第17話 昔の記憶、現実逃避

 誰かの声で、目が覚めた。

 ベッドに腰掛け、誰かと電話をしている様子を見るに、それほど楽しい話題でもないようだ。敬語、そしていつもより低めの声。寝たふりを決めようと思ったが、佐藤さんのとんでも話に慌てて布団を蹴った。

「佐藤君? 鈴弥なら俺の隣で寝ていますよ」

「ちょっと! 違う違う! 寝てない!」

 実際違わないのだが。スマホを取ろうとしても、寝起きの俺では何の力も備わっていなくて、簡単にいなされてしまった。

「はい、では失礼します。ちゃんと本人にも伝えておきますね」

 寝起きと空腹のコンボでダウンし、佐藤さんの太股に倒れた。

「今の電話って……」

「ご飯にしよう。それから話すよ」

 いいこいいこと頭を撫でてくる。気持ちいい。でもそれより、まずはご飯だ。部屋にも良い匂いが漂っているから、余計にお腹が鳴る。

 テーブルにはふたり分の朝食が並び、空腹を刺激する原因の正体は、ソーセージだ。

「佐藤さんって料理できたんだ……」

「めちゃくちゃ頑張った。もう本当に頑張った。これは結婚しかないよ」

「いただきます」

 塩味の利いたソーセージにケチャップをつける。至福のひととき。俺の好物のうちの一つだ。知らないはずなのに、俺の皿には一本多い。

「食べながらでいいから、電話の内容教えてよ」

「電話の前に、昨日の話はしないわけ? あれだけ愛し合ったのに」

「愛し合ったって……ちょっと手でしただけじゃん」

「好きでもない人とできる人?」

「話の流れっていうか……ほだされた俺も俺だし」

「良かった。またしようね」

 良いとも嫌とも言えなかった。

 佐藤さんはピエロみたいに、顔と感情を隠すのがうまい。でも手や声が震えたりして、完全に隠しきれない人。それがほだされる原因だった。三歳児みたいに泣いて喚いて聞き分けが悪いわけじゃない。だから困る。俺がほだされる。

 皿を綺麗にし、片づけは俺が受け持ち、コーヒーを入れた。苦さの好みがちょうどいいから結婚だとか世迷いごとを話す彼を無視し、ソファーに座った。

「あ、さっきの電話だけど、綾川さんの依頼は正式に俺たちに引き継いだから。東雲さんたちももう了承済み」

「ええ? なんでそっちを早く言ってくれないんですか!」

「ちょっと待ってよ、俺たちのセックス事情の方が重要でしょ?」

「セッ……人の命がかかってるのにっ」

「それはそれで真面目に請け負ってる。今はプライベートの時間だから、こっちの方が大事」

 佐藤さんは集中していると、目を細める癖がある。遠くを見据えて、心が側になかった。

「……ちなみにですけど、この後の予定は?」

「またセックスしたいの? だけどごめん。午後は用事があるんだ」

「午後の用事の方に、俺も付き合ってもいいですか?」

 仕事の話だろうと、俺は敬語に戻った。

「分かりやすいため息ですね。綾川さんのところに行くんですか?」

「また手紙が入っていたらしい。今度は命を奪うって。警察に任せておきたい案件だけど、依頼主の希望だからね」

「『今度は』か。首を絞めた犯人と同一人物ですね」

「ああ、可能性には入れていた複数って線はなくなった。綾川さんってどんな子だったの?」

「んー…………」

 曖昧な過去に鞭を打って、問いただしてみる。

「目立つタイプの人ではなかったから、あんまり印象に残ってないんですよね。人付き合いも多くはなかったし、なぜ恨まれるのか分からないくらい。元クラスメイトに聞いても、彼女についてちゃんと答えられる人は少ないと思いますよ。それくらい印象が薄いんです。なぜ彼女が狙われるんだという疑問しか出てきません」

「一方的な思いを寄せているパターンだね。愛が憎しみに変わってしまった。自分のものにならないなら殺す。よくあるストーカー。よくあってはならないんだろうけど、残念ながら今もどこかで存在してる」

 愛が憎しみに変わる瞬間は、二十年と少しを生きてきた俺にはまだ理解できない感情だ。母親くらいの年代になれば、一度は芽生える感情だろうか。

 車で向かった先は、綾川さんのいる部屋を階段から一望できる空き家だ。どうしてここを借りられたのか聞くのは無粋だろう。

 不思議なことに、経験のない過去の出来事が走馬灯のようによぎっていく。俺は誰かと張り込みをして、何かの事件を解決していた。学校。煙草。生徒。教師。高校。場面が一瞬現れては消え、思い出していけない、思い出せと、もうひとりの俺が頭を揺さぶる。

「大丈夫? 少し空気を入れ替えようか」

 窓を開けようとする彼の裾を掴み、隣に座らせた。

 触れ合う肩が震える。震えているのは俺じゃない。佐藤さんだ。

 昨日の夜もだった。余裕綽々だ、慣れていると装っても、俺の性器を掴む手はスマホのバイブレーションよりも激しかった。いろいろと。

「眠いなら寝てもいいよ。本当は今日、休みなんだし。危険が迫る前にはだっこしてあげるから」

「佐藤さんって……俺のこと……」

「ん?」

「……なんでもないです。今回は、寝たくない……」

 今回は?

