第22話

 渋谷スクランブル交差点。何万人もの民主主義者たちが集結していた。

 陶酔する大衆、救いようのないバカ達の蠕動。頭上には大量の立体動画。お寿司の叩くかーん、かーんという鐘のリズム。ハンナが寝起きしていた中学校の屋上から持ってきた鐘であった。彼の叩く鐘の音とバスドラムは電気信号に変換され、無線でつながれた何百もののスピーカーによって渋谷中に鳴り響いた。

 母からすれば、暴徒に家の周囲を囲まれた現在の状況、無知ゆえに何もわからず、歌とドラムがループする、二十一世紀に流行ったコールドプレイの「Viva La Vida」のマッシュアップが響き続ける。おおおーおーおー、おおおーおーおー、と無限に、終わりはなく、民衆たちは飛び跳ねる、自らを超イケてる革命家だと信じてる。純白のアベレージたち、スペクトラム、グリッド、フラクタル。みんなが同じ問題意識、共有してる。内的な均一化って最高。

 だが只の凡人たちの嫉妬以外のなにものでもなかった。日本を再び民主化する、なんて崇高な意思をもってデモに参加した人間は居なかった。事実マルテのバンドのファンだけの娘たちも多く、コールドプレイの曲を知らずにどうしていいかわからない様子でなんとなく合わせて歌っていた。非構造化データをAIが解析して、規則性が抽出し整理されていく様に、デモのメンバーたちはうねり、一体化したダンスミュージック・ロック・ポピュリズム・ファシズムに共通するプロセスを最高速度でかっ飛ばし続けた。同じ情報、同じリズムの繰り返しで彼らは快楽を得ていた。右組、左組、アート組やフェミニスト組やLGBT組、トランスヒューマニストに表現の自由組やオタク組。主張はどうあれ通常時の理性はとっくに機能不全を起こしており、爆音の一定のリズムは多様な属性を持つ大衆のディテールを吹き飛ばし、おしなべてただのアホに変えた。最終的に三単語くらいの繰り返しを叫ぶようになり、えええええええーーーーーっ、おおおおおーーーーーーう、と猿叫のような奇声のみ発しているやつもいた。ちょっと不穏な雰囲気を醸し出す、黒の目出し帽をかぶった多分そうとうヤバいやつらが百人にひとりくらいの比率で居るのが、ちょっとこわかったが、フィルは気にするな、と言っているのでまあ気にしない。


 マルテはハチ公を背にしたステージの上で、SHURE-SM57のマイクを握って歌っていた。「どくさい、はんたい」「どくさい、はんたい」コール&レスポンスの反復は彼を高揚させた。目の前には代々木から渋谷まで続く無限とも思える夥しい数の大衆が列をなしている。その中でも最もミーハーな者たちが、イケメンなデモのリーダーを一目見ておこうと、交差点ステージ付近にぎゅんぎゅん集まっていた。その量は次第に増え、はみ出して各主要道路も人で埋め尽くされていた。代々木公園のキャンプ組、地方からのホテル組、当日参加のミーハーたち、ここで目立って一挙にフォロワーを増やそうとするネット有名人、各国メディア。そしてそれらのドローンカメラ。みんなで蒔岡家を追い詰めることになんらためらいもない。行政システムをふたたび自分たち大衆のものに取り返そう。頭だけいいやつ、もうGOOD NIGHT。

