10月24日

第20話 燃え盛る炎

 槇子に会いたい自分を自覚しながらも、一度は自分の方からはっきりと槇子を拒んだ惠美。惠美はそのことをひどく後悔していた。かといって自分の方から槇子の会社に電話をするなど図々しい真似はどう考えても出来ない。惠美の中で、槇子とのことはもう終わった話として心のどこかに押し込めるしかなかった。

 それでもどうかすると多喜との思い出に浸っている時、不意に槇子の姿が、声が、頭に浮かぶ。その度に惠美はまた自室の椅子の上やベッドや浴室で一しきり涙を流し続けるのだった。惠美は多喜よりも槇子のことで泣くことが次第に増えていった。


 学校に通って帰ってたまに気が向いたら宿題して、そして多喜や槇子の記憶がフラッシュバックして泣いて一日が終了。そんないつもと同じ無意味で無駄で苦しいだけの一日になるはずだったある日。10月24日午後4時7分。スマートフォンが鳴動した。リビングのソファで寝ころんでいた惠美は、パーカーのマフポケットにだらしなく突っ込んでいたそれをだるそうに取り出し、寝返りを打ちながら何気なく画面を覗く。どこかのサイトからの通知が着信している。どうやらニュースみたいだ。



《極北海洋資源本社ビル火災27名連絡取れず》



 全身から血の気が引く音が聞こえる。多喜の知らせを紗子さえこおばさんから聞いた時に聞こえたのと同じ音だ。

 ニュースを検索する指がぶるぶる震える。冷たい汗が額を首筋を背中をわきの下ににじむ。呼吸が浅く早くなる。薬がいるかもしれないほど動揺している。

 すっかり冷たくなった指でスマートフォンを操作して調べても、ネットでは新しい情報が見つからない。TVを点ける。チャンネルを回す。突然7、8階建てくらいのビルの真ん中あたりからもくもくと黒煙が上がる様子を映したローカル局の映像が現れる。全身に鳥肌が立つ。


 この中に、このビルの中に、槇子さんがいるのか

 脱出できたのか。それとも27人の中に入っているのか

 ケガはないのか

 ケガをしているのならその容態は

 病院に運ばれたのか

 まさか死ぬなんて


 まさか


 死ぬ


 最悪の予想が頭の中に浮かぶとそればかりがグルグルと頭の中を駆け巡る。

 ソファに座り直し身を固めてTVとスマホを交互に見る。ネットでもTVでも連絡の取れない人の数は18名にまで減り、死者も今のところないと報道されている。重篤な人もいないようだ。しかしそこから先が長い。連絡の取れない人の数は全く減らないし、ビルから上がる黒煙も全く収まる気配がない。改めて水産資源調査室の所在をスマホで調べる。以前調べた通りやはり本社ビル内だ。


 今度は槇子さんがいなくなるのか。

 

 多喜のように。


 頭の中でこの言葉が稲妻のように閃くと、惠美は何もかも考えられなくなった。極北海洋資源本社ビルに行き、槇子の安否を確認する。自分で、この目で槇子の姿を確かめる。この衝動が突然火柱のように惠美の心で吹き上がり、いきなり熱を帯びた身体が勝手に動きだす。


 家のお金を引っ掴んで、制服にパーカーといった出で立ちのままブレザーも羽織らず鍵すらかけず飛ぶようにしてマンションから駆け出す。


 駅前まで一目散に走り、客待ちのタクシーに飛び込む。タクシーの後部座席で身を縮こまらせている間、頭の中では同じ考えがグルグルと回り続けていた。


 もう誰かと死んでお別れするのは嫌だ 


 槇子さんとお別れするのは嫌。槇子さんが死ぬのは嫌だ。絶対に嫌だ。


 逢いたい、槇子さんに逢いたい。ただただ逢いたい。理由なんてない。あの笑顔が見たい、あの手に触れたい、あの春の日の夕暮れと同じ瞳で、まるで射すくめられてしまったかのように見つめられたい。


 タクシーを極北海洋資源本社ビルの傍まで着けてもらう。ここから先は規制線が張られていて先には進めない。


 黄色地に赤の規制線テープの内側では幾台もの消防車が猛烈な放水作業を続けている。周囲のアスファルトは水浸しでビル周辺も大雨が降っているかのようだ。惠美もその放水をかぶる。周辺を慌ただしく行き交う消防隊員や救急隊員、警察官。騒然として大声が飛び交う。その状況を見て動揺する惠美。この中に槇子さんがいるのか。どうやって探せばいいのか。一体どこにいるのか。

 その時一人の女性がストレッチャーに乗せられてビルから運び出されてきた。惠美はとっさに規制線をくぐってそこへ駆け寄る。


「あ! こら! ダメだ! 危ないから来ないで! 下がって! 下がりなさい!」


 背後で男性の声が聞こえたが、惠美はそれを無視し、そのままストレッチャーまで猛然と駆け寄る。ストレッチャーの救急隊員もこれに気が付いたようで、片手を上げて惠実を大声で制している。

 今の惠美には何も目に入らないし耳に入らない。駆け寄ったストレッチャー上の女性は槇子ではなかった。半ばパニックに陥っている惠美は落胆する間もなく矢継ぎ早に声をかける。


「すいません! 水産調査室は!! 何階なんですか?! 水産調査室は大丈夫なんですか?! 加々島槇子は無事なんですかっ! ねぇ! 起きて! 水産調査室の加々島槇子はっ! 槇子さんはっ!」


 いくら声を掛けても女性の意識は戻らなさそうだ。後ろから左腕を強く掴まれる。


「貴女がいたら救える人も救えなくなります。黙って規制線の外に下がって下さい」


 キッ、と背後を鋭い眼でにらむと、どこか見覚えがあるような丸顔に眼鏡とマスク姿の救急隊員が立っている。お婆さんの救命をした時の救急隊員だった、のかも知れない。意表を突かれて一瞬頭も身体も停止する。


 彼もそれに気づいたようで、惠美の腕から手を離す。聞き覚えのある感情の薄い口調で惠美に語りかけた。


「もしかすると以前、お二人でお婆さんの救命救助をなさった方ではないですか?」


 他の隊員が惠美に何か声を掛けようとするが彼はそれを手で制し、


「となるともうお一方ひとかたの安否が知りたいんでしょうか」


 と続けた。


 はっ、と我に返る惠美。


「あ、はい、はいっ! わ、分かりますか? 分かるんですかっ!」



【次回】

 第21話 抱擁

 5月10日 21:00 公開予定


 2022年2月4日 誤字を訂正しました。

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