1月30日―海の向こうに
第28話 君といつまでも
「ね、槙ちゃん? どうしてこういう時に遅刻するのかな?」
槇子の白いセダンの助手席に乗り込むや否や、惠美はおはようのあいさつ代わりに、詰問としてはあり得ないほどの優しい口調で語りかける。ヤバい。こういう時は半ば本気で怒っているのを槇子は経験上よく知っている。
「え、いやぁ、あははぁ…… お布団が温かくてですねー」
単なる寝坊が遅刻の原因なので、槇子に弁明の余地は全くない。また多少の嘘などたちまち看破されるので、ここは素直に謝るか、悪あがきをして誤魔化すか話を逸らすしかない。が、可愛くかわせたら逆にいい効果があるかも、という一縷の望みもあった。
「うちのお布団だってそりゃあ温かいですけどね?」
少しトゲが見え隠れした気がする。当たり前だが可愛くかわせなかったようだ。
「うう、そんな責めないでよ」
泣き落としを試みる。
「責めます。その分一緒にいる時間が減るんですから」
思惑とは逆に可愛い事を不貞腐れた声で言われ胸がキュンとする槇子。大丈夫。これなら本気で怒らせずに誤魔化せる。いや、話をそらそうか。
「じゃあ、その分残りの時間を楽しい話でいっぱいにしよ? あ、そうそう。この前言ってた曲落としてきたんだー。聞いてみる?」
「槙ちゃん誤魔化すの上手くなってきた気がする」
「君の言葉責めほどじゃないさー」
「さらっとなんだかいかがわしいこと言わないで! そんなことしてませんし! それとちゃんとごめんなさいの言葉聞いてませんが。未成年の手本であるべき大人としては実によろしくない態度ですよね」
「本日は、遅刻し誠に申し訳ございませんでした。」
素直に頭を下げる。うっかり頭がクラクションを押してしまい、「プァッ」とどこか拍子抜けする音が出る。
「ぷっ。何それ? 最初から素直に謝ればいいのに… クスクス、それ何かの芸かと…… “ぷぴっ”って…… クククッ……」
「あはは、ま、まぁお許しいただけたようで何よりです。うふふ……」
「なんなんですか今度は? にやにやしちゃって」
「私は幸せだなぁ……って 君といる時が一番幸せなんだー なんてねー ふふー」
「加山雄三か!」
「二人をー夕闇がー包むーこの窓辺にー(※1)」
「明日もー素晴らしいー幸せーが来るだろー(※1)」
「あ、乗ってきましたね乗ってきましたね」
槇子は嬉しそうに身体を揺する。
「槙ちゃんのおかげですっかり歌の知識が団塊の世代向けになっちゃったよ」
「ふふふ、なのでえ、この落としてきた『ザ・テンプターズ(※2)』のシングルコンプリートをね」
「これはデートなんですか? それとも車内で昭和歌謡の歌声喫茶なんですか?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと控えめにしますって、ふふふ…」
「ホントかなぁ… それで、今日は?」
「足湯に行ってカフェでランチして、で惠美の言っていた公園行ってみよう。行ったり来たり結構時間かかるかもだけど」
「大丈夫。君といる時が一番幸せなんだ」
「よーし、男前なお言葉頂いたところで、行ってみよー」
「私男前かなあ」
首を傾げる惠美。
あの日以降二人の仲は急速に進展した。自社ビルの火災の後始末などで槇子は多忙を極め、結局過労で入院する羽目になった。この時の惠美の取り乱しようはなかったが、これによって二人の絆はさらに強くなった。槇子の仕事がひと段落して以降、二人は毎週のようにデートに出かけている。今回行く公園も惠美が多喜と行ったことのある思い出の場所だった。
足湯に浸かり身を寄せ合ってお喋りをして、ジビエのハンバーガーランチで向かい合って足をつつき合いながらお喋りをして、今は水平線が見える大きな公園 (※)にいる。波の激しい今の時期にしては驚くほど穏やかな海だが、それでも白波が目立つ。その合間に太陽の光がキラキラと反射されまぶしい。
「思ったより風つよ…」
ほんの少し伸びた槇子の髪が風で揺れる。どうやらこのまま伸ばし続けるつもりのようだ。
※ 海浜公園は宮城県気仙沼市にある小泉海岸を参考にしました。
▼用語
※1 二人を夕闇が包むこの窓辺に 明日も素晴らしい幸せが来るだろう
「君といつまでも」
作詞・作曲 岩谷時子、弾厚作 歌 加山雄三
1965年12月5日 東芝レコードよりリリース
※2 ザ・テンプターズ
日本のGS(グループ・サウンズ)
ボーカルの「ショーケン」こと萩原健一をはじめ5名編成。1967年から1970年まで活動。
ちなみに槇子が言うところの「シングルコンプリート」とは、シングル両面全曲をリマスター収録し1999年に発売された「ザ・テンプターズ・コンプリート・シングルス」を指す。
【次回】
第29話 海
5月18日 21:00 更新予定
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