日常の34『勇者じゃないが』

「気がきくなあ。食いもんを持ってくるなんて」


「私が……、ワガママを言ったので……、申し訳なくて………、お詫び、です」


「まあ、それで扱いが変わるわけじゃねーけどな。…金は?」


「持って……、きました……」


「じゃあ、脱げ。早くしろ」


 まず俺は、あらかじめ待ち伏せができなかった。

 ミハルにもつがるちゃんにも聞いていたはずなのに、犯行現場は鈴木一郎のアパートだと勘違いして、彼の家を目指し雨も構わず走って、ようやく探し当てた。


 思い込みって怖い。呼び鈴をならして、ドアを叩いて、誰もいないことが分かった時の焦りと言ったらなかった。思いつく限りの罵詈雑言を自分に浴びせながら、濡れた頭を掻き毟ってしまった。


 再度、全力疾走で大学へ向かい、教育学部の裏門から、小雨降る森のような真夜中のボロ道を走り抜け、ようやく目当ての学生寮跡地へ辿り着いた。


 古くなって倒れた看板の前で息を整えて、気配を殺して廃屋の中を探索する。お風呂場だったところに、鈴木一郎の死体がすでにあったら、もういっそ、死体を家まで運ぶのを手伝ってしまおうかとさえ考えた。


 しかし、大浴場は埃を被ったまま。使われた形跡はなかった。


 引き返して二階へ続く階段の前まで来たら、男女の声が聞こえてきた。


 二人に逃げられては元も子もないので音を立てず、全神経を足元に集中して、俺は声のする方へ向かう。

 二階の一室に、二人はいた。ランプだろうか。小さそうな照明の光が、部屋から漏れている。


 する、と衣擦れの音。


 扉が開いていたから、最初に俺に気が付いたのは下着姿のさよっちだった。間で鈴木一郎が床に座って、こちらを背に向けたまま脱衣する途中のさよっちを見上げている。


 狭い、汚らしい個室だった。


 さよっちと俺の目が合う。彼女の目尻がぴくり、と痙攣した。

 みるみる瞳が潤んで、頬を止まらぬ涙が伝う。


 なぜ、そんな顔をする。


 急に笑ったさよっちの濡れた視線を、俺は見ていられなかった。

 彼女にこんな、俺の知らない表情をさせた、目の前の男に対して、俺は煮え滾り続けていた感情を抑えられない。


「九十九十九、九十歳………」


 だっていうのに、さよっち。こういう時もそれ、やんなきゃダメか?


「由利本荘和平、十八歳だっての……」


 さよっちのボケに東京芸人みたいな静かなツッコミで答える。


 もうその時には、鈴木一郎の頭は目の前にあった。

さっきまで全神経を集中させていた足が、解き放たれたように踊り出し、鈴木一郎との距離を詰めていた。

 振り上げた足を、そのまま振り下ろす。


 この長い旅のフラストレーションを全て込めた、俺の凡人踵落とし。


 ぐらり、と鈴木一郎の頭が声ともとれない変な雑音を発しながら、ちょうどよく俺の目の前に落ちて来たので、ついでに一般人サッカーボールキックをお見舞いしておいた。


 気絶していなかったら普通人間踏み付けスタンプへの連続攻撃を考えていたが、顔を変な色にさせて鼻血を出しながら、鈴木一郎は意識を失っていた。


 俺はさよっちに視線を戻す。しゃがみ込んで、彼女は慟哭していた。


「こいつ、俺が殺そうか?」


 呼吸を整えてから、俺はそれだけ、闇に紛れてしまいそうな声で彼女に聞いた。


 ふるふる、と音でもしそうなほど、泣きながらさよっちは首を横に振った。


「じゃあ、さよっちがやるの?」


 逡巡。

 さよっちが視線を、部屋の隅。黒いボストンバッグに向ける。

 ノコギリとか物騒な物が、あの中に入ってるのかな、なんて俺は考える。


 泣き止んでしまったさよっちと目が合う。小さく、彼女はまた、首を振った。


「大変だったな。俺が来たからにはもう大丈夫。……服、着なよ」


 俺は、気持ちちょっと低い声を出して、脳内のカッコいい男のセリフ全集から、さよっちを見つめたまま引用した。


「絶対カッコつけてる。……ウケる」


「……げ、元気そうで、何よりです……」


 不意に、ひい!と短い悲鳴があがる。顔を腫らした鈴木一郎が怯えた表情で意識を戻した。俺は身構えたが、彼は泣きながら、何度も「やめてください!」「もうしません!」「すみません、ごめんなさい!」と叫び続けて、走って逃げて行った。バタバタと音をたて、まるでコントみたいに。


「ひどい暴力を振るってしまった……。どうしよう。警察沙汰になったり、訴えられたりしないかな?」


 興奮から冷めて、俺は急に不安になる。

 でも、まあいいか。大事な友達を一人、助けられたんだから。


 ありがとう、という小さな声が、ランプの光の揺らめきに消えていった。

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