第19話 ラプソディ
特別教室の並ぶ校舎の一番奥にある第二音楽室は、放課後の喧噪からも遠く、戸を閉めてしまえばそれで一切の雑音から切り離されてしまう。
渡り廊下を挟んだ向かいにある第一音楽室は吹奏楽部の練習場所のはずだけれど、今日は土曜日だからか練習は行っていないらしい。
そんなしんと静まりかえる空間に落ちたピアノの音は、どきりとするほど大きく耳に響いた。
音色は波紋のように広がり、あっという間に教室を包む。一瞬にして静寂は塗り替えられ、今いるこの場が別世界へ切り替わったかのようだった。
思わず息を呑む。音色は、始まるなり畳みかけるような激しさで連なり、駆け上っていく。永原くんの前に楽譜は広げられていない。けれど彼の指先は、迷いのない速さで鍵盤の上を駆けていた。
あの曲だ、とすぐに気づいた。早朝、偶然に音楽室の側を通りかかったときに耳にした、あの曲。
一瞬で心をつかまれ、花に群がる蝶みたいに、ふらふらと引き寄せられた。そして初めて、羨望感に目眩がした。どうしようもないほどうらやましいと思った。この曲を演奏してもらえた鈴ちゃんのことが。自分の目の前で、自分のためだけに。
ピアノの横に突っ立ったまま、呆けたように鍵盤を見つめる。なんだか金縛りにあってしまったみたいだった。体の横に添えた両手の、指先すら動かせない。呼吸をするタイミングすらうまく掴めなくなってしまった。
まるでそれ自体が意思をもって動いているかのような指先。普段はそれほど気をつけて眺めたことはなかった。だけど、今、目の前で鍵盤を叩いている彼のすらりと長い指は、作り物みたいにきれいだと思った。まるで最初からピアノを弾くために作られた手みたいだ。流れるような動きで鍵盤を滑る彼の手は、びっくりするほどそこに馴染んでいる。つまずくことも音を外すこともない。まるで彼の手自体が、一つ一つの音色を完全に覚えているみたいに。
頭を満たしていたさまざまな悩みすら、あっという間にかき消えてしまった。ただ目の前で鍵盤を叩く指先と、そこから紡がれる音色に心が奪われ、それ以外はなにも考えられなくなった。
息を吐く間もないテンポで続いていた旋律が、ふと途切れる。そして代わりに、これまでとは対照的な、静かで穏やかな旋律が現れた。
あの日は春のひだまりみたいだと感じた、優しいメロディー。やっぱり優しく柔らかいその旋律は、暖かな日差しのように身体に染み入る。私は思わず目を閉じ、聞き入った。
いつまでも続くかのようだったその静かな旋律は、しかし唐突に姿を消す。そして一拍置いて、重たい低音が響いた。ふたたび戻ってきた物悲しく重々しい旋律は、最初と同じように、畳みかけるような激しさで進んでいく。そして一気に頂点まで駆け上ったあとで、ゆっくりと、終結へ向け下り始めた。
やがて、最後の低音が静かに鳴った。永原くんの指が鍵盤を離れる。
少し遅れて、ペダルを踏み込んでいた足からも力が抜かれた。音が消える。
永原くんはそっと鍵盤から手を離し、自分の膝の上に置いた。それからこちらへ顔を向けて、ちょっと照れたように笑う。
私のほうはまだ思い切り余韻に包まれていて、すぐには動き出せなかった。
数秒の後、ようやくはっと我に返り、手を叩く。言葉を思い出すのに少し時間がかかって、そのまましばらく無言で拍手をした。手が痛くなるくらい叩いても、たいした音が出ないのがもどかしかった。
「すごい、すごいね!」
ようやく言葉を思い出し、口を開く。けれど感動を伝えるための言葉もたいしたものは浮かばなくて、またもどかしくなりながらも、とりあえず目一杯の気持ちをこめて繰り返した。
「すごい、上手だね。びっくりしちゃった。本当にすごい」
手を叩きながら興奮気味に声を上げていると、永原くんははにかむように笑って目を伏せた。指先で軽く頬を掻く。それから小さく「よかった」と呟いた。
あのっ、と私は意気込んで続ける。
「今弾いたのは、なんて曲?」
「ブラームスの、ラプソディ」
返ってきたのは、聞き慣れない曲名だった。ラプソディ、と口の中で繰り返してみる。永原くんは、うん、と相槌を打ってから
「今弾いたのは、第1番だけだけど」
「あの、いい曲だね」
言うと、永原くんは嬉しそうに笑った。それからふっと視線を落とし
「ありがとう、倉田」
静かな声で言われた言葉に、私はきょとんとして永原くんの顔を見る。
お礼を言うのは絶対に私のほうだと思ったので、「こ、こちらこそっ」とあわてて口を開こうとしたとき
「ずっと思ってたんだ」
やはり静かな声で、永原くんが続けた。え、と聞き返せば、彼は自分の手のひらにぼんやりと視線を落としたまま
「いつか倉田が聴いてくれればいいなって。この曲を練習してるときから、ずっと」
そう言って、口調と同じくらい静かに笑った。
私はますますきょとんとして首を傾げる。
「どうして?」
聞き返しても、永原くんは淡く微笑んだだけでなにも答えなかった。
代わりに、「ねえ倉田」とどこか大人びた口調で口を開き
「おれと倉田が初めて喋ったのって、いつか覚えてる?」
唐突にそんなことを尋ねてきた。
だいぶ予想外の質問に、へ、と素っ頓狂な声が漏れる。
「え、えーと、いつだっけ……」
すぐには思い出せずに首を捻っていると、永原くんは私の答えを待たずに
「一年生のとき。入学してすぐの頃だったよ」
と続けた。
