第16話君と、そしてバナナ
宿場町の人や、討伐兵団の団員など、クルスを精一杯もてなそうとしてくれた人たちへの申し訳なさはあった。
感謝もしている。心苦しさがあったのは確かだった。しかしそうした皆の気持ちを辞してまでも、彼は樹海へ戻ると決めた。
彼女へ帰ると約束したからだった。
だいぶ遅くはなってしまったが、それでも帰りたかった。帰らねばならなかった。
最も苦しく、辛い時、そっと傍にいて笑顔をくれた
既に陽は傾き、人の存在を拒む未開の森は、朱色に燃えている。
クルスは、森を出るときに木々へ刻んだ目印を頼りに、彼女の下へひた走る。
(参ったな……)
やがて彼は立ち止り、途方に暮れた。日が沈み、暗くなった森の中では、自分で付けた目印が判別しづらくなっていたのだった。
おかげで誤った方向へ進んでしまったらしく、今やどこを見渡しても目印が見つけられなくなっていた。
ここで諦めるのか――否。
この程度で諦めるつもりなど無かった。
時間はかかるかもしれない。もしかするとたどり着くことさえできないかもしれない。
それでもクルスは前へ進むことを選ぶ。
いつかきっと彼女と、アルラウネと、逢えることを信じて。
そんな中、脇へかすかな気配を感じた。
何かが木の枝の上から飛び下りてくる。
「どっせーい!」
本来なら耳にしただけで変調をきたすだろう、攻撃力のある声。
しかし“状態異常耐性”のあるクルスにとっては、甲高く、そして少し愛らしい童女の声である。
「また来たのか人間! いまさら何のようなのだ!!」
頭に紫の花を咲かせたマンドラゴラの童女はクルスへやや厳しい視線を送っている。
しかし今のクルスにとって、マンドラゴラの襲来は渡りに船であった。
「お願いだ! 俺を彼女の、アルラウネのところへ連れってくれ! 君なら案内できるだろ!?」
「な、なんだのだ、急に!!」
クルスの勢いに気圧されたのか、マンドラゴラは引きつった様子を見せる。
「頼む! かなり遅くなってはしまったが、俺は彼女のところへ行きたいんだ!」
「待つのだ! 落ち着くのだ! なんでお前はねえ様に逢いたいのだ!!」
「帰ると約束したからだ! 彼女の気持ちに応えたいんだっ!!」
クルスの声が森へ響き渡った。マンドラゴラは押し黙り、そして閉口する。
相変わらず視線は鋭い。
冷静に考えてみれば、人間がわざわざ魔物に逢いたいと言うなど、おかしい話。
しかも“気持ちに応えたい”など気が触れていると言われても仕方がない。
「済まなかった、急に大きな声を出してしまって……」
「……」
「無理ならばそれで良い。ならこれをアルラウネへ渡してくれないか?」
クルスは身体に密着させるように、背中で括っていた風呂敷を解く。そしてそこから黄色いバナナの房を取り出した。
「良い匂いなのだぁ」
バナナの放つ甘い香りにさすがのマンドラゴラも頬を緩めた。
「バナナという。君も食べて構わない」
「なんでだ?」
「こうして無事にここへ来られたのも君のおかげだ。これはその礼だ。ありがとう」
「んー?」
マンドラゴラは言葉の意味を理解できていないのか、首を傾げる。彼女はあくまでクルスをバインドボイスや毒で攻撃していただけなので無理からぬ反応である。しかしそのおかげで“耐性”がやがて“無効”に繋がること。そして、もう一つの“脅威の力”の存在を知ることができた。何もかもマンドラゴラのおかげであったのは間違いない。
「渡すだけか? ねえ様には逢わないのか?」
バナナを指し出したクルスへ、マンドラゴラはそういった。
意外なマンドラゴラの言葉に、クルスは息を飲んだ。
「良いのか? 君は俺のことが嫌いだろ?」
「……良いのだ! 着いてくるのだ!」
どんな心境の変化かは知らないが、マンドラゴラは踵を返して歩き出す。
「行くのか!? 行かないのか!? どっちだ!?」
「あ、ああ、すまない。案内宜しく頼む!」
「任せるのだ!」
クルスはマンドラゴラの童女に導かれ、月明かりの下、暗い森の中を進んでゆく。
やがて僅かに暖かい雰囲気を感じた。花のような甘く、芳しい匂いが辺りに漂い始めた。
木々の間に僅かにみえる女神の彫像のように美しいシルエット。
彼は案内役のマンドラゴラよりも前に出て、森を抜ける。
「や、やぁ……!」
「!!」
黄金に輝く三日月を見上げていたアルラウネは、足元の地面を根で少し割りながら、素早く振り返る。
「お、お帰りなさい! 人間さんっ!」
アルラウネは暗がりの中でもわかるほど、顔を真っ赤に染めて、弾んだ声を上げてクルスを迎える。
それだけでこの一週間、彼女が彼の帰りを待ち焦がれていたとわかった。
アルラウネの周囲には、おそらくクルスへ食べさせようと捕らえた獣や鳥の死骸が転がっていて若干悍ましいのだが――今は気にしないものとする。
「済まなかった、遅くなって」
「……」
「?」
「あの、ちょっと、こちらへ……」
