第9話 鉛筆の交換と玲子の心配事

 授業が終わると、水町玲子は鉛筆を返そうとしてくれたが、哲郎は丁重に断った。


 何故なら今日の学校はまだ終了ではなく、これからも鉛筆の活躍する舞台がやってくるからである。


 恐らくは休憩時間のうちに、仲の良い友人から借りるつもりだったのだろうが、それならばこのまま貸しておいても大差なかった。


 哲郎に負担をかけるのを嫌ったのか、どうしようか悩みつつも、やはり返却を希望する。


 そこで哲郎は「それなら、交換しよう」と提案した。


「交換?」


 小首を傾げて訝る少女へ「そう、交換」と同じ言葉を繰り返す。要するに水町玲子の折れた鉛筆と、先の授業で哲郎が貸した鉛筆をトレードしようというのである。


 そうすればあげたことにならないので、相手の精神的負担も幾らか軽くなるはずだった。

 証拠に、哲郎の説明を受けた水町玲子は、どうしても返すというような態度はとらなくなっている。


「でも……私の鉛筆は、芯が全部折れてしまってるし……」


 交換するには価値がつり合わないとでも言いたげな水町玲子に、哲郎は「そんなことないよ」と笑顔で告げる。


「別に気を遣ってるわけじゃないんだ。単純に、お互いの持ち物を交換したいと思っただけなんだよ。それに家へ帰れば、鉛筆は削れるんだしね」


 どうすれば相手に嫌な印象を与えずに、鉛筆をあげれるか。考え抜いた末に、頭の中で完成した台詞を口にする。


 一度大人になって戻ってきた哲郎だからこその配慮と、思考能力だった。


 若干臭い台詞のように感じられたが、哲郎も含めてこの場にいるのは全員小学生。異性の言動に対して、露骨な反応はしないだろうと考えた。


 ゆえに奥手の哲郎であっても、先ほどみたいな発言ができたのである。


「そ、そうだね……私も……梶谷君の鉛筆……欲しいかもしれない……」


 そういうことならと、すんなり承諾に応じてくれるかと思いきや、ここで予想外の反応が返ってきた。


 顔を真っ赤にした水町玲子が、もじもじと照れた様子を見せている。


 当たり前だが、そうした仕草は哲郎が大好きだった当時のままだった。


 嬉しさと懐かしさ、それに恥ずかしさも加わって、なんとも形容し難い感情が哲郎の中で構築される。


 不意に目が合うと、慌てて同時に横を向き、ほんの数秒後にまた視線をぶつける。


 よほど波長でも合うのか、わずかな時間で同様の行動が何度も繰り返された。


 次第に何やらおかしくなってきて、つい哲郎は笑ってしまった。


 すると隣の席の少女も、つられたように笑顔を見せてくれた。


「もう……梶谷君ってば……そんなに笑わないでよ」


「ごめん、ごめん。でも、なんだか、とてもおかしくてさ」


 二人だけの世界へ突入したあとで、改めて互いの鉛筆の交換を申し出る。


「うん……梶谷君さえ、迷惑でなければ……」


「迷惑だなんて、とんでもないよ。一生の宝物にするからね」


 心臓をドキドキさせながらそう話す哲郎は、六十歳過ぎの老人ではなく、紛れもない小学生になっていた。


 どんどんと過去の自分に馴染んでいき、やがてこの時代が本物の現在に変わる。


 人生をやり直してる実感がますます増え、哲郎の心に久しく忘れていた未来への希望が蘇ってくる。


 ここから自分の本当の人生が始まるんだ。自然とそんな気分にもなる。


 間違っていたと思える選択肢を変え、新しい未来にあるべき哲郎の本当の姿を探す。考えるだけで、ワクワクしてきた。


 次の授業が始まれば、チラチラと隣の席を盗み見て、哲郎の鉛筆を使っている少女の姿に淡い恋心を膨らませる。


 大人になってから考えればままごとみたいな関係かもしれないが、当時と同じ立場になればそうでないとわかる。


 小学生は小学生で一生懸命、その時の遊びや勉強や恋に全力を尽くしているのである。


