第16話 嘘
体育が終わったあと、教室に戻る途中で二組の教室に立ち寄った。
あの日忘れたと思った国語の教科書は、筆箱と同様、どんなに家を探しても見つけることはできなかった。今度はわりと早い段階であきらめて新しい教科書を買うことにしたけれど、注文してから届くまでに三日ほどかかるということで、まだ私の手元に教科書はない。
きっと教科書を探すべき場所は家ではなく、ゴミ捨て場や焼却炉なのだろう。スニーカーと同じように。わかってはいたけれど、ふたたびあの場所へ向かうのはどうしても気が進まず、ずっと先延ばしにしている。
私は自分の席に突っ伏している浩太くんのもとまで歩いていくと、軽く腕をつついて彼を起こした。
「浩太くん」
顔を上げた浩太くんに、私は「起こしてごめんね」と謝ってから
「あの、国語の教科書、貸してくれる?」
言うと、浩太くんは少し眉を寄せて私の顔を見た。
「また? お前、この前も忘れたって言ってなかったっけ」
「う、うん、今日も忘れちゃったみたいで……」
思いがけなく聞き返され、ちょっとどきどきしながら返す。
けれど浩太くんはそれほど怪訝には思わなかったらしい。ふうん、と軽い調子で相槌を打ってから、机の引き出しに手を突っ込み
「五限が国語だから、それまでには返せよ」
そう言いながら教科書を差し出してくれた。
ありがとう、と私がお礼を言ってそれを受け取ったとき、ふと教室の前方の戸から永原くんが入ってきた。彼が向かう先にあるのは、鈴ちゃんの席だった。
永原くんは鈴ちゃんの机の前に立つと、彼女に笑顔で声を掛ける。すると気づいた鈴ちゃんも笑顔で応え、そのまま二人で会話を始めた。
私が思わずその様子をぼうっと眺めていると、「歩美?」と浩太くんが怪訝そうに声を掛けてきた。
それでようやく我に返った私は、あわてて浩太くんのほうを向き直り
「最近、仲良いよね。鈴ちゃんと永原くん」
言って、取り繕うように笑みを浮かべた。
「そうだなあ」呟きながら、浩太くんも二人のほうへ目をやる。それから、まあ、と軽く目を細めて口を開いた。
「前から仲は良いみたいだったけど」
「でも、最近はとくに仲良くなった気がする」
重ねると、浩太くんはもう一度「そうだなあ」と呟いた。
「そういや最近、永原もよく二組に来るようになったしな」
「そうなの?」
驚いて聞き返すと、浩太くんは軽い口調のまま頷いて
「よく来るよ。で、よく鈴と喋ってる。楽しそうに」
ふうん、と相槌を打ってから、私はふたたび二人のほうへ視線を向けた。
たしかに永原くんも鈴ちゃんも楽しそうだ。いつも以上ににこやかな笑顔を崩すことなく、会話に花を咲かせている。話の内容までは聞こえてこないので、なにを話しているのだろうと少し気になっていると
「まあ仲良くなれたんならよかったんじゃねえの。鈴も嬉しそうだし」
穏やかな声で浩太くんが言った。鈴ちゃんの真剣な想いは知っていたので、私も、うん、と深く同意しておく。
それからふと浩太くんのほうを見て
「……浩太くんは、いいの?」
ちょっと声を落として尋ねれば、浩太くんはきょとんとした目で私を見た。
「なにが?」
聞き返され、私は思わず返事に詰まる。黙って浩太くんの顔を見つめたまま眉を寄せていると、やがて彼はなにか察したように、ああ、と小さく呟いた。それから穏やかに笑って
「いいよべつに。鈴が幸せなら」
臆面もなく、そんなことを言い切った。
その言葉もそう口にするときの浩太くんの口調も表情も、全部がどうしようもなく優しかったものだから、なんだか鈴ちゃんの代わりに私がどきどきしてしまった。
昨日鈴ちゃんの言っていた“寄らなければいけない場所”について浩太くんに聞きそびれたことに気づいたのは、一組の教室に戻ってきて、自分の席に腰を下ろしたときだった。