「ほんと集まってくれてありがとう、最高の仲間が集まってる、ここ、渋谷に」

「みんなもう既に気持ちいいんでしょう?」

「おらおらおらおらおらおら盛り上がってけよ!」

「おい兄弟、俺だけが歌うんじゃないよ、全員で歌うんだよ」

 等のうすら寒いMCもそこそこに、「五・一五 民主主義、とりもどしちゃおうぜデモ」という軽薄極まりないイベントが始まった。


どどどどんどんどんどどんどどどんどん

どんどんどんどどんどどどんどん

どどどどんどんどんどどんどどどんどん

どんどんどんどどんどどどんどん


※I hear Jerusalem bells a ringing

エルサレムの鐘がきこえる

Roman Cavalry choirs are singing

ローマ騎兵の聖歌隊がうたっている

Be my mirror, my sword and shield

我が鏡、我が剣、我が楯となり

My missionaries in a foreign field

我が使徒よ異教徒をうちはらえ


For some reason I can’t explain

なんだか説明できないけれど

Once you go there was never

あなたが去ってしまったら

Never an honest word

正直なことばが消えてしまった

And that was when I ruled the world

わたしが世界を制していたころのはなし


おおおーおーおー

おおおーおーおー

おおおーおーおー

おおおーおーおー


どどどどんどんどんどどんどどどんどん

どんどんどんどどんどどどんどん


※繰り返し


 この「民主主義、とりもどしちゃおうぜデモ」において、さっきからみんながずっとうたっている歌の詞について深く考えている人間はいなかった。あくまでノリと雰囲気である。大半の人間がエルサレムがどこにあるか知らなかったし、なんかローマとか使徒とかの文言がかっこいいから歌っているだけである。英語がまったくわからないアホもなんとなくごまかしごまかしで歌っていた。そのため、英語の歌詞がある部分はちょっぴり歌声が少なくなりなんとなく不穏な雰囲気になったが、おおおーおーおーの部分で盛り返した。曖昧に歌う参加者をみて、マルテは事前に歌詞データを参加者に共有したのにな、とすこしおちこんだ。英語がちょっとわかるややアホは得意気に大声で歌っていた。なぜマルテがこの曲を採用したのかは革命っぽい歌が、日本にはええじゃないか音頭くらいしか無かったからで、かっこいいイケてるイベントの雰囲気づくりにはそれっぽい曲がどうしても欠かせないとおもったからだった。次点の候補はホワイトストライプスの「セブン・ネイション・アーミー」。この曲のおしゃれ感も捨てがたかったが、サッカーアンセムのイメージが強すぎるので却下した。ミュージカル版レ・ミゼラブルの「民衆の歌」も煽動的でよかったが、マルテがイメージしたテンポよりちょっと遅いし、あまりにも安易でもうちょいひねりが欲しい。センスを示したい。あくまで演出であり、それっぽければよかった。分別臭い中途半端なオタクたちが深読みしてくれればよかった。みな打倒独裁者、俺達レジスタンス、って気持ちになるだろう。

 エーコはハンナからのメッセージには気付かず、渋谷のスクランブル交差点を見おろせる喫茶店の中にフィルと二人で居た。どんな名曲もマルテが歌うと酷い、とおもっていた。

「こういうイベントっていいもんだね。ほんといいもんだよね。青春だよね。民衆の力が結集してるよね。ずっとお祭りが続けばいいとおもうよ」そうフィルは言った。エーコはそれを聞いてシンプルに死ね、とおもった。エーコはなにか夢中になっている男の子が好きってタイプでは無かった。自分の仕事に酔っている男はどこか気味が悪い、と感じていた。エーコはマルテとコール&レスポンスをする目下の若者たちの死を願った。なにもかもふきとばす突風が吹いて、おじゃんにしてしまえ。頼むよ、神様。


 NHKをはじめとする、各メディアのドローンが渋谷上空を旋回し続けていた。外見のいい裸みたいな恰好をした女性三人連れに、インタビューをするCNNの撮影クルーも居た。ふたりともおそろいの、透け感がオトナかわいいひざ上二〇センチ丈のキャミソールワンピースコーデ。パンツがギリ見えそうで見えない。三人とも平均より乳房が巨大で、それを誇示するような格好である。

「にほんが民主主義にぃ、もどればいいなとおもってぇ、きましたぁ」

「あたしたちもにほんの一員なんでぇ、やっぱ選挙権はみんなにあたえたほうがいいっしょみたいなぁかんじっすねぇ、レミゼとかすきなんで、こういうの超すき、民主主義、再&考、ビバ革命、アイラブヒップホップ、ワックエムシー」

「まじこのイベント気持ちいい。ほんと最高のやつですよね。次あるならまた来まーす」

 そういって手を前に突き出してかわいい感のあるポーズをとった。我がビジュアルは無敵、と確信的で挑発的だった。その放送をみた誰もが、ほんとかよ、とおもったが、男性は彼女らの露出の多さに性的に興奮して自慰行為をしたくなった。実際に端末でギャル系の動画が強みのアダルトサイトへのアクセスやエロVRアニメのダウンロードがちょっとふえた。女性は彼女らの外見と若さに嫉妬してストレスを少しためた。すぐにamazonやDMMで何かしらの買い物をして解消する人もいた。CNNは若者が政治について考えるというのは、なんかすごいいい感じですよね、みたいな論旨のナレーションを入れた。

