第12話 恋人の嫉妬

「哲郎君はいますか」


 夕食を終え、宿題へとりかかっていた哲郎の自宅へ、若い女性の声が響いた。


 控えめに開いたドアの音に反応して、応対した小百合へ告げられた内容である。


 部屋から出てきた哲郎が見たのは、玄関に立っているひとりの少女だった。


 現在交際をしている水町玲子であり、なんとなしに哲郎は嫌な予感を覚える。


 今の哲郎にとって中学校の宿題など、苦労するレベルではない。開始してものの十数分で、与えられた課題は残りわずかになっていた。


 父親も帰宅しており、現在は居間でゆっくりしている。チラリと哲郎と水町玲子を見ただけで、あとは別に何も言わなかった。


 母親の小百合だけが怪訝そうな表情をしており、なんとなく家で会話をするのは躊躇われた。


 そこで哲郎は「少し、そこら辺を散歩してくるよ」と両親へ告げ、水町玲子とともに家を出た。


「こんな時間に一体どうしたの?」


 五十年も経過すれば街灯などの設備も整っており、たいした問題ではないが、現在ではまだまだ女性がひとりで出歩くには危険な時間帯だった。


 時刻にすれば夜の七時過ぎ程度なのだが、町中の店もほぼすべて閉まっており、歩く道路を主に照らしてくれるのは月明かりだった。


 大事な娘がひとりで出歩くとなれば、水町玲子の両親だって良い顔をするわけがない。というより、よく許可を得られたものである。


 もしかしてと思い、哲郎は「まさか、勝手に出てきたの?」とカマをかけてみた。


 どうやら図星だったみたいで、水町玲子は俯いて何も言えなくなってしまった。


 まだ着替えも済んでいないので、中学校で指定されているセーラー服のままだった。


 綺麗に伸ばされた黒髪とよくマッチしていて、すでに綺麗だと称せるレベルである。


「……ごめんなさい。けれど、どうしても哲郎君に会いたくなって……」


 元来、女性に縁のなかった哲郎にとっては、卒倒しそうなぐらいに嬉しい言葉だった。


 学生時代――厳密には今も学生なのだが、どれだけこういうシチュエーションを妄想しただろうか。長年の夢がひとつ叶った気分である。


「そ、それは嬉しいけど……何か、急用だったの?」


 哲郎が尋ねると、またもや水町玲子は難しい顔をして押し黙る。


 どうやら、相当に言いにくい問題を抱えてるみたいだった。


 従来の哲郎なら相手の言葉を待ち続け、悩みを聞く機会を失していた。


 けれど今回の人生でもまた、同じミスを延々と繰り返し続けるわけにはいかなかった。


 膝が震えるくらいの勇気を要したが、思い切って「話してみてよ」と水町玲子へ悩みを相談してくれるように促した。


「うん……実はね……さっきまで、桜子が遊びに来てたの」


 桜子とは、言わずと知れた哲郎と同級生の巻原桜子である。小学生時代は水町玲子ともクラスメートで、相当に仲が良かった。


 まだ中学校へ進学したばかりであり、これまでの友人たちとも親交を温めてるみたいだった。


 当たり前のような気がしないでもないが、そのわりには卒業以来、哲郎の家を訪ねてきたのは水町玲子が初めてなのである。


