第16話 今度は奪わせない

「……決めた」


 悩んだ末に哲郎は、水町玲子との思い出の場面を頭の中で描いた。


 するとスイッチが光ったので、迷わずに指で押した。


 眩暈に近い独特な感覚に襲われ、歪んだ視界がやがて闇に閉ざされる。


 浮遊感を味わうのは一瞬だけで、気づいた時には哲郎は外で立っていた。


「……どうしたの、哲郎君」


 目の前には水町玲子がいる。周囲は夜で、自宅の近くを恋人だった少女と歩いていた。


 この場面には、確かに覚えがあった。もしかしてと思った哲郎は、状況確認のための台詞を口にする。


「いや、何でもないよ。夜なのに、自宅まで来てくれたことに感激してるんだ」


「え……ほ、本当にどうしたのよ、もう……」


 少し困ったようでいながらも、照れた様子で水町玲子が呟いた。


 相手の反応で、哲郎は間違いないと確信する。今は巻原桜子に中学校での出来事――つまりは、貝塚美智子との一件を教えられた日の夜である。


 心配になった水町玲子が夜にもかかわらず哲郎の家へやってきて、こんな一面もあったのだと驚かせてくれた日だった。


 このシーンに何かしらの意味があるからこそ、こうして戻ってきたのだろう。けれど、その何かがわからない。あれこれ考えながら、哲郎は前回と同じ道を辿る。


 貝塚美智子は恋人のいる哲郎に興味があるだけで、男性として意識してるわけではない。水町玲子が嫉妬してくれて嬉しい。以前とまったく同じ展開だった。


 これでいいのかと思ってるうちに、哲郎が水町玲子を送っていく場面になる。


 ここで哲郎は、水町玲子にふられた際の台詞を思い出した。


 ――私は……もっと、哲郎君と手を繋いだり……仲良くしたかった。


 相手の心情を把握しきれなかった哲郎は、この言葉とともに涙を流した。


 けれど現在の状況は少し違う。事情を知らなかった前回とは異なり、哲郎はこの先に訪れる未来を知っている。


 何よりも強烈なアドバンテージは、歩く道そのものを変更させられるだけの力がある。


 恥ずかしさや、相手が嫌がったらどうしようなどの思いから、従来の哲郎は積極的になりきれなかった。


 けれど水町玲子自身が望んでるとわかれば、躊躇う必要はなくなる。


「手を……繋いでも、いいかな」


 尋ねるのは無粋な感じもしたが、小心者ぶりが見事なまでに発揮された。


 水町玲子は一瞬だけ驚いたものの、すぐに頷いてくれた。


「前にも……こうして、手を繋いだよね」


「うん……覚えてるよ」


 手を繋いだ直後の水町玲子の言葉に、哲郎はすぐ反応した。


 母親以外の女性と、しっかり手を握ったのは初めての経験だった。


 決して忘れられない思い出であり、哲郎の記憶の中で宝物みたいに色褪せないまま、常に光り輝いている。


「僕が好きなのは……玲子さん――いや、玲子だけだから、きっとこれから何度でも、手を繋いで歩けるよ」


 哲郎からそんな台詞が発せられるとは思ってなかったのか、これまたビックリしたように水町玲子がこちらを見てくる。


 しかしすぐ満面の笑みを浮かべてくれる。会話はほとんどなくなったが、それでも水町玲子は家に着くまでとても幸せそうにしていた。


   *


「なんか、梶谷の恋人に興味がわいてきたな。できるなら、一度会わせてもらえないか」


 ある日に聞こえてきたのは、忌まわしい思い出しかない台詞だった。


 発したのはもちろん平谷康憲であり、哲郎から恋人を奪った張本人だ。友人だと思っていた男性の仕打ちに、想像を絶するほどのショックを受けた。


 しかも平谷康憲は謝罪するどころか、開き直って哲郎へすべての責任をなすりつけた。


 外面だけで人を判断してはいけない。その一件で、哲郎は改めて痛感させられた。


 だがすでにそれも過去の話。現在の平谷康憲と、水町玲子に面識はない。すべてはここから始まる。


 断るのも考えた。けれど哲郎は、あえて平谷康憲と水町玲子を対面させようと決めた。


 あまりに渋り続けていると、余計に相手の興味を惹くかもしれない。そうなれば、平谷康憲が自らの意思で水町玲子を探す可能性も出てくる。


 哲郎の与り知らぬ場所で、勝手に認識を深められる方がずっと困る。


 それに今回は哲郎にとって、リベンジの意味合いも含まれていた。


 哲郎が恋人を紹介する件を了承すると、話はとんとん拍子で進んだ。日付や場所が決まり、水町玲子の都合を巻原桜子が確認する方向で調整する。


 もちろんすべての流れを、哲郎は一度経験している。


 今さら驚くべき点は何もなく、当たり前のように頷くだけだ。そして約束の日がやってくる。


   *


「初めまして、水町玲子です」


 哲郎の恋人として自己紹介した水町玲子に、初対面の平谷康憲が見惚れている。


 当時はまったく気づけなかったが、冷静になってよく観察すれば一目瞭然だった。


 平谷康憲の反応を見るに、もしかしたらこの日すでに水町玲子を狙おうと考えていたのかもしれない。友人たちとのピクニックで、哲郎はひたすら舞い上がるだけだったのを、今でもはっきり覚えている。


