第19話 また会える日まで

 夏休みに休暇を取り、俺と葵は京都に来ていた。夜行バスで降り立った京都駅で、まず一番初めにしたことは腹ごしらえだ。昨日の夜もろくに胃に入れていなかったため、空腹で仕方ない。

「駅前にバーガーショップあるよ」

「行ってみる? 京都っぽいメニューあるかな?」

「期間限定みたいなやつ? どうだろうねえ」

 葵は笑う。いつもよりも力のない笑いだ。分かる、俺もお腹が死にかかっている。

 チェーン店のバーガーショップは東京に並ぶパネルと同じだ。何も変わり映えなく、安心感とほんのちょっとのがっかり感をもたらした。

 お腹を満たした後は、向かった先は清水寺だ。早朝拝観できる場所が限られ、必然的に清水寺になった。

 どこまでも続く坂にはショップが建ち並び、開いている場所は一つもない。

 拝観料を払い、ここも階段だ。さらに上へと続いていく。

「お寺の掃除って初めて見た」

「清水寺より見入るよ……こんな感じでやってたんだね」

 雑巾やほうきでの掃除をイメージしていたが、置き去りにされている掃除機はハイテクな文明の利器だ。こんな広い場所であれば、ほうき一つでは時間がかかりすぎる。写真を何枚か撮り、肩を寄せ合ってしばらく清水の舞台に見入っていた。

「ここから近くの神社に行きたいんだけどいい?」

「いいよ。どこ?」

「地主神社ってとこ」

 葵が一生懸命スマホとにらめっこをしていた理由だ。

 清水寺から歩いてそうかからない場所にあり、何の神社かは鳥居をくぐる前に理解した。

「恋愛成就って……。葵ってそんなにロマンチックなの?」

「キミと人生をやり直すために何度も行き来したのに? 世界一ロマンチックでしょ?」

「どちらかというと、無謀……。ロマンチックと無謀は紙一重なのかも」

 急な階段の手前だからと、葵は手を差し伸べる。

 けれどそれは俺の勝手な勘違いで、上り終えても彼は手を離さなかった。

 葵は熱心にお守りを見ては、これが欲しいと女性に訴える。五歳児の駄々っ子の顔のようで、おかしい。ときどき、葵は子供の顔になる。抱きしめたくなるほど可愛くて仕方ない。

「ほら、見て」

 青と赤、ふたつのお守りが入った『ふたりの愛』。直球すぎるネーミングだ。

「あの狐のお守り、ダメにしちゃったから」

「元々葵のでしょ?」

「そうだけとさ。本当はリンに持っていてほしかった。だからこれはお揃いでつけよう。大丈夫、もうあんなことにはならないから」

 俺が赤、葵は青。なんとなく、葵は青のイメージがある。雲のない空は葵によく似合っていた。

 お守りは財布にしまい、地主神社を出た後は金閣寺や二条城を回った。途中でお茶をしながら知らない外国人に道を聞かれると、難なく答える葵に嫉妬した。

「そこはかっこいいって思ってくれないの?」

「思うよ、思うけど……やっぱり悔しい」

「アメリカで育ったんだから多少はできるよ。ちなみにさっきの人はオーストラリアの人ね。田舎の方だと思う。癖が強くて、実は聞き取りづらかった」

「アメリカのことを話してくれるのって、初めてだよね」

「……そうだっけ?」

 溶けかけの抹茶のアイスが乗ったかき氷を口に入れ、歯で噛んだ。ちょっと染みた。

「言いたくないのかって思ってた。病院にいたときとかさ、葵の家に泊まりに行くと過去の話するじゃん? 探偵クラブとか、帰りに食べたハンバーガーとか。でも、決まってアメリカの生活は避けるから」

「したくないわけじゃないんだけど、楽しい話なんて何にもないよ? 人体実験ばっかりだったし」

 ふー、と大きく息を吐く匂いは、俺とおんなじで抹茶の香り。息ごと食べてやりたいなんて言ったら、笑うだろうか。きっと、問答無用でベッドに引きずり込まれる。俺は未来を知る術はないけれど、それだけは分かる。

「電気浴びせられたり、伸びた髪の毛を勝手に切られたり」

「……………………」

「ほら、そういう顔になる。俺はそんなことより、リンとの楽しい想い出を語りたいよ」

「でも葵は、これからも独りで抱えていくことになる。それは俺がつらいよ」

「よし。ならベッドで慰めて。いいこいいこってしてくれたら、俺幸せになれる」

「はいはい」

 葵は前に、施設にいたときも甘えられる相手がいなかったと話していた。食事も遠慮がちで、いつも小さな子に取られていたと。

 店を出るとき、こっそり頭を撫でると「どうしよう、トイレに行きたくなってきた」と頓珍漢な語彙力を発揮した。さっき食べたかき氷を残しておけばよかった。押しつけてくる下半身に氷をぶっかけてやりたい。