 リポーターの人はいかにもバカそうな娘にインタビューを行った後、バランスをとっていかにも頭のよさそうな眼鏡をかけた若い男にもインタビューした。

「私たちは微力だけども無力ではない。独裁には絶対に立ち向かわなければならない。誰もがより良い世界を考えている。そして次の世代へ託す、というのが役割だとおもいます」

 この一見頭のよさそうな人は、実はぜんぜん頭が良くない人で、政治学の公務員試験に九回落ちており、参政権をもつ者に対するルサンチマン以外の感情は持ち合わせていないほど執着していた。彼の人生はこのインタビューがピークであった。それからは負け負けの人生が続く、ということを何となく彼は予感していた。


 何万人もの人間が自分の家の周囲で飛び跳ねていること自体が、蒔岡邸地下で寝込んでいるハンナの母にとって激烈な恐怖であった。振動と歌声が、彼女の中ではすべて爆弾で、悪意に満ちた猛烈な空襲のように感じられた。みんな死ぬ。家から引きずり出されて処刑される。そんな想像をした。あるいは巨大な爆弾をみんなの力で顕現させて、蒔岡邸に落っことしてシェルターごと吹きとばす、などとという悪い妄想がやめられなかった。もういやだ。もう人が死ぬのは嫌だ。なんでうちに爆弾落とすの。ぜんぜんわかんない。

 その理解不能な音と振動に怯えてめそめそ泣いていた。蒔岡に対する何万人分の悪意だけは壁を隔てて繊細な彼女に伝わっていた。あの歌を歌って飛び跳ねている連中は、前妻とおなじように自分やエリクを爆殺する、その前祝いみたいなノリのイベントである、とおもっていた。悪い予感は彼女の脳内でバッドなフィードバックループを為し、彼女をおい詰めていた。傍にいて慰めあうべき人間、夫とハンナはもう彼女の周りには居なかった。日本中から自分とエリクが袋叩きにあっているように感じていた。

 彼女の顔は今現在恐怖と涙と鼻水とよだれと睡眠不足による衰弱で醜く歪んでいた。化け物の様だ、とエリクはおもった。エリクは強烈なショックを受けた。驚くほど暗い気持ちになった。それは実母が死んだことを知ったとき以来の、暗い穴に落ちていくような気分になった。この純粋な人をこんな顔にしてはならない、と冒涜に似た怒りにかられた。蒔岡邸を取り囲んでふざけたおしている奴らを全員殺してやりたい、と心からおもった。基本的に、人間が暗い気分の時に下す決断はほぼ確実に間違っている。冷静さを取り戻し、現状を正確に把握しなくてはならない、と考えた。

 エリクは警備の制止を振り切り、蒔岡邸三階のバルコニーからゲーテッドハウスを囲んで歌う大衆たちを見ていた。何万人の大衆はお互いに手をつなぎあって、ドラムの音色に合わせて声を張り上げ、目を血走らせていた。頭上には何十機ものドローンが蠅のようにぶんぶん飛び回っていた。どどどどんどんどんどどんどどどんどん。どどどどんどんどんどどんどどどんどん。おおおーおーおー、おおおーおーおー。何十万人の若者の熱気と悪意と怒号がエリクに襲い掛かかった。こいつらは蒔岡が憎くてこれだけ集まったのか。さぞ気持ちいいだろう。なんも考えずに騒ぎちらすのはよ。

