最終話 海の向こうに

 槇子が車から戻って帰ってくるまでの間、惠美は一人で水平線を眺めていた。多喜と一緒に吹かれていたあの時と同じ潮風。それと同じ風が今、未だ埋まらぬ心の空洞を冷たく吹き抜ける。苦しい。今ここに、隣に多喜がいない事が途轍とてつもなく苦しい。


 目をきゅっと閉じて胸元でぎゅっと片手を握り締める。

 ダメな彼女でごめんね。多喜、槇ちゃん……


 目を開くとそこに多喜がいそうな気がして怖い。そんな事があったら心臓が止まるほど嬉しいはずなのに、怖い。


 惠美は小さな声でひとちた。


「多喜…… ずっとうじうじしてばっかのしょうもない私でごめん。でもやっと決めた。私は槇ちゃんと、槇子さんと生きていく。ずっとずっと生きていく。だからもう多喜のことばっかり考えてちゃいけないんだ。わかってね。ごめんね。でもだからって絶対に多喜を忘れたりなんかしないからね。またいつか思い出話しよう。愛してる。」



「惠美! こっちのベンチ座ろう!」


 槇子の大きな声が風に乗って聞こえてきた。


 恐る恐る目を開ける。


 目の前に広がるのは午後の日を浴びた海。さざ波が金細工のように優しくキラキラと輝いている。


 隣に多喜はいなかった。


 もういない。いないんだ。永遠に。

 

 とっさに息を大きく吸い込み脚を踏ん張り、手のひらを口元にかざし思いっきり叫ぶ。両端が少し削られた水平線の彼方に向かって。はるか遠くの多喜に届くように。きっときっと届くように。


 息を吐きつくして身体が前のめりになるほど叫ぶ。


「愛してる……  愛してるからねーっ! 多喜ーっ!ずっと忘れないからねーっ!」


 夕陽を浴びた一粒の涙が、海のきらめきと同じく金色の輝きを放って、砂浜にこぼれ落ちた。

 しかし今、惠美の顔に苦悩の色は見えない。その表情は愛に満たされた者の微笑みをたたえていた。


 深く息を吸い込み背筋を伸ばす。いで輝く海を見つめる。ふと視線を落とし、まぶたを閉じ何かを思う。が、すぐにまたおもてを上げ、真っ直ぐに黄金こがね色の海を見つめ、穏やかな笑顔で呟く。



「ありがとう」



 惠美はきびすを返し、槇子の声が聞こえた方に向かって力いっぱい駆け出した。



 背後に置いてきた海の向こうから微笑みが返って来たような、そんな気がした。



                                 ― 了 ―



 2020年9月25日 加筆修正をしました。

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