたわけではないでしょうね?」

「そんなまさか。ちゃんと仕事を片付けて戻って来たに決まってんだろ。ついでにお土産まで連れて、な」


 真智と話している相手の姿はよく見えない。けれど、今まで宮で出会っただれとも雰囲気が違う。そして、大蛇という言葉に依は目をみはった。彼が、村に行った宮の兵なのかもしれない。


「土産……? また、どこの子どもを拾ってきたのやら」

「違うさ。今度は大人だ。それも聞いて驚け」


 もっとよく聞こうと身を乗り出したときだ。


「依」


 聞き慣れた声がした。ここにいるはずのない。けれど、長い間近くで耳にしてきた声。間違えたりしない。振り向くと、背後で男が自慢げに告げるのが聞こえた。


「五人衆の一人、新しい新役様だ」


 その姿を視界にとめたのと、抱きすくめられたのはほとんど同時だった。懐かしい香りに包まれる。


「羽都彦……兄さん」


 森で別れた兄が、そこにいた。


「本当に依だった。まさか御館の近くで会えるとは思わなかった……離れたのは少しの間だけなのに、ずいぶん雰囲気が変わったね」


 聞き慣れた声、そしてここではほとんど呼ばれることのない呼び名に、知らず体の力が抜けていくような気がした。抱きしめる力の強さに、苦笑する。


「兄さん……苦しい」

「ああ、ごめん。つい」

 

 悪びれた様子もなく、羽都彦はそう笑って体を離した。周囲を気にしてか声量を抑えているものの、その優しく柔らかな声音は変わらない。


「村は無事だ。大蛇は、もういないよ」


 たった二日ほど離れていただけなのに、もう長い間見ていなかったような気のする微笑み。すべてが、幻ではないと告げている。

 囁くように、彼は言った。


「迎えに来たんだ。逃げよう、ここから。俺と一緒に」

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