第16話 星だけが見ていた①

 (1)


 遡ること、一〇年前。



  リカルドは幼い頃から十二月の夜空を見上げることが好きだった。

 深く濃い闇に染まる空一面、オリオン座、おおいぬ座、プロキオン等が煌々と光り輝くのを、屋根の上で毛布に包まってよく眺めていたものだ。


 ある時、幼心にふとした疑問が湧く。


『数多の星々はどの場所で見ても美しく輝くのだろうか??』


 両親や兄、友人達に聞いて回ってみたものの、リカルドが納得できるような答えを言ってくれるものは誰一人としていなかった。成長するに従い、リカルド自身もその疑問を忘れていた。


 しかし、十七歳になった頃だった。仕事場から家への帰路、なにげなくぼーっと夜空を見上げていたら突然その疑問を思い出したのだ。


 あの頃子供の頃は、ただ疑問に思うだけで確認してみようとすら思わなかった。思ったとしても、小さな子供が旅に出られるはずがない。

 だが、今の自分は大人だし天涯孤独の身で反対する者もいなければ、自由に動ける身体を持っている。


 思い立ったなら、あとは行動あるのみ。


 次の日、リカルドは仕事を辞める旨を雇い主に告げ、一か月後には小さなトランクひとつ抱えて汽車に乗り込んだ。


 旅を続けていく内に、同じ空でも街によっては随分と星の見え方が変わってくることを知った。

 毎年十二月の空を見上げる度、今回は眩いばかりに星が綺麗に見えると思えば、何だか微妙に星の輝きがくすんで見える、と、思うことも。


 今年はどうだろうか。


 やけに重い瞼をこじ開けようとするが、思うように開いてくれない。それどころか、気が狂いそうな程の強い痛みに身体全体が支配され、身動き一つ取ることすらままならない。


 けれど、朦朧とする意識下に置いても、リカルドはどうしても夜空に瞬く星々を見たかった。何故そう思うのか、自分でも分からないが。


 冷たく固い地面の上、リカルドは低く呻く。おそろしく緩慢な動きで身体を横向きから仰向けへと態勢を変えようとした。まるで全身に矢が刺さっているかのような痛みに、これでもかと顔を顰め、ハーッ、ハーッと、荒い息を吐く。


 視界の端に、ネックとボディの中間位置で真っ二つに折れ、ネックの上で五本の弦がだらんと伸びてしまった愛器の無残な姿が映る。思わず「……くそっ……」と、呟く。

 あれは、ウィーザーでギターを教えてくれた友達から餞別で貰った、とても大切な代物だったのに。

 込み上げる怒りにより、皮肉にも痛みを感じなくなったリカルドは今のうちとばかりにようやく仰向けに転がり、思いきって目を開く。


 (……あれ??……)


 暗闇が漆黒ではなく濃灰なせいか、星々が霞んで見える。

 雨降りや曇り空ならともかく、今日は朝から天気が良かったのだからこんな空や星の様子は有り得ない。なのに、なぜ、これ程までに空も星もぼやけて見えるのか。


 そう思った瞬間、リカルドはようやく気づいた。


 僕は最愛の恋人を連れてこの街から逃げようとした。

 でも、彼女のパトロンが送った手下に恋人もろとも捕まったあげく、酷い暴行を受けた。

 そして今、僕は瀕死状態で倒れている。


 リカルドは生気を失くした深いグリーンの瞳でぼんやりと霞む星々を眺めて思う。


 空に輝く全ての星が、今すぐ金貨に変わって僕の元まで降り注いでくれたならーー


 大手を振って、彼女を、愛するミランダを必ずや迎えに行くのにーー

 あれだけの星が金貨となるならばーー


 薄れゆく意識の中、リカルドはひたすらそう願った。








 (2)


 再び意識を取り戻したリカルドの目に、最初に飛び込んできたのは白い天井だった。どうやら、命拾いしたらしい。


 しかし、ホッとしたのも束の間、目線のみを使って部屋全体を見渡してみる。急に言いようのない不安に襲われた。


 まず、白だと思っていた天井はクリーム色で、壁も同じ色の壁紙が貼り付けられている。よく目を凝らせば、壁紙は紙にきめ細やかな凹凸が浮き上がっていて、値が張りそうな代物だ。

 この家の家主の趣味なのか、ベッドや丸テーブル椅子以外の家具は置かれておらず、調度品も一切置かれていない。部屋の簡素な様子からして、おそらく客間みたいな部屋かも知れない。


