第14話 折れていく翼②

  ミランダは身を売る生活から足を洗うことなく、これまで通り全てを嘘と偽りで固めた日々を送っていた。



 彼女の元に訪れる多くの客は往々に『男爵様の囲い者はどんな女なのか』という下世話な好奇心を抱いていたし、言葉や態度に表す者も少なくなかった。その度に完璧なまでの愛想笑いを浮かべるミランダの心に、鋭い棘として突き刺さっていく。

 そんなに苦しいのなら、多額の手切れ金で借金を完済、売春業からさっさと足を洗えばいい。別の街へと移り住んで一から人生をやり直せばいいものを――、ミランダはあえてその道を選ばなかった。


 手切れ金に手をつけたら我が身は自由になるかもしれないが、ダドリーに完全に屈服することになってしまう。ミランダにとっては何よりも許しがたいことだった。『死ぬまで手切れ金を一銭たりとも使わない』のがダドリーに示す、せめてもの細やかな抵抗であった。


 ダドリーとはもう二度と会うことはないだろうが、もし会ったら差し違えてでもめちゃくちゃにして殺してやりたい。

 月日が経つにつれ、ダドリーへの憎悪は肥大化する一方、リカルドを失った悲しみや喪失感と罪悪感も増幅し続ける。次第に『男爵様の囲い者』だったことを理由に自分を指名する客をことごとく断るようになっていった。


 そうなってくるとミランダの店での人気も徐々に右肩下がりに落ちていく。終いには客引きに出向かなければならない(スウィートヘヴンは置屋で店に来た客に指名されて身を売るのだが、人気のない娼婦には街で客引きをさせている)程にまで人気が凋落していた。


 だが、噂を聴きつけて指名してくる客を相手するよりも客引きで捕まえる、自分の事を何も知らない客の相手をする方が遥かに気が楽ではあった。しかし、彼女が毎晩客引きに出向くようになったことで、新たな問題が生まれる。


 持ち前の美貌のお蔭で、客引きに出て客がちっとも捕まらないことなど滅多になかった。容姿が人並み以上に優れていると、こういう時ばかりは随分と有利に働く。


 ところが、どんなに声を掛けても客が全然捕まらない晩があった。


 ちょうど真夏の夜中に差し掛かる時間帯。熱気がまだ冷めていない、もわっとした暑苦しい空気の中歩き続けていると自然と汗が流れてくる。

 ミランダは、休憩と客引きを兼ねて一件の酒場の扉を開くと店全体が見渡せる場所――、隅のテーブル席に腰を下ろした。

 いつもならアルコール度数の低いビールを注文するのに、その日に限ってはなぜかドライジンを注文してしまった。普段飲み慣れていない強い酒を飲んだせいか、すぐに酔っ払ってしまう。


 始めはひたすら頭が茫洋とし、思考停止状態で席に座り込んでいた。それを通り越すと今度はやけにふわふわと、まるで雲の上でも歩いている様な楽しい気分になっていく。我に返った時には一人の若者に自分を買うよう迫っていた。


 男は、ミランダの元々の美しさに加え、酔っ払って妙に潤んだ琥珀色の大きな猫目、ぬらぬらと湿り気を帯びた唇にたちまち欲情し、店に辿り着くのも待てずに彼女を求めた。ミランダはそのまま建物の陰に彼を連れ込み、街娼よろしく路地裏で身を売ったのだった。


 スウィートヘヴンの禁止事項の一つに『路上で身を売ってはいけない。必ず客は店に連れて来ること』というものがあるが、ミランダは初めてこの規約を破った。

 店に戻れば当然マダムから大目玉を食らった。話を聞きつけた他の娼婦からも白い目で見られたが、『ちゃんと金は貰ったんだし別にいいじゃない』と反省の色を全く見せないどころか、屋外での売春を繰り返すようになってしまった。


 更にミランダには、外で身を売る以上に大きな問題を抱えていた。

 酒場でドライ・ジンを口にしたことをきっかけに酒に溺れ始めたのだ。


 アルコール度数の強い酒を口に含めば、たちまち意識が朦朧となり、余計なことを考えたり、悩みを抱えずに済む。仕事を終えた後そのままベッドに倒れ込み、泥のように深く眠ることもできる。