時計へ目をやると、あと一分で始業時間になるところだった。まあいいか、とすぐにあきらめてため息をつく。どうせ、聞いても実りのある答えは返ってこなかっただろう。
そう思い引き出しからノートと筆箱を取り出していると
「ね、倉田さん」
ふと後ろから声を掛けられた。振り向くと、ほとんど喋ったことのないクラスメイトの女の子が立っていたので、私はちょっと面食らう。
長い髪を高い位置で一つに束ねた彼女は、困ったような表情で私の顔をじっと見つめ
「倉田さん、たしか羽村くんとは友達だったよね?」
時間を気にするように早口で訊いてきた。私は唐突な質問に首を傾げながらも、うん、と頷く。
そのときふいに、彼女が陸上部のマネージャーを務めている子だということを思い出した。そういえばこれまでも何度か、彼女に浩太くんへの伝言を言付かったことがある。
また伝言だろうかと考えながら言葉の続きを待っていると
「ね、羽村くんから何か聞いてない?」
彼女はそんな質問を投げかけてきた。まったく意図がつかめない質問だった。
私はきょとんとして首を傾げる。それから「何かって?」と聞き返せば
「今ちょっと身体の調子が悪いとか、それとも何か家のほうでどうしても外せない用事があるとか」
彼女は困ったような表情のまま、早口に続けた。やっぱり彼女の訊きたいことはよくわからず、私はますますきょとんとする。
「べつになにも、ないけど……」
戸惑いながらそう首を振れば、「そうなの?」とその子は軽く眉を寄せた。
彼女の表情が険しくなったようだったから、なにかまずいことを言っただろうかと私が焦りかけたとき
「じゃあ、ただのさぼりってことかなあ」
彼女は視線を宙に向けて呟いた。
え、と私が聞き返したのは聞こえなかったようで、彼女は考え込むような表情のまま
「でも羽村くん、今まではずっと真面目に練習出てたし、何の理由もなくこんなに休むなんてことはないと思うんだけどなあ……」
続けてそんなことを呟いた。
私が困惑して彼女の顔をじっと見つめていると、彼女は思い出したようにこちらへ向き直る。それから「わかった、ありがとう」と礼を言って私の席を離れようとしたので、あの、と私はあわてて声を掛け彼女を引き止めた。
「浩太くん、部活、休んでるの?」
尋ねると、今度は彼女のほうがきょとんとして
「うん、もうここ最近はずっと休んでる。大会も近いし、さすがにそろそろ出てきてほしいんだけど」
「朝練も、ずっと?」
「うん、朝練もずっと」
彼女はあっさりとした調子で頷いた。それから「あ、そうだ」と思いついたように声を上げ
「よかったら、倉田さんからも羽村くんにちょっと言ってみてくれる?」
困り果てたように苦笑して続ける。
「ちゃんと部活来るようにって。もちろんあたしも言ってるんだけど、全然聞いてくれなくて。でも羽村くん、倉田さんの言うことならちゃんと聞きそうだし。ね、お願い。大会近いし心配なんだ」
「う、うん」
私もなんとか曖昧に笑って頷く。彼女は「ありがとう」と明るく笑ってから、今度こそ踵を返した。
まだ訊きたいことはたくさんあった。たけど、あの、と私がふたたび口を開きかけたときに始業を告げるチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきたので、それ以上はなにも訊けなくなってしまった。
早足に自分の席へ戻っていく彼女の背中を眺めながら、私はさらに困惑して眉を寄せる。
今朝も浩太くんは、今日も朝練があるのだとたしかに言った。まだはっきりと覚えていた。
こうちゃんだってさぼりたくなることもあるよね、という鈴ちゃんのさっぱりした声が頭の中に響く。けれどそれよりも深く、彼が嘘をついていたという事実が時間差で染み入ってきた。それからやがて、冷たい混乱がゆっくりと胸を埋めていった。
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