 病院でないのは確かだけれど、一体ここは何処で、誰の部屋なんだ。


 さすがのリカルドも警戒心がグッと跳ね上がり、ベッドの中で身をガチガチに強張らせていた時だった。


「おや、ようやく目を覚ましましたか」


 扉が開くと、気取った口調の青年が中へ入室してきた。

 青年はすぐにベッド脇の丸椅子に腰掛けると、リカルドに向かってにこりと爽やかに微笑む。


 黒髪とダークブラウンの瞳が特徴的な、涼しげな顔立ちのその青年、と言っても、せいぜいまだ十七、八と言ったところか。やや童顔で線の細さも相まって、下手をすれば十四、五にも見える。


「あぁ、ミスター、吃驚されるのも無理ないでしょうね。何せ、貴方を広場から僕の家に運んでから二日間、ずっと眠りっぱなしでしたから」

「君は、一体……」

「これは失礼致しました。僕はシャロン・マクレガーと申します。二日前のクリスマスにたまたま知人女性と教会に足を運んだところを、『広場で瀕死の怪我人が倒れている。思いの外怪我が酷くて素人の手に負えない。この中に医者か看護婦、もしくは医学の心得のある者はいないか』と血相を変えて飛び込んできた人がいましてね。こう見えても僕は医学生でして、すぐに広場へ駆けつけて貴方の怪我の応急処置をさせていただきました。ただ、どうせならしっかり治療をした方がいいだろうと思い、僕の家へと貴方を運び込んだ次第です」

「……そう、でしたか……。それは、とんだご迷惑を……。いえ、それ以上に、ありがとう、ございます……」

「いえ、礼には及びません。それにしても、貴方は運が良いですね」

「……運が、良い??」


 大切なギターは壊され、自身は瀕死の重傷を負った。

 あげくの果てには最愛の恋人と引き裂かれた自分の何処に、運が良いと言える要素があるというのか。


「いえ。あの時、僕以外で医学の心得を持つ者が誰一人いなかったのです。僕は首都の大学に通っていて、たまたま冬期休暇で帰省していたという、ね」


 シャロンは再び爽やかに微笑むが、リカルドは彼の笑顔に対しどうしても笑顔で返すことができない。

 心身が非常に弱っているのが主な原因ではあるが、シャロンの笑顔がどうにも嘘くさいと感じるせいだ。

 何というか、口許は笑っているが、涼しげなダークブラウンの双眸の奥に一抹の冷たさを湛えている気がしてならない。


 しかし、命を助けてもらったことには変わりないのは確か。そこは感謝しなければいけない。


「マクレガーさん。見ず知らずの僕を助けていただいただけでなく、家にまで運んで介抱してくださって……、本当に、ありがとうございます……。感謝しても、感謝しきれません……」


 失礼にあたるとは思いつつ、ベッドに横たわりながら、リカルドはシャロンにもう一度、今度は丁寧に礼を述べた。

 すると、シャロンは先程とは打って変わり、くすり、と意地悪そうに鼻先で笑ってみせたのだ。


「あぁ、勘違いしないでくださいね、ミスター。僕は貴方を助けたつもりは一切ありません。僕はただ、自分が身に付けた知識がどこまで通用するのか、試したかっただけです」

「…………」

「勿論、あくまで僕はまだ一介の学生でしかありませんし、ちゃんとした治療は医者に任せるつもりです。ご安心を。あぁ、あと、治療費に関しても、良い勉強させていただいた授業料のつもりで全額負担しますから」


 シャロンの穏やかな口調ながら非人間的な冷たい言葉に、ただただ唖然となるより他がない。

 おそらく、この家は裕福とはいえ、中流家庭の域であろう。それなのに、上流階級を思わせる、彼の傲慢さは一体どこから生まれるのか。


「そう言えば、まだ貴方の名を聞いてませんでした」

 シャロンはわざとらしく、拳を形作った右手で左手の掌をポンと打つ。

「……僕の名前は、リカルド。リカルド・ベイル、だ」

「では、今後はリカルドさんと呼ばせていただきますね」


 シャロンはもう何度目になるか分からない、爽やかな笑顔を浮かべた。

 しかし、この優秀だが傲慢な青年シャロンとの出会いが、リカルドにある決心を起こさせるきっかけになろうとは。この時のリカルドは予想だにしてすらいなかったのだった

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