 夕日が出る頃に京都駅に戻り、歩いて十分ほどのホテルにチェックインした。疲れてベッドにダイヴすると、葵はもう片方のベッドではなく横に潜り込んできた。

「お腹減った……飲んでいい?」

「何を?」

「そんな呆れた顔する?」

 ベルトを外し、ズボンと下着が抜かれていく。

「ちょっと、せめてお風呂に入ってからっ。汗かいてるし」

「リンはいつでもいい香りだよ」

「葵って本格的にヤバいよね。股間嗅ぐ人って初めて見た……」

 迷うことなく性器を口に入れ、綺麗に治った右手では柔らかい性袋を包む。

 顔を上げると、上下に動く葵の頭が見えた。目が合い、俺はすぐに逸らした。余裕がないのは俺なのに、葵の方が辛そうだった。

 焦らすように内股を撫で、どちらの体液か分からないもので濡れる肌は、水音を立てて生々しい。

 限界はすぐ近くにくる。細かな息を吐くと、葵はこちらの様子を伺い、唇の滑りと圧迫が増す。

「は、あ……あっ……も…………」

「いくって言って」

「は……ああ……い、……いく…………っ」

 数分の扱きで呆気なく吐き出し、葵は一滴も出さずにすべて喉を通した。

「気持ち良い?」

「うん……すごく」

 余裕そうな顔の下には、言い逃れは通用しないものがある。涼しい顔をしても、葵はペテン師に向いていない。

 膨らんだジーンズの上から手を当てただけで、葵の口からは熱い吐息が漏れる。俺も人のことを言えないが、特に葵は快楽に弱い。俺より達するのが早い。我慢大会をすれば、少なくとも葵には勝てる自信がある。

 それに、焦らされるのが好き。けれどいくら焦らしても、葵はすぐにいってしまう。おかしくて愛おしくてたまらない。

「どうする? 手縛る?」

「……………………」

「なに? 聞こえないよ」

「…………お願いします」

 おまけに縛られるのが好き。葵の手を頭の上に置き、その辺にあった適当なタオルで結んだ。

 シャツを上げ、肌に触れると少ししょっぱい。ざらっとした突起を口に含み転がす。かすれた声に続き、擦りつけてくるので俺も腰を動かした。

 反対側も同じように音を立てて吸い、腋を撫でると甘い声が溢れる。

「も……、限界…………っ」

「もう? まだほとんどしてないのに?」

「早く、下も舐めて……」

 こんな可愛い人が、俺の彼氏なんです。余裕がなくなると、いつも余裕はないけれど、動物の交尾みたいなセックスをするんです。おもいっきり叫んで自慢したい。

 下着も脱がせると、勢いよく飛び出た性器が顔を直撃する。無我夢中で吸い、独特の匂いと味を堪能していると、一分と経たないうちに口の中に苦みが広がった。

「飲んで、お願い」

 この瞬間、いつも葵は苦しそうに飲んでと呟く。言われなくても、全部飲むのに。

「飲んだよ」

 ほら、と口を開けようとするも、叶わなかった。唇で塞がれ、生温い舌が口内に入ってくる。お互いの舌先で弄び、一ミリの距離ももどかしくて再び身体を密着させた。暖かさは心に光が灯る。口の中は苦みしか感じなくても、溜まった闇が浄化されていく。

 べたべたになった汗をシャワーで流し、一度外に出てご飯を買いに行った。ホテルでは朝食のみ出る。結局夕食もバーガーショップで、チーズバーガーを二個頼んだ。

「ダブルチーズバーガーを頼むより、チーズバーガーを二個買った方がお得だよね」

「リンは学生の頃も同じ注文してたね。懐かしいなあ」

 かく言う葵はフィッシュバーガー二個。違う味を頼んだらいいのに。

 ポテトを差し出してきたので、口にくわえた。反対側から葵も食べ始めたので、途中で切ってしまった。恥ずかしい。

 キスしたり、手を繋いだりしながらポテトを食べる姿は、親には絶対に見せられない。小さな空間で、ふたりだけの秘密。

「あーあ」

「なにそのため息みたいな声」

「ずっと一緒にいられたらいいのになあ」

「いられるだろ」

「うん……そうなんだけどね」

 最後のポテトを食べ終わり、くしゃくしゃになった包みをポテトの箱に押し込む。

「リン、決めたよ」

 覚悟の表れは、少し声が震えていた。

「旅行に行きたい、ふたりの想い出を作りたいって言ってたときから、なんとなく察してた。葵の口からちゃんと聞きたい」

 抱きしめられると、葵の熱が直に伝わる。シャワーを浴びた後だからか、吐息も熱かった。

 頭の上から深呼吸が聞こえるが、逆に緊張を高めてしまう効果もある。緊張を解そうと腋をつつくと、違う意味での熱い吐息が聞こえた。これ以上は止めておこう。俺の身体が壊れる。

