第31話 きれいごと
外に出ると、冷たい北風が頬に吹きつけた。
空はどんよりとした灰色の雲に覆われていて、夕日は見えない。あの日と同じような空だと、頭の隅でぼんやり思った。
羽村たちは先ほどから一言も喋ることなく、ただ迷いのない足取りで歩いている。無言のまま昇降口を抜け、まっすぐに裏門へ向かう彼らの後ろを、倉田も小さな歩幅で早足に追いかけていた。
ほとんどの生徒は正門のほうから帰るため、裏門はいつも人通りが少ない。今日も、数メートル先に一人の男子生徒が歩いている以外はひとけがなく、辺りはいやに静かだった。
門のすぐ脇には長く広い川が流れていて、伸びる短い道の先には、その川に掛かる橋が続いている。羽村がふいに足を止めたのは、その橋の真ん中あたりに差しかかったところだった。
「――歩美さあ」
唐突に名前を呼ばれ、へ、と倉田が不意打ちを食らったような声を上げる。
かまわずこちらを振り向いた羽村は、なんの表情も浮かばない目で倉田を見て
「言ってたじゃん。こういうの、よくないって。やめろって」
倉田は一瞬なにを言われたのかわからなかったようにきょとんとしていたが、数秒の後、ようやく思い当たったのか勢い込んで相槌を打つと
「う、うん。よくないよ。やめようよ」
「俺もさ、思ったんだよ」
羽村は無表情に倉田の顔を見つめたまま、抑揚のない声で重ねる。
「どうせ何やったって気が晴れることなんてないし、満足もしないんだから、こういうの時間の無駄なんじゃないかって。それに正直、いつまでもこいつに関わってんのも嫌だし。だからさ」
これで最後、と放り出すように言って、羽村はおもむろに右手を挙げた。
じっと倉田を見つめていた視線が、ふいにおれのほうへずれる。そうしてにこりと笑った彼は、人差し指で下を示してみせ
「なあ永原」
みじんも視線を揺らすことなく、淀んだ愉しさに満ちた声で、告げた。
「――飛び降りてみて。ここから」
それは、決して冗談の響きではなかった。それだけはわかった。
ほころびかけていた倉田の表情が、その一言で一瞬にして強張る。
「それで終わりでいいよ」羽村は倉田の表情の変化になどかまうことなく、何でもないことのように淡々と言葉を継ぐ。
「そしたら、もうお前には何もしない。このままただで済ませるなんて冗談じゃないって思ってたけど、なんかもうこれ以上お前と口利くのも、お前の顔見んのも嫌になってきたし。だからこれで最後。なあ永原」
飛び降りて。
低い声で繰り返してから、羽村は下を流れる川をもう一度指で示した。
八尋はなにも言うことなく、そんな彼の隣でじっとおれの顔を見つめている。
本気だった。嫌になるほど。それだけは否定のしようもなく、真正面から突きつけられた。
「……なに、言ってるの、浩太くん」
そこでようやく我に返ったように、倉田が引きつった声を上げる。
もつれそうな足取りで羽村のほうへ歩み寄った彼女は、縋るように彼の腕を掴みながら
「そんなことしたら、死んじゃうよ」
「死にはしねえだろ別に。このくらいの高さなら」
「そんなの、わかんないよ。ね、絶対だめだよ、こんなの。やめようよ」
ぎゅっと羽村の腕を握りしめたまま泣きそうな声で捲し立てる倉田を、羽村はまた露骨にうんざりした目で眺めてから
「じゃあいいや」
と意外なほどあっさりとした調子で呟いた。
え、と倉田もいくらか面食らったように聞き返す。
「つーか」と羽村はため息混じりに言葉を継ぎ
「どうせ歩美は何が何でも止めるんだろうし、歩美がついて来るなら多分無理だろうなって思ってたから、こんなの。だからさあ」
羽村はそこでふたたびおれのほうを向き直ると、おれの肩に掛かっている通学鞄を指さした。
「それでいいよ」とつまらなそうに短く告げる。なにを言われたのかわからず、眉を寄せたおれに
「昼休み、燃やしそこねちゃったし。その鞄」
言って、羽村はもう一度指先で濁った水の流れる川を指し示してみせた。
「――捨てて。川ん中に」
ほっとしたようにゆるみかけていた倉田の表情が、その言葉でふたたび強張る。「こ、浩太くん」いよいよ本当に泣き出しそうな顔になった彼女は、よりいっそう強い力で羽村の腕を握ると