   *


 交際するといっても、まだ子供なので、付き合い自体はプラトニックそのものだった。


 異性関係において、経験はなくとも進んだ思考を持っている哲郎とは違い、水町玲子は特殊な道筋を辿ってこの場にいるわけでなかった。


 ムードの作り方もわからない奥手人間だったので、むしろこうした状況はありがたいとさえ思えた。


 哲郎もまた小学生として、すべてを一から勉強していけばいいのである。


 勉学はある程度やってきたので、今回も同様の人生を構築する必要はない。とはいえ、何事も筋道を立てて考えすぎてもつまらなかった。


 とにかく楽しもう。哲郎の行動指針は、いつしかその一本にまとめられていた。


 登下校は恋人となった水町玲子と行い、生徒のみならず教師も知ってるぐらいに哲郎との交際は有名になっていた。


 最初は気恥ずかしさが大勢を占めたが、最悪またやり直せるんだからという安心感が、哲郎を開き直らせた。


 相手をあまりに気遣うより、むしろ堂々としてる方が女性受けがよかった。


 これまではそうでもなかったのに、水町玲子と交際するようになってから、何故か女子の間での哲郎人気はうなぎ登りらしかった。


 だからといって、哲郎が他の女性へ目を向けることはなかった。


 この時代へ戻ってきたのは、初恋の女性だった水町玲子へ会いたいがためであり、念願の両想いになれたのだから充分だった。


 哲郎からすれば当たり前だったにもかかわらず、誘われてもなびかない男らしい人間として、またも知らない間に評価が上昇していた。


「最近……梶谷君って、女子に人気があるよね……」


 ある日の帰り道、いつものとおり二人で帰宅していると、唐突に水町玲子がそんなことを言ってきた。


 これまでもたまに冗談交じりで言われたりしたが、今回はいつにも増してテンションが低かった。


 どことなく寂しげな様子で、巨大な不安を抱えてるのがひと目でわかる。


「大丈夫だよ。僕は水町さんと付き合ってるんだから」


 これまた幾度も繰り返してきた言葉を送り、相手の少女に安心感を与える。


 いつもはこれで「うんっ」と水町玲子が満足そうに頷いて、話は終了になっていた。


 けれど今日に限っては元気な返事は聞かれず、代わりに滅多に見せない悲しみに満ちた顔で俯いてしまった。


 水町玲子の仕草や表情には、覚えがあった。最近の出来事ではなく、ずっと前の記憶の中に答えが残っている。


 哲郎の人生の分岐点となった校庭での告白の日である。


 戻ってきた哲郎は勇気を出して告白し、本来辿るべきだった道とは違うところを歩いている。


 けれど、哲郎は告白できなかったケースの記憶も所持している。そこに今の状況と、酷似しているシーンがあった。


 想いを告げるのを諦めて、友達と遊びに向かう直前に見た水町玲子の姿と同じだった。


 何十年経過しても覚えてるぐらい後悔した出来事だったので、その頃の記憶は色褪せてなく、今も鮮明に思い出せる。


 経験から推察すると、哲郎の反応が水町玲子の求めているものではなかったというのが一番しっくりくる。


 どこを間違えたのだろうと考えてみても、答えは見つからないので、ここは素直に直接相手へ質問してみる。


「何をそんなに心配しているの。僕にも話してみてよ」


「……梶谷君は、心配じゃないの? 私たち、違う中学校に通うんだよ」


 言われてようやく、哲郎は少女の悩みの原因を理解した。


 毎日を忙しく送ってるうちに、季節はすでに冬を迎えていた。小学校の最上級生である哲郎たちは、来年には中学生となる。


 近辺には中学校が二つ存在しており、どこに住んでいるかで通学する学校が別々になる。


 それがきっかけで、大半の小学校時代の友人とは連絡をとらなくなる。哲郎には、充分すぎるほどわかっていた事態だった。