「リン。俺ね、アメリカに戻るよ」

 エアコンの音が妙にリアルに聞こえた。自分が息をしているのか分からなくなり、苦しさから止めていたと理解する。深呼吸にならない程度に、何度か吐いて吸った。

「戻って、全部終わらせる。うやむやにしたら絶対に後悔する。逃げる生活はもう嫌だ」

「……………………」

 現実離れした生活を葵は送ってきた。嘘のようで本当の話で、それは葵の身体が物語っている。

 何度抱かれても気づかなかったのは、その場の雰囲気でいつも俺が押し倒されていたからだ。何度目かで絶対に背中を見られたくないと悟り、俺は見せてほしいと懇願した。

 気持ち悪いからの一点張りだった葵は根負けし、俺は彼の背中にある無数の傷に言葉を失った。

──鏡を見るとびっくりだよね!

 けらけらと笑う姿が痛々しく、涙が止まらなかった。

 どんな思いで、彼は何度もやり直したのだろう。

 一生背負う傷と心に負った傷は計り知れない。

 俺を運命的な死から逃すために、何度も何度も過去へ遡った。

「どのくらいかかるか分からない。一週間で戻ってこられる保証もない。数年かかるかもしれない。国を敵に回しても、戦うつもりだから」

「俺も……行っていい?」

 絞り出した声に、案の定、葵は首を縦に振らなかった。

「リンにはやるべきことがあるでしょ? 探偵としての実績を積む。個人事務所を開く。そこで俺も一緒に働く」

「覚えててくれたの?」

「高校生のとき語り合ったじゃない。忘れないよ。リンは仕事をこなすんだ。日本にはリンの力を必要としている人がいる。俺はその間に、自分の問題を片づける。今もどこかで俺を見張っている人たちがいて、もう言いなりになるのは嫌だってはっきり告げる。奴隷でもなんでもない。好きな人と幸せになりたいだけなんだ」

「嘘でもいいから、俺のところに帰ってくるって約束して」

「嘘で約束はしないよ。必ず帰る」

 戦地に送り出す妻は、こんな気持ちでいるのだろうか。

「また……俺の記憶は消えるの?」

「消えない。過去には戻らないから。そもそも、過去へ行く方法なんて生み出すべきじゃなかったんだ。誰も幸せにならない。犠牲があまりに大きすぎる。俺はリンを救えたことが幸せだけど、過去に戻らなくても救える方法はあった。きっと心のどこかで、失敗しても戻ってやり直せるって、驕りがあったんだと思う。これから何かあっても、リンを守るよ」

「守るのは俺の方だよ。事務所を作って、日本に戻ってきた葵の無職を阻止する」

「あははっ、ニートだけは避けなくちゃね。お金がないと生活できないし。……うん、冗談を言える余裕は俺にはまだある。肩の荷がごっそりなくなった感じ」

「重いリュックを下ろすとすっきりするよね」

「そうそう、それ。解決までは遠いけど、口にするだけで軽くなるもんなんだなあ」

 今まではひとりでいらない荷物ばかり背負い、溜め込んだ荷物を俺がそっと下ろしてやれたらと思う。きっとまだまだ背負っているはず。一生かけて、軽くなった身体で同じ歩幅で歩けたら、絶対に幸せ。

 今夜は抱きつぶしてやるなんて豪語していたのに、先に寝たのは葵だった。涙の跡を拭ってやり、俺も隣に寝た。反対側のベッドは荷物置きと化している。それでいい。あれは荷物置きなんだと思えば、柔らかな鞄置きに見えてくる。ここにはベッドは一床だけだ。

 次の日はふたりともけろっとしていて、バイキングの朝食では山のようにご飯を食べた。俺は焼きそばとソーセージと卵かけご飯。葵はロールパンや食パンにバターをたっぷりとつけて、それとコーンスープ。炭水化物の恐ろしさは、一週間後に襲ってくるだろう。

 嵐山に行って抹茶のソフトクリームを食べたり、渡月橋の上から川を眺めたり、自然に身を任せて京都を堪能した。

 横道に逸れたり振り向いたりもするけれと、俺たちは最善の選択をしていると思う。なぜなら、後悔なんてしていないから。葵も口癖になったのか「リンと会えて良かった」と人前でも気にせず口走る。コーヒーショップでパソコンを打つサラリーマンに見られようとも、女子高生に聞き耳を立てられようとも。何十年と過ごした夫婦のように、俺たちの流れる時間は他とは違う。




 一か月後、葵は俺の前から姿を消した。

 いずれ来ると分かっていても、虚無感はしばらく残り続けた。

 無になった感情は嫌な感じはしなくて、それは記憶がしっかりと刻まれているから。

 決着をつけると言うが、具体的にどう決着をつけるのか俺には分からないままだ。でも俺は、五年でも十年でも待ち続けるだろう。台風のように去っていった彼は、きっとまた朝日いっぱいを掲げて俺の前に現れると信じて。

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