番外編

トロイメライ

 目の前を横切ろうとした鈴の腕を思わず掴むと、びっくりした顔がこちらを振り向いた。

「え、なに、こうちゃん」

 戸惑ったように訊いてくる彼女には構わず、掴んだ手を顔の前まで持ち上げる。そうして一本だけ赤く腫れた彼女の人差し指をまじまじと眺めた。

 やっぱり、と小さく呟けば、鈴はそれだけで続く言葉を察したように

「あ、大丈夫だよ。全然たいしたことないし」

 言って、あっけらかんと首を振ってみせた。俺は一度大きくため息をついてから

「いや、結構腫れてるじゃん。突き指してるって、これ」

「でもそんな痛くないし、放っておいても治るよ、多分」

 平然とそんなことを言い切る鈴に、再度ため息がこぼれる。どうして彼女はこういつもやせ我慢をするのだろう、とちょっと呆れながら

「保健室行くぞ」

 できるだけきっぱりとした口調で言い切って、踵を返した。え、と後ろから鈴の困ったような声が追いかけてくる。

「いや、ほんとに平気だよ、これくらい」

 言いながら、彼女は試合が行われているコートを気にするように目をやった。

 コートの中にはまだ歩美も残っていた。飛び交うボールを避けるように、元々小さな身体をいっそう縮めるようにして隅のほうに立っている。

 彼女がなにを心配しているのかはすぐに察することができた俺は

「大丈夫だって。まだ当分終わりそうにないし。試合」

 ため息混じりに告げて、鈴の腕を引いた。それから未だコートのほうを気にする彼女を半ば引き摺るようにして、保健室まで連れていった。



 ドッジボール中にヘマをして怪我をするような生徒は、鈴だけではなかったらしい。保健室に着くと中にはすでに先客がいて、先生はそちらの手当に忙しそうだった。

 だけど突き指の手当なら前に何度かしたことがあったので、待つより俺が済ませてしまうことにした。スプレーとテープを借り、鈴の指をテーピングしていっていると

「歩美ちゃん、大丈夫かな」

 そわそわと窓の外へ視線を飛ばしながら、鈴が呟いた。俺は呆れてもう一度ため息をつく。それから「大丈夫だろ」と短く返した。

「ただドッジボールやってるだけなんだから」

「でもさ、クラスマッチになると妙に張り切る人っているじゃない。ああいう人って、女の子相手だろうと平気で強いボール投げてくるから」

 そうだな、と俺もそれには同意して相槌を打つ。

 彼女の人差し指は、腫れたせいで他の指よりいくらか短くなったように見えた。眺めているうちになんだか俺まで痛くなってきたような気がして、思わず眉を寄せていると

「でも歩美ちゃんって、意外にドッジボール強いよね。だいたいいつも最後のほうまで残ってるもん。ボール取ったりはしないのに」

「なんか歩美には当てにくいんじゃねえの、みんな」

 言うと、鈴はすぐに納得したように、あー、と呟いた。それから、「いいなあ歩美ちゃんは」とため息混じりに続け

「わたしには誰も遠慮してくれないよ。がんがん強いボール投げてくるし、今日も開始早々当たっちゃったし」

「でも今日のは、お前がボールのほうに手突き出さなきゃ当たんなかっただろ」

「ああ、うん、まあ」

 鈴は恥ずかしそうに苦笑いして頷く。それから

「よく見てたね、こうちゃん」

 何気ない調子でそんなことを言われ、俺もなんとなく恥ずかしくなってしまった。「まあ」と曖昧に頷いてから

「つーか、なんでわざわざ手出したんだ? あんな強いボール取ろうと思ったのか?」

 尋ねると、鈴はちょっと困ったように笑った。少しだけ迷うような間があってから、だって、と口を開く。

「後ろに歩美ちゃんがいたから」

 返ってきたのは、だいたい予想できていたとおりの答えだった。

 思わず眉を寄せて鈴の顔を見ると、彼女は照れたように指先で頬を掻きながら

「あのままじゃ歩美ちゃんに当たる! と思ったら、なんか咄嗟に。本当はキャッチしようと思ったんだけどね、結局とれなくて突き指しちゃった。まあでも、歩美ちゃんに当たらなかったからいいんだけど」