 記憶の中では卒業してからしばらくの間は、いつもの空き地で野球などを楽しんでいたはずだが、最近はそういう機会もめっきりなくなっていた。


 誘われなくなったというのも影響しているが、哲郎自身があまり興味を見出せなくなっていたのだ。その辺は積み重ねてきた人生観が、邪魔をしてる可能性もあった。


 大人としての思考も備えてる哲郎だけに、泥んこになって走り回るのを楽しいと思えなかった。


 上辺だけで遊びに付き合っていても、子供というのは多感なものですぐその事実に気付く。結果として、のけ者にされるのは想像に難くなかった。


   *


 そうした事情から、男児との交友関係は本来の中学生活と大差なくなりつつあった。


 とはいっても、それは従来の友人たちとの話である。中学校で新しく出会った者とは、それなりに話をしている。


 そうした人々と哲郎を結びつけたのが巻原桜子であり、そして該当人物と仲良くなるきっかけをくれたのは、他ならぬ水町玲子だった。


 リニューアルしたともいえる中学生活を送れているのは、水町玲子のおかげと言っても過言ではなかった。


 恩人も同然の少女が、夜に哲郎の自宅まで来たのは、当然理由が存在する。


「桜子が言うにはね……その……哲郎君が、他の女の子と……凄く仲が良くなってるって……」


 泣きそうになってる少女の視線を一身に受けながら、哲郎は内心で頭を抱えていた。


 女性同士仲が良いのは知っているが、中学校での出来事を逐一報告してるとは想定外だった。


 だが哲郎は何もやましい真似はしておらず、貝塚美智子へ特別な感情を抱いてるわけでもない。あくまでも、水町玲子の勘違いである。


 面倒な性格とは思わず、このような経験が初めての哲郎にはむしろ新鮮だった。


 相手の少女が嫉妬してるのは明らかであり、いけないとわかってるのに、どうしても顔が緩む。哲郎を黙って見つめている水町玲子が、怪訝そうな顔をした。


「どうしたの……何か……楽しそうだけど……」


 言葉の端々に不満さを滲ませている水町玲子へ、まずは「ごめん」と謝る。


「なんだか、嬉しくなったんだ。だって、焼きもちを焼いてくれてるんでしょ」


 焼きもちという単語に、水町玲子が露骨に反応する。


 そういうわけではないと言いたげなのに、言葉にできないでいる。


 思うようにいかないもどかしさで、もじもじする仕草がとても可愛らしかった。


「それは……その……あの……」


 しどろもどろになる恋人へ、哲郎は「大丈夫だよ」と優しく告げる。


「巻原さんが言ったのは多分、貝塚美智子さんのことだと思う」


 嘘をついたところで余計に怪しまれるだけなので、正直に学校での出来事を教える。


「貝塚……美智子さん?」


「うん。今日、知り合ったばかりなんだけど、僕にというより、恋人がいることに興味がありそうだったよ」


 哲郎には水町玲子という恋人がいること。貝塚美智子が、交際内容について根掘り葉掘り聞いてきたこと。要点をまとめて説明すると、隣を歩いてる少女はようやく落ち着きを取り戻した。