 エリクの左手側、東の空には、空の眼が姿を現そうとしていた。父を殺した天体は、エリクの未来永劫押し込めておかなければならない、もっともナイーブな感情を容赦なく揺さぶった。大衆への軽蔑、信念の揺らぎ、亡き父への愛憎、この国の行政を担うに必要のない感情が、深く埋めたはずなのに掘り起こされ、目の前に拡げられていることに気づいた。おれはずっと際限の無い地獄に居る、これ以上酷いことなど起こりうるのだろうか、とおもった。これ以上義母を苦しめるのならば、全員弾圧するのもやむなし、と考え始めていた。それは父の方針と全く違っていた。もちろん、行政AIもどのようなデモであっても弾圧するべきではない、と考えている。民主主義者を弾圧することは、寡頭政治において自殺と同義であった。エリクを筆頭にした公務員たちは、民衆の無知や怠惰に支えられている。彼らがアホなほど、エリクたちは安泰であった。だがいくらエリクとはいえ人間であった。我慢にも限界はある。義母がこのまま父同様に発狂して死に至るなどすれば、自分を抑えられる自信が無かった。怒りと悲しみが、許容できるレベルを超えて、自身の力をすべて民主主義者への弾圧に使うだろうという確信があった。ジョルジに自分が命令すれば、あっというまにジョルジ旗下の機動部隊は瞬く間にバカ共を拘束、逮捕するだろう。だがそんな無体なことをしてしまえば、蒔岡は他の公務員たちのバッシングを受け、行政権を失うだろう。

 彼らが欲しているのは肉体と精神の運動であり、知性ではない。フェスでもFIFAワールドカップでもいいから、誰か毎日やってくれればいいのに、とおもった。バカが力を持て余すと本当にろくなことがない。どっかその辺走ってればいいだろう。なぜ、若い人間は何かしら活動をしなければ我慢ならんのだろうか。なぜ部屋でおとなしくしていられないのか。エリクは不思議であった。大衆の面倒を見るために、エリートは孤独に死ぬような努力を続ける。それはかまわない。覚悟している。そうしなければ今の社会は無く、ホッブズが懸念していた無秩序へと陥る。だが選ぶのも、決めるのも、考えるのもお前ら衆愚ではない。君たち消費単位には圧倒的に知性と責任感が足りていないんだ。

 我々は最小個人の犠牲で、完璧に、合理的に、この全盛期の過ぎた斜陽国家を最適な形でソフトランディングさせるのだ。

 君たちの知能では我々がやっていることは魔法とたいして変わらないのもわかる。

 理解してほしいとも思わない。

 だから、おとなしくしていてくれ。頼むから。

 僕たちが一体、何をしたんだ。マジで。

 どどどどんどんどんどどんどどどんどん

 どんどんどんどどんどどどんどん

 母の容体は刻々悪化していた。この人は外部の刺激に敏感すぎるのだ、とおもった。死ぬ前の父もまたそうだった。昔の自分も、ハンナもそうだった。

「誰か、あいつらを止めろよ!」

 エリクは叫んだ。

 どどどどんどんどんどどんどどどんどん

 どんどんどんどどんどどどんどん

 下人たちは顔を伏せるばかりであった。彼らに出来ることはなにも無かった。エリクにうわべだけ共感し、自らの無力に涙ぐむ者もあった。

「止めてよ……」

 彼にデモを止める方法は無かった。あったとしても行使してはいけなかった。

 蒔岡を取り囲む民主主義者たちの歌と振動は、確実にエリクや母の精神を蝕んでいた。 特に母は、夫の死と娘との離別によって深刻な精神の危機にあった。


 地下に居る彼らとは反対にハンナははるか上空に居た。真っ赤な飛行機のなかで、渋谷ヒカリエ、渋谷フクラス、渋谷ストリームなどの高層建築を目印に夜空を飛んでいた。

 そもそもあたしは何がしたかったのか。なにから逃げていたのか。

 雲が晴れ、空の眼が中天に現れた。美かった夕景は終わり、不気味極まりない夜が始まる。「あれ」の世界ははどんどんハンナを脅かしていった。機内の計器が怯えるハンナをバカにしている様にでたらめな動きをしている。

 外の景色は極彩色のペイズリー柄みたいなものに変わり、ハンナは自身の肉体の現実感さえ失っていた。ハンナは、極彩色の空に依然として浮かぶ空の眼に腹が立った。空の眼を改めて不気味だと感じた。自分を見ている。見ているだけ。見んな、クソが。そして空の眼は自分でもある、と考えた。自分はただ見ているだけで何もしていない。ただ、自分だけで目の前で苦しんでいる人を助けなかった。母にしても、エーコにしても、止められたはずだった。だが、自分が逆に犯されるのでは、という恐怖で動けなかった。父親とフィルたちがこわかった。だからしょうがないじゃん。と結論づけていた。

