日常の36『それぞれの今日』
【松井沙世】
「ソラ君の気持ちは、すごく嬉しい。だけど、実は私ね、ソラ君が思っているほど、キレイじゃないんだ。心も、身体もね」
これでもか、とばかりに桜の花弁が舞っている。暖かい春の日差し。教育学部のはずれ。
こんな良いシチュエーションだったら、白馬の王子様的な、あの思い出がなかったら、付き合ってしまっていたかもしれないな、と松井沙世は思う。
「そんなことは……、構わない」
こんな好青年はなかなかいない。彼なら、自分の過去を全て話しても、もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。
でも、それを話す日は来ないだろう。
私をユーリが救ってくれた、大切な、思い出を。
「……実はね、ずっと、………高校の時から、好きな人がいるの」
「…………………」
「だから、ごめんなさい」
頬を掻いて、はあ、と宇宙は残念そうに溜息をついた。
「……分かった。だが、諦めるつもりはない」
そんな言葉を残して。
「ふふっ。諦めた方がいいって。ソラ君みたいな真面目な人なら、絶対、私なんかより良い子がいっぱいいるからさ」
【天童花束】
「いやー、こんな美人さんの隣なんて、ツイてるなあ!」
そんな気の抜けた言葉とともに、天童花束の隣には、彼女が興味も湧かない男が着席した。
教育学部の体育館。普段は、講義で使ったり室内スポーツや体操系のサークルが使用しているその場所は、今は学部の新入生でごった返している。
今日は入学式前の、カリキュラムガイダンスの日だった。
テーブルがいくつも並べられて、それぞれが、受付で渡された案内カードを元に、席が決められる。
とても細身の容姿に、きりっとした顔立ちの、偏見だが、遊んでいそうなその男は、着席してから席をわざわざズラして、こちらを向いている。テーブルに肘を立て、頬に手をあててこちらを嘗め回すように見ていた。
はっきり言わなくても、不快だった。
「このあと時間ある?昼メシ一緒しない?」
つまらないな、とさえ思う。余計なことはやめてほしい。無駄に話しかけて来ないでほしかった。
「ごめんなさい。奨学金の申請書類を今日中に書き上げて提出したいの」
「手伝ってあげようか?駅前の喫茶店あたりで一緒にさ。俺の名前は……」
そこは花束のバイト先なのだが。
みんなもう座っているのに、遅刻でもしたのか別な男が一人、背後を過ぎ去っていく。
なぜかその男を、なんの特徴もない男を、花束は目で追ってしまった。
「……ありがとう」
最小限に動いた彼の口、一瞬だけ交差した視線。
急に、天童花束の頬が赤く染まる。
なんだろうか、今の男は。なんだろう、この感情。誰だろう、あの魅力的な凡人は。
尽きぬ興味に歯向かえない。花束は隣の男の減らず口も耳に入らず、極めて普通の容姿の、名も知らぬ男の小さくなっていく背中を、ずっと目で追っていた。
【火神つがる】
神の母親たる彼女は、自分の子に神が宿っていることを知らないとはいえ、娘に対してかなり趣味を押し付けるタイプの人間であった。
「本当に、今日もつがるちゃんは、可愛いわねえ……」
春の日のお散歩である。フリルのたくさん付いた、白と黒のゴシックロリータ調の服装を、出かけた時にさせるのが、母親である彼女は大好きだった。
こっそり家を抜け出して神として動く時は、服装はつがるの自由に出来るのだが、二人でお散歩、というとそうはいかない。
辟易、という感情は神としてどうかと思うのだが、彼女は自分の現在の容姿、特に黒いカチューシャの純白なフリルを触ってしまおうものなら、それに近い感情を抱かずにはいられなかった。
そんなことを考えていると、向こうにお目当ての二人。
スーツ姿で膝を下ろした老人と、美少女がいた。
すれ違い様。
「あっ……」
と、わざとらしくならないように声を出し、黒いパンプスを躍らせ、美少女の、竜神の胸に飛び込む。
それだけで、記憶の同期は完了した。
目を見開いて驚いた表情の、竜神と目が合う。
どちらも神格を持つとはいえ、種族の長と、世界の観測者では神としての位が違う。急に跪かれたりしたらどうしようかとも思ったが、頭の良い彼女は意味ありげに微笑んで、
「大丈夫?ケガはない?」
とだけ優しく言ってくるだけだった。彼女はそのまま、褒めるように頭を撫でそうになって、思い留まったようだ。
「だいじょーぶー!ごめんなさーい!」
すぐさま離れる。あらあらつがるちゃん、気をつけなさいね。すみません、と母親が竜神に謝り、すぐに彼女の小さな身体を抱き上げた。
「ぐっじょぶー!」
と、小さな神は親指を立てる。
母親の背後から離れていく竜神も、それを返してくれていた。
【ユーリ】
やっぱり、車の前に飛び出すのは二度目でも怖かった。
でもつがるちゃんに、それは必ずしないと異世界に拉致される、と脅されたものだから、俺はもう一度、余所見している女子高生を助けるためにトラックの前に飛び出した。
ただでさえ、カリキュラムガイダンスに遅刻して、花束さんの隣に座れなかったことを怒られていたので、俺はその自殺行為の強要に従うしかなかった。
こうして俺は、俺たちは、入学式がある今日、また六畳半のアパートの部屋に戻ってきていた。
正直、感慨深いものがある。
ミハルには過去視の能力があるから、助けられた時点ですでに、俺の時間旅行について読み取っている。
今は記憶共有の魔法を、ライガに向けて唱えている最中だ。
「初対面、ってことにはなるけど、もう俺に敬語はいいよ。ナユタに行くつもりもないし。っていうか、異世界に行く方法が、もうないんだろうけどさ」
「ユーリがそれでいいのならそうする。ナユタに連れて行くのは諦めないけどね。ライガも好きになさい、勇者様の言いつけだから、私に対しても同じでいい。……くっ、来た。……ユーリ、ホントやっかいなのに惚れられたわね?」
俺の知らない今日だった。
急に玄関のドアが開き、スーツ姿の芸能人級の美女が飛び入ってきた。
俺を守ろうとしたのか、ライガが文字通り一直線に俺に向かって飛んでくる花束さんに立ち塞がる。花束さんが中空で手を撫でるようにかざすと、ライガは俺の視界から吹っ飛ばされてしまった。
「……うーっ!なんで残り少ない魔力を、半分も吸い取るのよっ!?」
身構えていたミハルにも、彼女は何かしたようだ。俺を異世界に奪われないように、何かしたのかもしれない。
やっぱ魔法ってすごい。
「ユーリ君っ!おつかれさまっ!」
そのまま彼女が、俺の胸に飛び込んでくる。
「花束、それとユーリ君。家の中では、靴は脱ぐもんじゃぞ?」
玄関先で、竜の眷属たる老人が、優雅に微笑んで立っていた。
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