「下駄箱のとこで。おれがプリントを落として、しかもそれが風に飛ばされて外までいっちゃって。そしたらそこに倉田が通りかかって、プリントを拾ってくれて」
そこまで聞いても私はまだ思い出せずに、「そうだったっけ……」と首を捻る。
永原くんはそんな私を見て小さく苦笑してから
「そうだったんだよ。そのときさ、倉田もおれと同じプリントを持ってたんだよね。多分身体測定に向かう途中だったから、その説明のプリントだったと思うんだけど。それで倉田、風に飛ばされたおれのプリントを拾ったあと、自分の分のプリントをおれに渡して、代わりに倉田がおれのプリントを持っていったんだ。あのときは、なんでわざわざ取り替えたんだろって、すぐにはわからなかったんだけど」
そこで永原くんはいったん言葉を切り、軽く目を細めた。
「あとで気づいた。プリントが飛んでいった場所に小さい水たまりがあったんだ。それで多分おれのプリントが汚れたから、倉田は取り替えてくれたんだなって。何にも言わずに、当たり前みたいに」
懐かしそうに話す永原くんの表情がとても穏やかだったから、私は妙に照れてしまった。意味もなく自分の髪に触れながら、「そう、だったっけ」ともう一度呟く。
「よく覚えてないけど……」
「うん、多分そうだろうなって思ってた」
戸惑い気味に呟くと、永原くんはあっさりとした調子で言い切った。
「あのときの倉田は、本当に当たり前みたいにそうしてたから。だから、多分いつもそうやって、とくに意識することもなくみんなに優しくしてるんだろうなって。だけどおれは」
そこでまた言葉を切り、ふっと目を伏せる。それから口元だけで静かに笑うと
「おれは覚えてたよ。ずっと」
独り言のような口調で、そう続けた。
私はなんだか顔が熱くなるのを感じて、「あの、でもそれは」とあわてて口を開く。
「永原くんだって、同じじゃないのかな。永原くんも、いつも当たり前みたいに優しくしてくれるし……ていうか、私より永原くんのほうがずっと」
「おれのは違うよ」
奇妙にはっきりと言い切られた言葉に、へ、と声を上げてから黙ると
「おれは優しいんじゃなくて、誰かに嫌われるのが怖いだけだよ」
静かな目で自分の手のひらを見つめながら、永原くんは続けた。
放り出すように言われた言葉に、私は妙にどきっとして永原くんのほうを見る。彼はちょっと困ったような微笑みを口元に浮かべ
「おれさ、本当はすごい暗いやつなんだ。卑屈だし、自分に全然自信がなくて。小学校の頃は友達もあんまりいなかったし」
突然にそんなことを言われ、私はなんと返せばいいのかわからず困ってしまった。
前に浩太くんと鈴ちゃんが、そんな話をしていたことをふいに思い出す。とりあえず、「そう、なんだ」と曖昧に相槌を打てば
「中学生になってからは、結構必死だったんだ。元々人付き合いもそんな得意じゃないし。でも、とりあえずみんなに親切していれば、嫌われることはないだろうなって思って。おれはそういうこと考えてたんだよ。いつも」
彼の声には、重たい自嘲の色が滲んでいる気がした。聞いているうちににわかに悲しさがこみ上げて、「で、でもそれは」と私はいそいで声を上げる。
「誰にだって、そういうところはあると思うよ。永原くんだけじゃないよ。それに私は、永原くんにそんなふうに優しくしてもらえてすごく救われたし、自分のためだったとしても、そうやって永原くんの優しさに救われた人はたくさんいると思うし、それで充分だと思う、けど……」
必死に言葉を探しながら喋る私の顔を、永原くんはなにか眩しいものでも見るような目で見つめていた。
「あの、ほら、あの日も」私はなんとか記憶を辿りながら続ける。
「プリント整理するの手伝ってくれたり、私が傘を忘れたからって自分の傘を貸してくれたり、私のスニーカーがなくなったときだって探すの手伝ってくれたし……そんなふうに優しくしてくれたの永原くんだけだったし、私はそれで本当に」
「そんなの、倉田だからだよ」
私の言葉を遮り、永原くんは言った。ひどく静かな声だった。
え、と聞き返せば、彼はふっと目を伏せ
「倉田じゃなかったらプリント整理なんて手伝わなかった。大変だね、頑張ってね、だけ言って通り過ぎるつもりだったし、傘を忘れたって言われても、それはお気の毒に、で済ませて帰ったよ、多分。今だって」
そこで永原くんは声のトーンを少し落とした。今だって、と低く繰り返す。
「倉田じゃなかったら、こんなに首突っ込んだりしない。おれ、本当はこういうの苦手だし、できれば面倒ごとには関わりたくないって思ったと思う。でも倉田だったから」
永原くんは視線を上げ、私の顔を見た。
「放っておけなかった。倉田には泣かないでほしいって思ったし、苦しんでるなら助けてやりたいって、できれば、おれが守ってやりたいって、そう思ったから」
そこまで言ったところで、ふいに永原くんの表情が崩れる。どこか苦しそうな、けれどとても穏やかな笑顔だった。
私は相変わらずなんの言葉も見つからないまま、そんな永原くんの顔を見つめていた。
少し間があってから、永原くんの目がまた閉じられるか否かのところまで伏せられる。そうして彼はちょっと困ったような声で、「とっくに、気づいてるかと思ってた」と呟いた。
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