 からかってくる巻原桜子や貝塚美智子への応対に忙しく、赤面してばかりでこの日の遊びは終わった。


 考えてみれば、ほとんど水町玲子を構っておらず、恋人の女性は平谷康憲とばかり話をしていた。


 案の定、巻原桜子が先陣を切って、哲郎への冷やかしを開始してくる。


 四苦八苦してる間に、これまた予想どおりに平谷康憲が水町玲子へ接近する。


 だが二度目のシーンにもかかわらず、指を咥えて見ているだけでは愚の骨頂である。


「あ、ちょっとごめん」


 それだけ言って、巻原桜子と貝塚美智子のコンビをあしらうと、哲郎はすぐに恋人の側へ向かった。


 平谷康憲が話しかけるよりも早く、交際している少女の手を握り、仲の良いところをあえて見せつける。


「どうだい? 僕の恋人は美人だろ」


 しっかり繋がれている哲郎と水町玲子の手を掲げて、親密ぶりをこれでもかとアピールする。


 あわよくばと考えていたのが丸わかりになるぐらい、平谷康憲は落胆すると同時に微妙そうな引きつった笑顔を浮かべた。


 あまり人を悪く思わない哲郎も、この時ばかりは「ざまあみろ」と心の中で叫んで舌を出した。


 もっとも現時点の平谷康憲にすれば、哲郎に恨まれる理由など思い当たらないはずだった。


「あ、ああ……本当に驚いてるよ……」


「そうだろ。僕の数少ない自慢のひとつなんだ」


 言いながら、相手の目を正面から睨むように見る。


 喧嘩の心得などまったくない哲郎だったが、それだけで平谷康憲は少し臆していた。


「あっ、いきなり手を繋いでる。本当に恋人同士なんだね」


 何故か感心したように、貝塚美智子が頷いている。


 発言を聞いてやってきた巻原桜子も、哲郎と水町玲子が手を繋いでるのを見ておおはしゃぎする。


「私は前にも見てるけどね。この二人、人目も気にしないでイチャイチャするんだから、いい迷惑なのよ」


 そう言いつつも、巻原桜子はどこか楽しそうに笑っている。


 貝塚美智子も同様なリアクションをとっているのを見て、哲郎はほんの少しだけ安堵した。


 せっかく告白してくれたのに、返事もしないままで過去へ戻ってきた。


 少なからず罪の意識が残っているがゆえに、気のある素振りを見せられたら平常心でいられるかは疑問だった。


 けれどこの時点の貝塚美智子は、まだ哲郎へ特別な感情を抱いてるようには見えない。それならば、水町玲子と仲良くする姿を見せておけば、未然に好意を得るのを防げる。


 まさに一石二鳥と、人前にもかかわらず、哲郎はあえて恋人の少女とイチャついてみせる。


 周囲のからかいは予想どおりなものの、意外だったのは水町玲子があまり嫌がってない点だった。


 むしろ「もう、哲郎君たら……」などと言いながらも、喜んでるような素振りさえ見せてくれた。


「ここまで仲が良いなんて、羨ましいわ。私も早く、いい人を見つけたいな」


 貝塚美智子の呟きへ、即座に巻原桜子がうんうんと賛同する。


 該当の二人を、哲郎と手を繋いだままの水町玲子が「桜子と、貝塚さんなら大丈夫」と励ました。


「うわー、恋人がいる女性の余裕ってやつよね。なんだか凄い負けてる気がする」