 どこまでもあっけらかんとそんなことを言う彼女に、俺はまたため息をつきたくなるのを堪える。黙って視線を戻し、治療を再開すると


「でも、突き指したの右手じゃなくてよかったな」

 思い出したように鈴が呟いた。

「字は左手でもなんとかなったかもしれないけど、絵を描くのはさすがに難しかっただろうし」

 明るい声で続いた言葉に、俺は「絵?」と聞き返しながら顔を上げる。

「なに、絵って。なんか絵描かないといけないようなことあるっけ」

「ほら、今度の金曜日。課外学習で山に行こうってことになってるでしょう。あのときに」

「でもあれ、別に絵描かなくてもいいだろ。描きたいやつだけ描いて、残りのやつらは山登りって話じゃなかったか?」

「うん。だからわたしは、山登りじゃなくて絵を描くことにしたの」

 返ってきた言葉に、俺はさらに眉を寄せて彼女の顔を見た。

「でもお前、山登りしたいとか言ってたじゃねえか。この前」

 言うと、鈴はまた困ったように笑って

「うん、だけどやっぱりやめたの。よく考えたらすごーくきつそうだもん、山登りなんて。絵のほうが絶対楽だよ」

「そうか? ただ登るだけでいいんだから、絵よりこっちのが楽そうだけど」

「そりゃ、こうちゃんにとってはそうなんだろうけど。女の子にとっては結構な距離だよ。とくに歩美ちゃんなんて」

 続いた言葉に俺は急に思い当たって、「なに、お前」と声を上げる。

「また歩美に合わせたわけ?」

 鈴はますます困ったように笑って頬を掻いた。それから、「そういうわけじゃないけど」と首を振り

「ただわたしも、山登りはきつそうだなって思っただけ。次の日筋肉痛になったりするのも嫌だしさ」

「……お前さ」

 口を開いてから、やはり思い直して口を噤む。ぎりぎりまで出かかった言葉をなんとか呑み込んで、代わりに

「絵なんて描けないくせに」

 ぼそっと呟けば、即座に「わ、失礼な!」と高い声が返ってきた。

「それなりには描けるよ、一応!」

「一学期、美術2だったとか言ってなかったか、お前」

「あー、あれは未だにわかんないんだよね。かなり真面目に頑張ったんだけど」

「よっぽどひどかったんだろうな。美術2とかたぶん滅多にないぞ」


 頬を膨らませながらも楽しそうに笑う鈴につられて俺も少し笑ってから、巻き終えたテープの端を切る。

 すると鈴はすぐに「ありがとう」と礼を言って

「もう大丈夫だから、こうちゃん、運動場戻ってよ。そろそろ試合終わるでしょ」

「お前は?」

「わたしはほら、保健室利用届けとか書かないといけないから」

「それなら俺が書くよ。手使いにくいだろ、今」

 言うと、鈴は「や、いいよ」ときっぱり首を横に振った。それから窓の外を気にするようにちらちらと目をやりながら

「ちゃんと書けるから。いいからこうちゃん、早く運動場行ってよ。本当に試合終わっちゃう」

 早口にそんなことを言ってくる彼女に、俺は怪訝に思い眉を寄せると

「別に試合終わってたっていいだろ。俺、次の試合も出る予定ないし」

「違うよ、ほら」

 言いながら、鈴は困ったように眉尻を下げて笑う。それからとても穏やかな声で、続けた。

「歩美ちゃんが心配しちゃうでしょ。わたしたちが二人ともいなかったら」

 俺は思わず黙って彼女の顔を見つめた。

 一瞬だけ喉にせり上がってきた言葉があったけれど、目の前の鈴の笑顔がひどく優しかったから、それもやはりぎりぎりのところで呑み込んだ。

 軽く目を伏せ、息を吐く。それから「わかった」と頷けば、鈴はほっとしたように笑い

「ありがとう」

 穏やかな笑顔でもう一度礼を言ってから、ふと思い出したように、「あ、そうだ、こうちゃん」と続けて声を上げた。

「突き指のことさ、歩美ちゃんには言わないでね」

「なんで」

「気にしちゃうかもしれないじゃん。なんか適当に転んで怪我したとか、そういうことにしといてね」

 当たり前のようにそんなことを言ってくる彼女に、俺はもう何度目になるかわからないため息をつく。それから、「それは無理だろ」と素っ気なく返し

「絶対ばれるよ。歩美だって馬鹿じゃないんだから」

「いやでも、そこをなんとか」

「つーか、そんな気にするようなことじゃないだろ。たしかにお前は歩美を庇ったんだろうけど、あんな変な手の出し方しなけりゃ怪我はしなかったんだろうし。歩美のせいじゃなくて、お前が鈍くさかっただけだよ、その怪我は」

