第2話 冷たい手
机を拭き終え、雑巾を洗いに行こうとしていたときだった。つま先立ちになって必死に黒板を掃除しているクラスメイトの姿を見つけ、ふと足を止めた。
クラスの中でも一番目か二番目ぐらいに背の低い女子生徒だった。
雑巾を握った右手を目一杯に伸ばしているけれど、背が足りず上の方にはまったく届いていない。そのため黒板にはまだ中途半端に汚れが残っていて、彼女は困ったようにそれを見上げ、時折ぴょんぴょんと飛び跳ねながら懸命にそれを拭おうとしていた。
おれは彼女のもとへ歩いていくと、手にしていた雑巾で代わりに黒板を拭いた。
彼女が驚いたようにこちらを振り向く。それから「あっ、ありがとう、永原くん」と早口に礼を言った。
おれは彼女のほうを見て、笑顔で首を振る。すると途端に彼女の頬がぱっと赤く染まった。どこか恥ずかしそうに顔を伏せ、照れ笑いを返す。それからいそいそと黒板の端へ戻ると、今度は黒板の溝の掃除を始めた。
その仕草にかすかな既視感を覚えながら、おれも踵を返す。
前にもこの音楽室で、あんなふうに誰かに優しくしていたことを思い出した。ずいぶん長い間、一人の女の子に。
だけどもう、それはとっくに頭の片隅に追いやられた、遠い記憶だった。きっと近いうちに跡形もなく消え去ってしまう、必要のない記憶だった。
おれはそのまま音楽室を出ると、雑巾を洗うため外の水道まで向かった。
蛇口から溢れだした水は氷みたいな冷たさで、思わず顔をしかめてしまう。指先でつまむように雑巾を持ち、いい加減に汚れを落とすと、さっさと水を止めた。
この時期の水仕事は嫌だなあ、ともう何度目になるかわからないことを思いながら、またいい加減に雑巾を絞る。ため息をつくと、一瞬だけ空中に白く色がついた。
そうして音楽室に戻ろうとしたとき、ふと視界の端に人影が映った。
振り向くと、数メートル先の廊下に倉田がいた。白い息を吐きながら、小走りにこちらへ駆け寄ってくる。
「あれ」おれはちょっと驚いて呟いた。
「倉田、もう掃除終わったの?」
尋ねると、彼女は、うん、と少し嬉しそうに頷いて
「今日はね、理科室にいろいろ実験道具が置いてあって、壊すといけないからって、簡単に棚を拭くだけで終わったの」
「そうなんだ。よかったね」
相槌を打ってから、ふと壁に掛けられた時計へ目をやる。まだ掃除の時間は十分近く残っていた。
「じゃあ倉田、先に帰ってていいよ。おれ、もうちょっとかかりそうだから」
「え、待ってるよ、私」
間髪入れず返された答えに、おれは笑って「いや、いいよ」と首を振ると
「倉田、なんか今日用事あるとか言ってたじゃん」
「でも、ちょっと買い物に行きたいだけだから。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「いいって、先帰ってなよ。どうせ一緒に帰るっていっても、おれと倉田が一緒に歩く時間って五分もないんだし」
おれの家は学校のすぐ側にあって、彼女と一緒に下校する時間を楽しむということはほとんどできない。その分どこか寄り道をしたり家に寄っていってもらったりすることはあるけれど、今日はそれもできないのなら、わざわざ長いこと待っていてもらうまでもない気がした。五分のために十分間待つというのも、なんだか割に合わない。
倉田もおれの言葉に納得したようで、「それもそうだね」と苦笑しながら頷くと
「じゃあ、ごめんね。今日は先に帰ってるね」
おずおずと、心底申し訳なさそうな口調で言った。おれはまた笑顔で首を振る。それから「じゃあまたね」と片手を挙げようとしたときだった。
ふいに彼女が真顔に戻り、おれの右手をじっと見つめた。かすかに眉根を寄せ、呟く。
「……冷たそう」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。「え?」とつられるように自分の右手へ目をやる。そこでようやく理解して、ああ、と笑った。濡れた雑巾を握るその手を持ち上げる。
「たしかに、この時期の雑巾はちょっとつらい」
軽い口調で言ってみたけれど、倉田は大袈裟なほど心配そうな顔でおれを見ていた。それからふと思い出したように、あ、と声を上げ
「私、カイロ持ってるよ」
言って、スカートのポケットに手を突っ込んだ。ごそごそと中を探り、小さな使い捨てカイロを取り出す。そして当たり前のように、それをおれの手に渡した。
「あげる」
渡すときに一瞬だけ、彼女の指先が触れた。その指先も、おれに負けないくらい芯から冷え切っていた。
おれは思わず眉をひそめて、彼女の手に目をやる。真っ白なその手は、おれの手よりむしろずっと血の気が引いている気がした。思えば、倉田だってつい今し方まで水仕事をしていたはずだ。