クルスは言われた通り、アルラウネへ歩み寄る。もはや彼女が危険度SSの魔物であろうとも、彼の中に不信感は存在しなかった。
「もう少し近くに……」
「あ、ああ」
彼女の頭に咲く、髪飾りのような赤い花の甘美な香りが真近に感じられる距離。
彼女は彼を見上げて、青みがかった瞳へ彼を写す。
「お帰りなさい……待っていました……ご無事で嬉しいです……」
そして倒れ掛かるように、クルスの胸元へ寄り添ってくるのだった。
近くに感じる彼女の香り。柔らかい身体の感触は、ただ寄り添われているだけなのに、心が緩んだ。
胸に訪れた緩やかな熱は、自然と体を突き動かす。
「ただいま。心配かけたな」
そう囁きつつ、クルスは少し冷たさを感じさせるアルラウネの身体を抱き寄せるのだった。
誰かがこうして待ってくれている、そして帰還を喜んでくれる。
それが人間だろうが、動物だろうが、魔物だろうが関係ない。
言葉などいらない、想いがこうして傍にはっきりとあるのだから。
「ねえ様嬉しいか?」
脇に現れたマンドラゴラはいつもの調子で問いかける。
「うん! ありがとね、人間さんをここでまで連れてきてくれて!」
「そうか。なら良かったのだ!」
「ねぇ、その手に持ってるのはなに?」
アルラウネはマンドラゴラが持っていた一本の黄色い果実――バナナへ首を傾げた。
「この人間に貰ったのだ!」
「人間さんに?」
「おい人間! さっさと渡すのだ!」
「あ、ああ……」
クルスはアルラウネの肌熱に少し名残惜しさを覚えつつも彼女から離れる。
そして背中の風呂から、バナナの房を取り出した。
「これはバナナといって人間の世界ではとても甘くて美味い食べ物だ。君とマンドラゴラに食べてほしくて持ってきたんだ」
「あらまぁ、またそんなことを……良いんですか?」
「君と、いや、君とマンドラゴラと一緒に食べたいんだ。貰ってくれ」
「先日に引き続いて今日も。本当にありがとうございます。謹んで頂かせて貰います」
アルラウネは魔石の時と同じように丁寧に腰を折って礼を言う。二度目だが、それでもクルスはこそばゆさを禁じ得ない。
クルスはバナナの
アルラウネとマンドラゴラはクルスを真似て同じ動作をして皮をむく。
そうして現れた甘い香りを放つ白い果実を口へ運び始めた。
「はぁー……んまいのだぁ、はむ、んっ! むぐっ!」
マンドラゴラの小さな口が、少しオーバーサイズのバナナを一生懸命包み込む。
「そうだね! はむ、んぐっ、んっ!」
アルラウネはバナナを頬張るたびにうっとりとした笑顔を浮かべていた。
二人ともバナナを気に入ってくれているらしい。嬉しいことなのだが、どうにもバナナを食べる様子を直視しずらい。
特にアルラウネの真っ赤な舌がバナナに触れ、白い歯が果実へ添えられるたびに、妙な興奮を覚えた。
(俺もまだ若いんだな……)
邪(よこしま)な考えは置いておくとして、やはり誰かとこうして美味いものを食べるのは幸福なのだと改めて感じるクルスだった。
「どうひまひた? にんへんひゃん?」
「な、なんでもない……やはり食べているときに喋らないほうが良いぞ?」
「んぐっ! わかりました。これからは気を付けますね。人間さん、いつもありがとうございます」
律儀なアルラウネはいつものように礼を言う。そして、やはり少しばかり胸へもどかしい感覚を得る。
この間まではほとんど気にしていなかったこと。だけど今は、そこが気になるのと同時、このままでは寂しいように思う。
「俺は“クルス”だ」
「くるす……?」
「俺は人間で“クルス”という、俺を俺と指す言葉だ。これからはその……人間ではなく、クルスと呼んでくれるとありがたい……」
我ながら何を子供じみたことを言っているのか。しかしいつまでもアルラウネに“人間さん”と呼ばれ続けることに、どこかもどかしさを覚えていた彼。
「クルスさん……それが貴方が貴方であることを指すのですね?」
「ああ。そうだ」
「わかりました! では、早速……え、えっと……クルス、さん?」
顔を真っ赤に染めながら、消え入りそうな声で、しかしはっきりとアルラウネは彼の名前を呼ぶ。
それだけでクルスの胸は満たされてゆく。
「ああ。俺だ。ありがとう」
「改めてよろしくお願いしますクルスさん。あの、ところで……」
「?」
アルラウネは彼の名前を呼ぶ時以上に顔を真っ赤に染めて人差し指を突き出した。
「そ、そのぉ……バナナというのを、もう一本……」
「クルス! 僕にもよこすのだ!」
どうやらアルラウネとマンドラゴラはバナナを凄く気に入ってくれたらしい。
クルスは笑顔で房からバナナを千切り、そして渡す。
幸福な時間の中で、満ち足りた気分のクルスなのだった。
明日も良い日になるはず。
きっと、必ず……。
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