 それに気づいてからのミランダは、ジンやラムなどの安酒を買っては自室のクローゼットの奥に常に隠し持っていた。

 ミランダがこっそりと酒を飲むのは――、これもスウィートヘヴンの規約だが、『アルコール類を部屋に持ち込むことは禁止』だから。(それなりに格が高い娼館という面子を守るため、店の娼婦にアルコール依存症を煩わせないようにするためである)


 最初はコップ一杯の量ですんなりと酔えていたのに、徐々にアルコールに対する耐性がつき、その程度では酔わなくなってくる。酔うことで気分を紛らわせたいのだから、自然と飲酒量もだんだん増えていく。

 遂には、仕事を終えた後で酒を一瓶飲み干さないと眠ることすらできない程、酒に依存するようになっていた。

 声は酒焼けですっかり枯れてしまったし、寝る前に酒を飲まないと眠れない。

 起床してからも、酒を飲まないと一日中苛々と気分は荒れっ放し。心身共に目に見えた異変が表れ始めていた。


 マダムも周りの娼婦達もミランダの変化に気付き始めていた。

 ある日、ミランダが教会へ出掛けている隙にマダムが彼女の部屋へ押し入り、思い切ってクローゼットを開ければ、信じがたい物を目にしてしまう。


 クローゼットの中で衣服の中に紛れ込ませるように、様々な種類の度数の強い安酒が大量に買い込んであり、同じくらいに空瓶も放置されていた。

 まさか、ミランダがここまでアルコールに依存していたとは。

 あくまで店の商売道具とはいえ、幼い頃から特に彼女を目に掛けてきたマダムのショックの程は計り知れない。


 折が良いのか悪いのか、マダムがクローゼットを開けたまま呆然自失で立ちすくんでいる事を知らないミランダが教会から戻ってきた。

 自室の扉を開いた瞬間、ミランダは心臓が飛び出るかと思うくらいに驚き、危うく悲鳴を上げそうになった。飛び出した心臓が見る見る内に凍りついていく錯覚すら覚える。

 扉が開いた音でミランダの帰還を知ったマダムは、ゆっくりと振り返る。白雪姫の継母を思わせる年齢不祥の美しい顔は、ゾッとする程に冷たかった。


「……ミランダ、この大量の酒瓶は、一体何なのかしら??……」

 込み上げる怒りを押し殺すマダムの声は震えている。ミランダはマダムから目を思い切り逸らし、憮然としたまま答えようとしない。

「……ミランダ、こっちを向きなさい。そして質問に答えなさい……」


 相変わらずミランダは態勢を変えもしなければ口を開こうともしない。

 頑なな態度に、マダムは遂に怒りを爆発させる。彼女の元に足早に歩み寄り、彼女の頬を平手で打ち払った。


「……何すんのよ、この、クソ婆ぁ!!」


 ミランダは初めてマダムを罵倒すると顔面を拳で殴りつけた。思いの外殴り方が強かったようで、反動でよろけたマダムにすかさず飛びかかり、馬乗りになって殴り続ける。

 だが、騒ぎを聞きつけた店の用心棒や娼婦仲間達がすぐに部屋へ駆け付けると、ミランダは力づくでマダムから引き剥がされた。

 用心棒に押さえつけられながら、小さいけれど獰猛な山猫のようにフーッ、フーッと息を荒立ててマダムを睨み続ける。殴られた頬を押さえ助け起こされたマダムは、これまでに聞いた事が無い程に鋭く冷たい声でミランダに言い放つ。


「ミランダ、今すぐ荷物を纏めてこの店から出て言って頂戴。いいわね??」


 それだけ告げると、マダムはミランダの方を一切見向きもせず静かに部屋から出て行く。


 こうして、五歳の時からおよそ十八年間を過ごしたスウィートヘヴンを追い出される形で、ミランダは後にしたのだった。

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