おれは黙って渡されたカイロに目を落とした。右手で包むと、たちまちのうちに手のひらの芯にまで熱が染み入ってくる。
きっとおれより彼女のほうが冷たい手をしていることはわかっていた。ここは遠慮して彼女にカイロを返すべきなのかもしれない、と頭の隅では思いながらも、いったん触れてしまうと彼女から渡されたその温もりを手放すのが惜しくなり、結局、おれはなにも気づかない振りをした。
「ありがとう」
言うと、倉田は柔らかな笑顔で首を振る。それから「じゃあ、また明日」と軽く片手を挙げたあとで、くるりと踵を返し、渡り廊下を歩いていった。
その背中を見送ってから、おれも踵を返した。雑巾は左手に持ち替え、右手にはしっかりカイロを握ったまま校舎に戻る。
そうして音楽室に向かい歩きだそうとしたところで、前方から誰かが歩いてくるのに気づいて顔を上げた。
数メートル先の廊下、いたのは一人の男子生徒だった。
彼のほうもこちらに気づいたようで、窓の外へ飛ばしていた視線をふっとおれのほうに向ける。それから、あ、と小さく呟いた。目が合った一瞬、手の中のカイロがほんの少しだけ温度を下げたような気がした。
おれはほとんど無意識のうちに、それを制服のポケットに突っ込んでいた。そうして歩幅をゆるめることなく彼のほうへ歩いていく。
目が合ってしまった以上無視するわけにもいかない気がして、一応軽く会釈だけはして通り過ぎようとしたのだけれど
「なあ永原」
目の前まで来たところで、羽村のほうが口を開いた。
さっさと前へ進めようとしていた足を、仕方なく止める。なに、と短く聞き返した自分の声は、思いのほか素っ気なく響いた。
誰にでも愛想良く対応することついては殊更に気を遣っているつもりだけれど、彼に対してだけはどうにもうまくやれない。だけど羽村はとくに気にした様子もなく、「あのさ」と軽い口調のまま言葉を継いで
「歩美、まだ学校にいる?」
なんともあっさりした調子で、そんな質問を向けてきた。
おれは黙って彼の顔を見た。
倉田に何か用なの、とうっかり口をつきそうになった刺々しい言葉は寸前のところで呑み込んで、代わりに
「もう帰ったよ」
これ以上なく淡泊に、答えを返した。
そっか、と羽村のほうも相変わらずあっさりとした調子で相槌を打つ。それから、「ならいいや」と短く呟いて踵を返そうとしたので
「――倉田になにか用事があるなら」
彼の背中へ、何気ない調子で言葉を投げてみた。
羽村がこちらを振り向いておれの顔を見る。にこり、おれは根っからの親切心だという笑みを浮かべてみせ
「おれから伝えとこっか?」
言うと、羽村は少しの間無言でおれの顔を見つめた。
数秒の後、またなんともあっさりとした調子で笑う。それから「いいよ」と首を横に振って
「別に会おうと思えばいつでも会えるんだし。たいした用事でもないから」
おれもそれ以上はなにも言わずに、とくに意味のない笑みだけを返しておいた。そっか、と短く相槌を打って踵を返す。
そうしてそのまま廊下を進むと、音楽室の手前まで来たところでまた足を止めた。
後ろを振り返る。羽村の背中が、ちょうど突き当たりにある曲がり角を右に折れるのが見えた。
それを見送ったあとで、おれはポケットから携帯を取り出す。開いて、倉田の番号を探した。
五回呼び出し音が続いたあとで、彼女は電話に出た。『もしもし』と語尾を上げた調子の声が返ってくる。
「倉田、今どこにいる?」
出し抜けに尋ねれば、倉田は少しきょとんとした様子で
『え? さっき鞄を取りに、教室に戻ってきたところだけど……』
「じゃあ、そこで待ってて」
彼女の言葉が終わらないうちに、はっきりとした口調で告げる。それから、『へ?』と不思議そうに聞き返してくる倉田に
「おれも今から行くから。やっぱり一緒に帰ろ」
『え、永原くん、もう掃除終わったの?』
「うん、もう終わった。だからちょっと待っててね。すぐ行くから」
妙に急き立てられた気分になりながら言葉を継ぐと、うん、と倉田は明るい声で頷いた。
おれは携帯を再びポケットにしまってから、一つため息をつく。
そのときふいに手のひらにぴりっとした鈍い痛みが走った。目をやる。そこで初めて、自分が爪が食い込むほど強く拳を握りしめていたことに気づいた。ゆっくりと開いて、再度ため息をつく。
冷たい隙間風が、撫でるように手の甲を通り過ぎていった。
カイロの熱もすっかり消え去ったその手はまた芯から冷え切っていて、おれはもう一度ポケットに手を突っ込んでみる。だけど今度は、なぜだかその温もりがうまく染み入ってこなかった。
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