「もう本当に、やめようよ。浩太くん、永原くんに何したって、気は晴れないんでしょう。だったら、こんなことしたって何にもならないよ。ね、だから」
「歩美さあ」
必死に捲し立てる倉田の言葉を、羽村はひどく静かに遮ると
「なんで永原のほう庇うわけ?」
え、と声を上げ口をつぐんだ彼女に
「歩美だって知ってんだろ。永原が何して俺らがどんな思いしたか。鈴なんて、一時期飯も食えなくなって、学校にもしばらく来られなくて。そういうことも全部知ってるくせに、なんでまだ永原のこと庇えるんだよ、歩美」
苛立ちを隠しもしない羽村の声に、倉田は軽く唇を噛みしめ、困ったように顔を伏せる。しかし間は置かずに、「その、庇うとかじゃ、なくて」と必死に言葉をたぐるようにして口を開くと
「浩太くんと鈴ちゃんがいっぱいつらい思いしたのは知ってるけど、それは永原くんのせいかもしれないけど、でも、だから同じことをやり返すって、自分がされてすっごくつらかったことを他の人にもするってことだし、あの、そういうのって、多分あとになって、浩太くんたちも嫌な思いすると……」
「歩美ちゃんって」
訥々と並べられる倉田の言葉に、八尋がふと、耐えかねたように低く呟く。
「ほんと、きれいごとばっかりだね」
心の底からうんざりした調子のその声に、倉田が驚いたように口をつぐみ、八尋のほうを見た。
八尋はゆっくりと顔を上げ、睨むような目で倉田を見ると
「結局、歩美ちゃんにはわかんないんだよ。クラスのみんなに無視されたり、ひどいこと言われたり、いろんな嫌がらせされたりしたのは、歩美ちゃんじゃなくてわたしとこうちゃんなんだもん。わたしたちがどれだけ苦しかったのかなんて、歩美ちゃんにはわかんないよ。何にも、わかんないよ」
そこで軽く言葉を切った八尋の視線が、ふっとおれのほうを向く。
途端、頬がじわりと赤みを帯び、今にも泣き出しそうに表情が歪んだ。薄く開いた唇が、かすかに震える。
「……好き、だったんだもん」
こぼれたのは、先ほどまでとはうって変わり、絞り出すような弱い声だった。
「すっごく、すっごく好きだったんだもん。初めてだったんだよ、わたし。あんなふうに、本当の本当に男の子のこと好きになって、もっといろんな話したいとか、いろんなこと知りたいとか、そんなふうに思ったのも、全部。なのに」
言葉の合間に苦しげな息を挟んでから、八尋はふたたび倉田のほうへ視線を戻し
「そんな人にひどいこと言われて、すっごく冷たい目で睨まれて、思いっきり突き放されて。そのときわたしがどんな気持ちだったかなんて、歩美ちゃんにはわかんないよ。いちばん、そんなことされたくない人だったんだもん。みんなに無視されるとか悪口言われるとか、そういうのよりずっとずっと悲しくて、苦しかったんだもん。あのときのわたしの気持ちなんて、絶対、歩美ちゃんにはわかんないよ!」
後半は、ほとんどしゃくり上げるような調子だった。
倉田は身動き一つせずに立ちつくしたまま、ただじっとその声を聞いていた。
八尋は肩で呼吸をしながらぐっと唇を噛みしめ、制服の裾で目元を拭う。
放心したようにそんな彼女の姿を眺めていた倉田の表情が、やがて、ひどく苦しげにぐしゃりと歪む。それから、悲しそうに足下へ視線を落とした。
「……わかるよ」
小さく呟かれた倉田の言葉に、八尋が視線を上げる。
けれど倉田と目は合わなかった。顔を歪めたままふっと横へ視線を飛ばした彼女は、ひどく静かな目で、音を立てて流れる水流を見下ろしていた。
少しだけ、考えるような間があった。しかしそれもほんの束の間だった。
おもむろに倉田が右手を振り上げる。そこに握られていた紺色の通学鞄が、ふわりと揺れた。
唐突に彼女の手を離れたそれは、そのままの勢いで宙に放り出される。ぶら下がっていた白い犬のキーホルダーが大きく揺れ、鞄にぶつかった。
手を離された先にあるのは、お世辞にもきれいとは言い難い、広い川。
誰もなにも、言う間はなかった。目を見開いた次の瞬間には、鞄もキーホルダーもその暗い水面に飲み込まれ、消えた。
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