 だが、もうどうでもよかった。自分は昔から、わけのわからぬ幻影を視るなど頭がおかしい。なにも頑張れないし、人間関係も結局クソである。ちょっとかわいいだけのぽんこつだ。唯一自慢の容姿も、実の母のほうが小柄で着物が似合っててかわいい。じつは自分だけの評価だけで、実際はおっぱいの大きいエーコのほうが男性からしたらいいのかもしれない。男の基準はよくわからない。自分にわかることは何もない。エリクのように優秀でもない。死んでもかまわない。


 そうおもった途端、「あれ」が終わった。

 ハンナの目下に広告と音楽と人間の集合体であるデモの中心が拡がった。

 渋谷上空に着いたのだ。

 蒔岡AIが冷静な感じで言った。

「大規模なデモですねぇ。予測で5万人はいますね。ハンナさん、いざ渋谷に来ましたけどこれからどうするんですか?」

 ハンナはその感じに腹が立った。

「うるさいバカ、知るか、死にやがれゴミ、愚民、クソ人間ども、男はみなキショイんじゃ、死ね死ね死ね死ね」

 ハンナは持ってきたチューハイを一息に飲みほして、はあぁぁと嘆息し、「お酒は、まあ、ほんとにおいしいよね」みたいなしょうもないことをつぶやいた。自分の中にあるこわいしやっぱやめとこっかな、って気持ちを酒でぶっ飛ばそうとしていた。

 生まれ落ちてからずっとだれかに囚われているような気がしていた。ひとりになりたいのに、家族がいた。逃げたとしても、なぜかさみしくなって別の人間と一緒に居てしまう。一人の部屋も、助平な男に監視されていた。今までを全部否定したい。あぁ、もうどうでもいいなにもかもが。着陸のことを考えるのも面倒になってきた。泥酔者特有のほんの数秒後の未来でさえ想像できないほど思考が停止していた。自分のくだらなさに嫌気がさしてきた。

「政治とかどうでもいいけどさあ、もうエーコとおかあさんをいじめないでよ」

 ハンナはうめくように言って、すべてAIを切ってデモのど真ん中、スクランブル交差点に墜落すると決めた。

「お義父さん、あそこに墜落するから」

「なぜですか?」

 なぜですかって言われても……とハンナはおもった。これだからAIはダメね。理由をすっと口に出せるようなものでもない。どのような言語でも表現不可能である。ものすごい単純に言えばマルテにもてあそばれ利用されてむかつくから、ということであるが、そんな単純な言説では言い切れない何かがハンナを蝕んでいた。生まれてから周囲の誰とも価値観が一致しなかったとか、そもそも頭がずっとおかしいとか、一生に一度のつもりだった大恋愛がこれ以上無い程悲惨な破局をしたこととか、そのすべてがこのスクランブル交差点への墜落を当たり前の帰結として示している、と感じていた。別に全部終わってしまってよかった。始まっても無い気もしていた。疲れ切っていた。結果このAIの質問を無視した。理屈ではない。おまえらにはわからない。

「とにかく落ちるから。理由は無い。なんも無い。すべては無駄」

 ハンナはアルコールと睡眠剤に浸かった脳で破綻した言葉を紡いだ。それはエリクやマルテやフィルに対しての言葉で、質問の回答では無かった。もちろんAIには理解不能である。

「あんたらはそんな騒いだり楽しんだり自分の意見を発信したりするほど特別でもかしこくもない、全部人まねだし、毎日何か考えて判断しているふりをしているけど、それは周りの状況に反応しているだけの虫野郎で、結局は居なくても大丈夫なんだよおまえらなんか、何故そんな楽しんだりいい思いをする権利が自分にあると思い込んでいるのか。それは情報が過多であり、お互いに高速通信することによる自意識の過剰のおかげなんだよ、あたしたちは空っぽで一人きりなら無色透明の人になるんだ、人間は関係性の束だというけど、関係性が全部なくなっちゃえば人間はどうなるんでしょうねぇ。狂う人もいるとおもうけど、これ以上ない幸せを感じる人もいるんじゃないでしょうか、あたしみたいに。君たちは楽しそうにしているけどそれはお互いの体温で暖まっているだけで、なんつうか自分の発熱を感じてないんだよ。棚からぼた餅待ってるだけの人間でしかないんだよ。こういうデモっていうのは楽しそうにやってちゃだめなんだよ。情熱っていうのは日々ディティールを積み重ねている人だけに与えられる特権なんだよ。ほとばしるような自分だけの熱を感じるのはね、コミュニケーションやらネットだけやってるやつには一生体験できないんだよ。あたしみたいに。その体験が無い人をあたしは心底軽蔑する。あたしも含めて。とにかくみんな死にやがれ糞袋ども」