 呆れて返すと、鈴はむっとするどころか安心したように、そっか、と笑っていたので、俺はまたため息をつきたくなるのを堪えた。

 黙って立ち上がり、借りていたテープとスプレーを先生に返す。それから「じゃあまたあとでね」と明るく手を振る鈴に頷いてから、保健室を出た。



 鈴の心配どおり、戻ったときにはすでにドッジボールの試合は終わっていた。

 コートの外に出てきた歩美は、すぐに俺たちがいないことに気づいたようだった。きょろきょろと辺りを見渡しながら、生徒たちが集まる中を落ち着きなく歩き回っている。

 遠くから見ていると、なんだかはぐれた親を捜す小さな子どもみたいで、俺は思わず苦笑した。早足に彼女のもとへ歩いていく。それから声が届くくらい近づいたところで、名前を呼んだ。

「歩美」

 彼女はばっと勢いよくこちらを振り向く。そして俺の姿を認めた途端、心底ほっとしたように満面の笑みを浮かべた。

 その幼い笑顔に、胸の奥にほんの少し巣くっていた苦さもふっと姿を消す。俺は笑って、彼女に向け軽く手を振った。歩美もにこにこと笑いながら、大きく手を振り返してくる。そうして駆け足にこちらへやって来た。


 嬉しそうに俺を見つめるその笑顔も、たしかに大切なのだと思う。それから、そう思える自分に少しほっとした。

 守らなければならないと思うのは、俺も同じだった。繊細で不器用で、だけどどうしようもなく優しいこの子のことを、傍にいて守ってやりたいと思う、その気持ちはたしかに嘘ではない。

 だけど、俺は知っていた。精一杯歩美を守ろうとしている彼女も、本当はとても弱くて、脆い。彼女は決して歩美にはそんな弱さを見せようとしないから、これは俺だけが知っていることなのだろうけれど。でも、だからこそ。


「浩太くん」

 目の前に立った歩美が、弾んだ調子で口を開く。なんの邪気もないその表情に、うん、と聞き返す声が自然に柔らかくなるのを感じた。

 この子を守らなければならないと思う。だけどそれと同じくらい、彼女のことも守らなければならないと、守ってやりたいと思う。

 それは歩美への気持ちと少しだけ色合いが違うことも心のどこかで気づいていたけれど、俺はまだ見て見ぬ振りをしていた。していたかった。

「あのね」

 嬉しそうに笑って、歩美が言葉を継ぐ。鈴と違い、歩美の喋りはたどたどしい。だけど一度も苛ついたことなんてなかった。彼女だけは、どんなにもたついても。

 俺もつられるように笑って、うん、と相槌を打つ。歩美はどこか誇らしげに、「さっきの試合ね」と続けた。

「勝ったよ、私たちのチーム」

 それでね。弾んだ声のまま、彼女はさらに重ねる。

「私、最後まで残ってたんだよ。内野に」

 ――せめて、いつまでもこのままであればいい。

 心の片隅で、けれど目眩がするほど強く思った。歩美のことも鈴のことも大切で、守りたくて、どちらのほうがより大切だとかそんなのはなしに、ただいつまでも三人でいられたら。

 それは、ささやかなはずなのに、なんだかひどく途方もない願いのように思えた。


「よかったな」

 俺はいつもと同じように笑って、歩美の頭を何度か撫でる。途端、よりいっそう嬉しそうに目を細める彼女になんとなく暖かい気持ちになりながら、ふっと視線をずらした先。すぐにこちらへ向かって駆けてくる鈴の姿を見つけた。楽しそうに、今し方テーピングされた左手を遠慮なくぶんぶん振っている。

 指は大丈夫なのだろうか、と俺はちょっと眉をひそめてしまったけれど、底抜けに明るい笑顔で手を振ってくる彼女に、結局、つられて手を振り返していた。

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