 にもかかわらず、その点を考慮しないでいたために、少女へ余計な不安を与えてしまった。


 自分の迂闊さに悔やみつつも、改めて「大丈夫だよ」と相手を励ました。


「大丈夫だよ。家だってそんなに離れてないし、会いたくなったらいつでも会えるからさ」


「それは……そうだけど……」


 まだ不安な点が残ってるらしく、水町玲子の言葉は歯切れが悪かった。


「梶谷君って意外にモテるから、中学校で知り合った女の子と、その……」


 そこで水町玲子が口ごもる。要するに、哲郎が浮気するのではないかと心配してるのだった。


 女房心配するほど亭主モテはせずという言葉があるとおり、杞憂に終わる可能性が濃厚である。


 何故なら中学時代の哲郎には、良かった思い出はあまり存在してないからだ。実際に一度通り抜けてるのだから、間違いなかった。


 親しかった友人たちも、新たな仲間と行動をする機会が多くなり、気づけば哲郎は孤立化していたのである。


 それを機にひとりで行動する時間が加速度的に増し、無駄に日々を過ごすよりはと勉学へ向き合い始めた。


 結果、飛躍的に成績が上昇したものの、がり勉君などと言われて、ますます学級内での孤独を深刻化させていった。


 水町玲子のことを時折思い出したりしたが、哲郎の周囲でもこうなのだから、自分のことなどとっくの昔に忘れてるはずだと連絡をしたりはしなかった。


 孤立が悪化すればするほど、哲郎は逆に勉学へ励むようになった。まさに皮肉であり、哲郎は有名な国立高校への入学を果たした。


 教員からの評価はうなぎ登りで常にチヤホヤされたが、一方ではかつての仲間たちにまで陰口を叩かれた。


 高校で心機一転、新たな生活を楽しもうと考えたが、その頃にはすっかり人付き合いが苦手になっていた。


 嫌味でも何でもなく、勉強をしてるのが一番楽だったのである。


 浮いた噂ひとつない高校生活を送り、様々な出来事を経て、哲郎は超まではつかなくとも一流の部類に入る大学へ進学した。


 過ごしてきた人生を思い返してるうちに、哲郎は自然と無口になっていた。


 余計に不安を煽られたらしい水町玲子は、今にも泣きそうな表情へ変わっていた。


「卒業が近くなるにつれて、毎日そんなことばかり考えちゃうの。梶谷君も、こういう女の子は嫌だよね」


 嫌であれば、何十年も経過した後に、存在を思い出すような真似はしない。むしろそのような反応も、異性関係が初心者の哲郎の目には新鮮に映った。


「嫌なわけないよ。僕は……その……水町さんのことが、大好きなんだから」


 恥ずかしさが一度言葉を詰まらせたが、失敗したらリセット可能だと自分に言い聞かせて、哲郎は臭すぎると自覚している台詞を口にした。


 直接想いを聞いたからか、ここでようやく水町玲子がいつもの笑顔を見せてくれた。


「ありがとう。私たちなら、別々の中学校へ行っても大丈夫だよね」


「もちろんさ。きっとうまくいくよ」


 初恋は実らないとよく言われるが、それならば哲郎が定説を覆せばいいのである。


 何度でもやり直して、必ず二人で幸せになろう。哲郎は心の中で固く誓った。


「ねえ、梶谷君。私たちって付き合ってるのよね」


「うん。そうだよ」


「なら……お互いのこと、名前で呼び合わないかな」


 これまでそうした話は出てなかったので、どうしたのか尋ねると、どうやら巻原桜子の入れ知恵みたいだった。


 交際してる男女なら、名前で呼び合うのが当然。どこのラジオドラマから得た情報かは知らないが、水町玲子へ繰り返し強調したらしかった。


 おかげで水町玲子当人もその気になり、哲郎へ先ほどの提案をしてきたのである。

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