 ハンナは覚悟を決めて、スロットルバーを最大にした。フライバイワイヤの心地よい感触。とはいえ全部AIが操作しているのであくまで気分の問題である。アルコールがあらゆる思考を阻害する。ハンナはいつかライブでみたエーコのむちゃくちゃなギターをおもいだした。

 あたしはあの日のエーコのギターみたいなことをやるのだ。やる。それ以外は頑張れない。他のことは頑張れないのだ。

 ハンナは経験したことのない、自らの熱による高揚を感じていた。それはマルテに抱かれた時のような、他人の体温の反射ではなかった。

「お義父さん音楽かけて、ベイビーシャンブルズ。あそこにほんとにおっこちるからはやくやって。思いっきり最高速度でつっこむから。マジだから」ハンナはAIに指示した。

「ベイビーシャンブルズ再生と、スクランブル交差点付近への墜落に関して承知しました」

 ぶっきらぼうなギターリフがコクピット内に響き、デモの歌をかき消した。


 承知しました、と言いつつ、ハンナの乗る赤いロッキード・ベガを駆る蒔岡リュウゾウのAIは高度な判断を処理していた。

 管理者権限を持つ蒔岡ハンナはこのままデモに突っ込み爆散して死ぬる、と言う。ただそれは、彼の生みの親である蒔岡リュウゾウの遺志に反していた。故蒔岡リュウゾウはハンナの母が言っていた「おとうさん、ハンナにやさしくしてやってください。馬鹿な両親のもとに生まれたかわいそうな子なんです」という言葉を大切にしていたので、AIの禁則に反映させてハンナに託したのであって、ハンナを死に追いやるのはその規定に反する。かといって、このデモを放置しておくのは蒔岡家にとって危険である。もし義母の精神病が悪化、狂死した場合、蒔岡エリクは自暴自棄となり、デモを弾圧する可能性が高い。独裁政治を存続させたい蒔岡としては悪手である。手っ取り早くデモを潰すには、デモ以上の衝撃、つまり小型飛行機による特攻、虐殺は非常に効果的なのである。このコンフリクトをどう解決しようかな、と蒔岡リュウゾウのAIは考えた。その間〇・〇〇〇一秒。蒔岡ハンナはこのまま加速し続けて交差点中央への墜落を考えているが、AIは両翼エンジンの逆噴射、急制動によるソフトランディングに変更することに決めた。一気にやるとハンナが減速によるGに耐えきれずにつぶれて死ぬので、現段階で徐々に減速、人間を緩衝材にもできる。完璧にコントロールしてデモのど真ん中に軟着陸。とはいえ人でぎちぎちのデモの中に飛行機が軟着陸するのである。死傷者の予想は数十名。人命よりハンナの生存と蒔岡の維持を優先する。 

 ふらふらと近づいてくる赤い飛行機を見つけた群衆の相転移が徐々に始まった。安定していた秩序が一気に崩壊した。拡張現実で空の眼にフィルタをかけていた奴らは、突如現れた赤い飛行機にまったく気づかなかった。気づく人間と気付かない人間は半々で、逃げようとする人間がぼけっと突っ立っている人間とぶつかった。スクランブル交差点にいた何百という人間が混乱の内にシェイクされた。

 機内のハンナはいざ死ぬとなると、途端にこわくなってぐすぐす泣いていた。やっぱりやめたい。めちゃこわい。とはいえここで引き返してなにがあるというのだ。自分の居場所は無い。幸薄い人生だった。でもようやく何もかもから解放されるのだ。劣等感から幻想から家族から過去から。さようなら。直近の恐怖に対応するためハンナは泣くことを選択した。人間は泣くことによって感性が閉じて理性が働かなくなる。ハンナは死ぬ際の麻酔薬として涙とアルコールと音楽を利用した。

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