第22話 幸福に潜む光と影①
(1)
ミランダとリカルドが奇跡的な再会を果たした後、リカルドが暮らすウィーザーという港町で共に暮らし始めてから、もうすぐ一年が経過しようとしていた。
竈の中から焦げ臭い匂いが漂ってきて、瞬く間に台所中に充満し始める。
嫌な予感と共にミランダが恐る恐る竈の鉄扉を開いた次の瞬間、肩をがくりと落とす。
「……ああぁぁぁぁぁ……、やっぱり……」
竈の中には、シェパーズパイ、いやシェパーズパイだったものが鎮座している。だったもの、というのは、表面を覆うマッシュポテトが石炭と見紛う程真っ黒に焦げ付いていて、見るも無残な姿に変わり果てていたから。
「……また、失敗してしまったわ……」
ハァァーー、と深い溜め息をつく。
とりあえず竈からパイもどきを出さなければと思っていると、台所の隣の作業部屋からリカルドが姿を見せる。
「……ミラ、何か凄く焦げ臭いんだけど……」
「……ごめんなさい、また焦がしちゃったわ……」
「まぁ、表面を削り取れば食べられないことはないんじゃないかな」
リカルドは苦笑しつつ、落ち込むミランダの頭をポンポン撫でて慰める。
「まぁまぁ、そんなに落ち込まないの。今回は失敗したかもしれないけど、前に比べれば随分料理上手くなってきてるんだからさ、ね??」
「……うん……」
「もしや、竈から出火でもしたかと思ったけど、そうじゃなかったからちょっとホッとしたよ」
リカルドは火事を心配して台所へ顔を覗かせたようで、そうでないことが分かって安心したのか、すぐに部屋に戻っていく。
リカルドと結婚するまで家事なんてまともにしたことがなかった。なので、結婚当初ミランダは慣れない家事に毎日悪戦苦闘を繰り返していた。加えて、三十年近くずっと過ごしてきた街から見知らぬ街ウィーザーでの暮らし。
その上アルコール依存症を抱えているせいで心労が溜まり、時折発狂しそうになる程日々の全てが嫌になってしまうこ時が度々あった。
リカルドはそんなミランダを支えるべく、ずっと続けていた酒場の仕事を辞め(朝の郵便局の仕事は結婚した時点で辞めている)、自宅で作業する時計職人の仕事一本に絞った。
収入は減ったが食べていくには困らなかったし、彼女の傍にずっと付き添える環境を作る方が大事だったから。
家事が思うように出来なくても決して責めることは一切なく、逆に手助けてしてくれる。
リカルドはアルコール依存症を克服するためにある提案をミランダに持ち掛けてきた。
それは『酒を買ったつもりで、ミランダがよく飲んでいたドライジン一本分の小銭を毎日溜めていく』というもの。
その日アルコールを口にしなかったら寝る前にカレンダーの日付に丸印をつけて小銭を専用の入れ物に入れる。
もしもアルコールを口にしてしまったら、カレンダーにバツ印をつけて小銭は入れない。
酒を飲まなければそれだけお金が貯まっていく。ある程度のお金が貯まったら二人で旅行に出掛ける資金に回す、という目標も立てている。
子供じみた案ではあるが、その案を出されてからのミランダは酒を口にしないように頑張り続けている。
『国中の街を全て旅したい』という夢を捨ててまで、自分のために身を粉にして一生懸命働き続けてくれたリカルドに少しでも報いたい。
その強い想いが、ミランダを突き動かしている。
それともう一つ、近頃のミランダはある願望を抱いていて、それを叶えるためにはどうしても依存症を克服しなければ、と、切実に思うようになっていた。
(2)
謎の黒い塊と化したシェパーズパイを竈からテーブルへ移す。焦げた表面をナイフで削り取りながら、ミランダは数日前にシーヴァから送られてきた手紙の内容を思い出していた。
シーヴァとは一年前、リカルドと再会直後に寄ったヨーク河での氷上市にて偶然にも再会していた。以来、シーヴァとは手紙でお互いの近況報告を頻繁に交わしている。
先日、シーヴァから送られてきた手紙には初めての子供を授かった、という報告がなされていたのだ。前回の手紙で結婚したと報告を受けたばかりだったのに。
可愛い妹分からの大変喜ばしい報せ。
心からの祝福の言葉を手紙に綴ると同時に自分もリカルドとの子供が早く欲しい、と思い始めた。そのためにも、健康な身体と心を取り戻さなければ。
まだ十代のシーヴァとは違い、ミランダはすでに三十を過ぎている。決して若いと言える年齢ではないからこそ、尚更早く子供が欲しかった。
リカルドは、『子供は授かりものだから無理してまではいいよ』と言うけれど、自分の子が産まれたら、きっと物凄く可愛がるだろうし必ずや良い父親となるだろう。
何より、ミランダ自身が一般的な温かい家庭というものに強い憧れを抱いていて、結婚してからというもの憧れがより大きくなっていた。
リカルドと二人での暮らしも楽しいけれど、そこに子供が加われば。
きっと、もっと幸せに満ちたものになるに違いない。
だから酒が無性に飲みたくて苛々する時があろうと、ミランダはまだ見ぬ我が子の姿を想像しては、必死に耐え続けていた。
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