 自分で発言しておいて、発言が意味不明だった。

「頑張れそう? ついでに質問があるんだけど、綾川さんって仲の良い男子とかいた?」

「いなかったかと……そこまで俺も深い付き合いをしてたわけじゃないので」

「じゃあ、いじめとかは? 殴る蹴るだけじゃなく、男の子が好きな子にやるようなからかいも含めて」

「からかい、かあ……確かに、クラスの男子の一部がからんだりしていましたけど、綾川さんはまったく相手にしていませんでしたね。男子より本に夢中で。特定の人とお付き合いしている感じもなかったし。もしかして、高校時代の同級生が犯人って思ってるんですか?」

「……………………」

 佐藤さんは何も答えなかった。答えないことが肯定を表す場合もある。今の場合はどちらだと考える。頭をひねる。佐藤さんは目の色を変えず、双眼鏡を目に当てた。

 確かクラスの数人だった。綾川さんの机の前を行ったり来たりする男子がいて、何の反応も見せなかった綾川さんに、机の脚にわざとぶつかる人がいた。それでも無言で机を整える綾川さんに、男子は舌打ちをしてどこかへ行ってしまった。

 男子は俺も苦手なタイプで、彼女を助けることができなかった。探偵を名乗るのに弱虫だった俺。自己嫌悪して、目立たなくて個性のない人柄が自分に似ている気がして、彼女にほんの少し、苦手意識を持っていた。だからこそ、綾川さんが俺を覚えていてくれたことは奇跡に近い。

「今日、綾川さんは仕事が休みで、ずっと家にい、」

 言い終わる前に、佐藤さんは腰を上げた。

 左手にはカメラを携え、何度も指が動く。俺も側で双眼鏡を覗いた。

「あの人……」

 どこかで見たことがある。俺の顔見知りだ。けれど名前が思い出せない。

 体格のいい男性は辺りをきょろきょろすると、郵便受けに封筒を入れた。冬でもないのに手袋をはめた手でドアノブを回すと、諦めて階段を下りていく。

 男性はアパートを一周回り、ようやく横断歩道を渡った。

 佐藤さんはすぐにスマホをタップして電話をかける。

「もしもし? 今お家にいらっしゃいますね? ではそのまま待機していて下さい。綾川さんのアパートのすぐ近くにいます。郵便受けに手紙が挟まっていますが、我々が取るので決して取らないように。取った合図に四回インターホンを鳴らします。鍵も開けなくていいです。ええ、犯人は帰りました。安心してと言いたいところですが、念のため本日は買い物も控えて下さい。警察には被害者であるあなたかから事情を説明して下さい」

 佐藤さんは電話を切ると、上着を肩にかけて立ち上がる。俺も後を追った。

「お風呂に入っていて、気づいていなかったらしい」

「ばったり会いませんよね」

「会っても目は合わせないように。知らないふり」

 こういうときは経験のある頼れる先輩である。昨日のエロ亡者が嘘のようだ。

「ふー…………」

「そのため息はなんですか」

「俺も、うまくいくか自信がない。繰り返し行うのは、もう疲れた。でも、どうしても守りたいものがある。世の中の条理をねじ曲げてでも、世界から見放されても」

「………………? どうしたんですか? 探偵の仕事が? 疲れたんですか?」

「…………キミもついてきて。ここはもう危ない」

 据わった目は、佐藤さんが佐藤さんではないみたいだ。震える太股を叩き、綾川さんのアパートに向かう。

 気のせいかもしれないが、どこからか焦げた臭いが漂っていた。佐藤さんが何も言わないので、勘違いかもしれないし、気づいていても

口に出さないだけかもしれない。

「佐藤さん、さっきの男性ですけど、見覚えがある気がするんです」

「でしょうね」

「え?」

 茶色の封筒が挟まっていた。デジタルカメラで数枚写真を撮った。

 綾川さんの郵便受けから封筒を抜き取り、ボタンをゆっくりと四回押した。

「指紋もつかないようにしていたなんて、用意周到すぎる」

 何か言おうと口を開きかけたとき、「火事だ」と男性の叫び声が聞こえた。

「え、火事?」

「さあ、行こうか。大丈夫、被害は広がらない」

 焦らず騒がず、佐藤さんは俺の手を取った。頼りになる。

 アパートを出ると、逃げる人というより野次馬が集まっていた。何人か電話をかけて消防車を呼んでいるので、どこかぼや騒ぎがあったようだ。

「あそこって……」

 人が集まるところから、白い煙が空いっぱいに広がっていく。

「俺たちがさっきまでいたアパートだ……」

 背筋が震え、胸が見えないものに鷲掴みにされる。苦しい。

 火は消えているようだが、万が一ということも考えられる。俺があのまま寝ていたら……。

──危険が迫る前にはだっこしてあげるから。

 先読みをしたのか? こうなることは犯人以外、誰にも予想できなかった。そして事故ではなく事件。外壁から火が起こるなんて、放火以外考えられない。

「佐藤さん、さっきの……」

 言葉が出なかった。視線が合ったのは佐藤さんではなく、先にいる体格の良い男性。犯人は現場に戻るというが、同じ地域でふたつも事件が重なるだろうか。しかも同日だ。

「杉野誠一……」

 双眼鏡越しでは思い出せなかった名前が一気に広がる。学校での態度、彼のしでかした悪逆、退学。鮮明に蘇っていく。

 彼は万引きで捕まり、学校に来なくなったはずだ。あれからどうなったのか、人の噂も七十五日というが、三日経てば杉野の話は誰もしなくなっていた。女子生徒から疎ましがられ、サル山のボスを気取っていた彼は男子生徒からも異物を見るような目を向けられていた。

 手に持つものは、先が尖って光を反射する。目がおかしい。それほど大きな目でないと記憶していたが、ナイフ以上にぎらつく目は、何を言っても届かないと判断した。

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