 そう言いつつも、怒ってる様子はなく、友人の幸せを祝福するように巻原桜子は笑っていた。


 それを見て水町玲子も笑顔になり、つられるように貝塚美智子も破顔一笑した。


 唯一ぎこちないままだったのが、熱烈な愛情を見せつけられた平谷康憲だった。


   *


「実はね……最近、ラブレターをよく貰うんだ」


 水町玲子がそう言ってきたのは、哲郎が同じ中学校の友人たちに恋人を紹介してから数日後のことだった。


 親密ぶりを表に出した方が相手も喜ぶと確信した哲郎は、すぐさま母親の小百合にも水町玲子を紹介していた。


 中学生にしては早すぎる展開だと思ったが、交際してる少女も嬉しがっていたみたいなので決行した。


「あら、そうなの」


 いつもの優しげな笑顔は浮かべていたものの、小百合から返ってきた言葉はそのぐらいである。


 もっとも交際当初に教えていたため、新たな驚きを抱かなかっただけかもしれない。特に気にせず、哲郎はやがて気軽に水町玲子を家へ上げるようになっていた。


 こういう場合に自分の部屋があるのは便利で、他の家族に邪魔されず、二人だけでお喋りを楽しめた。


 水町玲子は中学校で文芸部へ所属しており、部活の内容は読書及び創作活動などで、哲郎が入ってるのと大差ないみたいだった。


 もっとも帰宅部の隠れ蓑として選んだ哲郎とは違い、水町玲子は自宅などでも真面目に小説や詩などを書いてるらしかった。


 そんな少女の自宅の郵便受けや、果てには中学校の下駄箱にまで同じ筆跡、同じ文面での恋文が入れられている。


 少し不安げな様子で、水町玲子が哲郎の部屋で相談してきた。


 同じ小学校だった人間に聞けば、住所を知るのもそう難しくない。下駄箱に関しては、同じ中学校に通っていれば余裕なはずだった。


 水町玲子と同じクラスもしくは、同じ中学校の男性という線が強い。けれど、哲郎にはもしかしての思いもあった。


 恋人との親密ぶりを目の前でアピールしてやったからというもの、あまり哲郎と口をきかなくなった友人男性の存在である。


 隠しても仕方ないので、あくまでも可能性のひとつとして、哲郎は平谷康憲の名前を挙げた。


「平谷君……? その人って、この前、一緒に遊んだ男の子よね」


 最近の出来事だけに、水町玲子の記憶にも、まだ相手の顔と名前が残ってるみたいだった。


「哲郎君……あの人と、何かあったの? この間は、ずいぶんと意識してるように見えたんだけど……」


 さすがの洞察力と言うべきか、少なからず哲郎が平谷康憲へ悪意を抱いていたのを、恋人の少女も態度から察していた。


「普段は丁寧な言葉遣いなのに、平谷君の時だけ、少し乱暴になっていたから、気になってはいたの」


 悪戯に誤魔化しても不信感を募らせるだけ。何事もストレートが一番。スイッチ使用前の中学生活で、恋人を寝取られた際に学習した。


 他の女性の場合は違うかもしれないが、とにかく水町玲子にはわかりやすい行動と言動が、もっとも効果があると半ば確信していた。


「気づかなかった? アイツ……玲子に気があったんだよ」

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