「そうなんだ……もうっ、桜子ったら、大げさに言うんだから……!」


 自分が原因で、友人関係にひびが入ってはマズいと、哲郎は慌てて巻原桜子のフォローをする。


「ハハハ。多分、からかったつもりなんじゃないかな。今頃は言い過ぎたかなって、反省してるかもしれないよ」


「うん……そうかもしれないね」


 納得した様子だったが、次の瞬間、急に水町玲子が勘ぐるような目を向けてきた。


 何事かと思っていると、少しだけ少女が唇を尖らせた。


「哲郎君……やけに、桜子の肩を持つよね」


「え? そうかな……気にしてなかったよ」


 何も考えずに返答したが、改めて考えると結構な内容の台詞である。


 よもや、水町玲子の口から、そのような言葉が生まれるとは驚きだった。


 それだけ好意を寄せてくれているのだ。改めて水町玲子の想いを知って、哲郎は感動で胸をジンとさせる。


「とにかく、心配するような事は何もないよ。僕を信じて」


「……うん、わかった。こんな時間にありがとう。どうしても……気になってしまって……」


 夜に来訪したのを申し訳なさそうにする水町玲子へ、哲郎は「気にしないで」と告げる。


「僕も、玲子に会えて嬉しかったからね」


 哲郎がそう言うと、水町玲子はもう一度「ありがとう」と口にしたのだった。


   *


「ごめんねー」


 翌日の学校で、哲郎の姿を見つけるなり、巻原桜子が謝ってきた。


 別に水町玲子との関係がギクシャクしたわけではないので、哲郎は普通に「気にしないでいいよ」と返した。


 水町玲子を送ったあと帰宅しても、父親は何も聞かなかった。


 代わりに母親の小百合が聞きたそうな顔をしていたが、家主である哲也が何も言わないので口を開けないでいるようだった。


 聞かれても別に構わなかったし、母親の小百合には以前すでに恋人だと水町玲子を紹介している。


 小学生には早すぎると小言を食らった記憶があるが、哲郎はたいして気にしていなかった。


 その点は哲郎自身も十二分にわかっていたし、現時点で大人の付き合いをするつもりもない。然るべき年齢になるまでは、普通に交際を楽しもうと考えていた。


 心配する気持ちはわかるが、仮に過ちを犯しても、哲郎には例のスイッチという最終兵器がある。


「ちょっと、ちょっと。何の話をしてるの」


 話はもう終わったかと思いきや、教室にいた貝塚美智子が哲郎と巻原桜子の会話を聞いて駆け寄ってきた。


 そこへ中学校へ入ってから、哲郎と友人になった平谷康憲が加わる。


 最近ではこの四人がひとつのグループとなり、行動する機会が増えていた。


「もしかして、喧嘩でもしたのか」


 平谷康憲の言葉に、真っ先に反応したのが貝塚美智子である。


「修羅場になったの?」


 目を輝かせている少女の問いかけに、哲郎は吹き出しそうになる。


 恋愛系のラジオドラマの聞きすぎだと突っ込みそうになるのを、喉元でグッと堪える。


 代わりに平谷康憲が、哲郎の心情を察したかのごとく、同様の内容の台詞を口にした。


 若干拗ねたようにしながらも、貝塚美智子は「だって、気になるでしょ」と執拗に食い下がる。


「きちんと話したから大丈夫だよ」


 この言葉に、耳をピクリとさせたのは巻原桜子だった。


「じゃあ昨日、玲子と会ったの」


 どうやら水町玲子が哲郎を訪ねてきたことまでは知らなかったらしく、大きく目を見開いている。


 この展開に他の面々も興味津々となり、何があったか教えるまでは諦めそうになかった。


 仕方なしに哲郎は、水町玲子が夜に尋ねてきたことを告げる。


「うわー、玲子ったら、大胆よね。結構思いつめたような顔をしてたから、相当なショックを受けたのは見ててわかったけど、そこまでだったなんて驚きだわ」


 口元に手を当てて申し訳なさそうにしているが、元凶としての責任はあまり感じてなさそうである。


 哲郎も責めるつもりがないので、極端に落ち込まれるよりはマシかもしれない。前向きに、そう考えておくことにした。


「で、訪ねてきた恋人を抱きしめて、俺にはお前だけだ! とか言ったりしたんでしょう」


 勝手な妄想を爆発させては、貝塚美智子と巻原桜子がキャーキャーはしゃいでいる。


 色恋沙汰に興味ありまくりの女性陣と違って、哲郎と同性の平谷康憲は割りと冷静だった。


「何もなかったなら、よかったじゃないか。けど、なかなか情熱的な女人だな」


「そうだね。僕も初めて、彼女のそうした一面を知ったよ」


 基本的におとなしい女性と思っていただけに、昨夜は哲郎も相当に驚いた。


 本来なら知る機会を失った初恋の女性の性格が、少しずつわかってくる。これもひとつの喜びだった。


「なんか、梶谷の恋人に興味がわいてきたな。できるなら、一度会わせてもらえないか」


 平谷康憲の発言に、貝塚美智子が「私も、私も」と即座に賛同する。


 元々仲の良い巻原桜子が反対するわけもなく、自動的に多数決で平谷康憲の案が可決される。


 こうして今度の休日に、水町玲子を紹介するべく、皆で遊びに出かけることになったのだった。

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