三章
三章 プロローグ
この世界には……というと主語が大きすぎるか。サンの村には暦がしっかりとあるわけではない。
春夏秋冬という季節の概念はあるのだが、春の始めとか冬の終わりとかざっくりな感覚でみんな生きているようだ。
かといって正確な日付を把握するだけの知識がないかというとそういうわけでもない。サンの村の人たちは季節ごとに見ることが出来る星を把握していて、方角とか季節がそろそろ変わるころだとかを把握する天文学的知識は存在するため、やろうと思えば暦を作ることは可能だと思う。
その証拠に最近俺が来てからもう一年は経っている頃だとを教えられた。
多分彼女達には必要ないだけなんだろう。
「っと」
森の中で跨がって越えなればいけない程大きな根っこに腰かけて休んでいると、俺の耳に狩猟衆の使う笛の音が飛び込んできた。
方角は北の方で距離はそれほど離れていない。
俺は意識を切り替え立ち上がると、足に力を込めた。
腰かけていた木の根を蹴ると、凄い速度で視界の端を木が流れはじめた。
走る。
森の中を走るのに必要な情報を捉えた瞬間、次の体の動きが決定される。
このままの歩幅だと二歩先の左足の着地地点に大きな石があるが、地面に埋まっておらず踏むと転がり落ちる可能性がある。
だがあえて俺はその石を踏む。
予想通り石は俺の体を支えきれずぐらりと動き出すが、俺はあえて着地する瞬間にあえて足首を固めず、石の表面を滑らせてそのまま石の横の地面へと着地する。
足は滑ってもいい、滑る事さえわかっていれば滑らないところまで滑らせてやってから力を入れればいい。
下りに入った。
脚力に加え、重力が体を無理やり加速させようとしてくる。
一瞬足を踏ん張ってブレーキをしたくなるが、それを理性で抑え込んで足をより大きく蹴り出す。
ブレーキすればその分足へ負担がかかる。ましてや今はとんでもない重さの大剣を背中に背負っている。
大地の加護を得た今の体なら耐えることはできるが、わざわざ負担がかかるような走り方をする必要がない。
体が落ちる前に足を踏みこみ、体を斜面に合わせてスライドさせるイメージで後ろへ蹴り出す。
下りは速ければ速いほど膝への負担は少ない。
ブレーキをしない体は、一歩一歩走るたびに重力の力で加速する。
加速すればするほど一歩で飛ぶ距離が長くなり、地面に足をつけている時間より宙を飛んでいる時間の方が長くなっていく。
雨水で浸食され、すり鉢状になった斜面を駆け抜けると下りは終わり、また平地に戻る。
体に必要な酸素の量が鼻では賄う事ができなくなり、鼻呼吸から口呼吸へと自然に変わる。
ハッハッと大きいが規則正しく行われる呼吸は、まだまだ自分の体のギアは先がある事を教えてくれる。
見えた。
五人の狩猟衆が身長ほどもある巨大な獣を囲んでいる。
その獣の体毛は基本は茶色だが白い斑模様が横二列にある。額から鼻先に前方に向かって生えた巨大な角を有しており、その長さは体長の半分ほどにもなる。
その巨大な角を頭を支えるためなのか、前足の蹄が後ろ脚より太く、首回りの筋肉が異常発達し背中に筋肉でできたコブがある。
この獣を地球の生き物で例えるとするならば角の生えた巨大なイノシシだろうか。
俺はこの獣の名前を知らないため、一旦イノシシと呼ぶことにする。
狩猟衆がイノシシへ向けて矢を射かける。その矢はイノシシの毛皮に刺さり、血が体毛を赤く汚すが怯む様子はない。
分厚い体毛と筋肉に阻まれて致命傷には程遠いのだろう。
イノシシは身を少しかがめると、一瞬土に覆われた地面が陥没し、次の瞬間弾丸のように前進を開始した。
イノシシの突進に狙われた狩猟衆は、弓を手放し全力で身を投げ出して避けた。
だが避けるのが早かった。
イノシシは強靭なその前足を地面に突き刺し、勢いで後ろ脚が宙に浮きあがりながら急停止した。
あの巨体が一瞬で動きを止めるその様子は、まるでその体が張りぼてで重さなどないかのように見える。が、地面に深々と刺さった前足がその巨体が見た目に見合うだけの重さを備えていることを表している。
さらにイノシシは大きく伸びた角を、地面へと倒れこんだ狩猟衆へと向けて振り上げた。
倒れこんだ狩猟衆の女は目を見開きながら手と足を地面につき、回避に移ろうとするが間に合わない。
周りの狩猟衆は槍を突き出し助けに入ろうと走り出しているが届かない。
だけど俺が間に合った。
「ミナト君!」
衝撃で歯が軋み、肺から空気が全て抜けた。
俺は倒れこんだ狩猟衆の女の体の上を跨ぎながら大剣を上に構え、イノシシの大角を受け止めていた。
イノシシは突如現れた俺へと目を向けると、そのまま圧力を強め圧し潰そうとしてくる。
骨が軋み、筋肉がぶちぶちと音を立てるが、俺は潰されない。
余裕なんてない。
それでも俺は食いしばった歯を見せつけるように口角を上げる。
俺がここをどけば潰されるのは女だ。
決してここを引くわけにも、それを悟られる訳にもいかない。
俺の威嚇を見たのかイノシシの体が少し揺れる。
「ああ”!!」
俺はイノシシの巨体ごと吹き飛ばすつもりで大角を弾いた。
驚いたイノシシは、イノシシ特有の高い声で鳴く。
力負けした。そうこいつは悟ったのだろう。
再び自慢の大角で俺と撃ち合おうとはせず、前足を地面から引き抜いて距離を取ろうとしたのか、それとも逃げようとしたのか走り出そうとする。
だけど地面から足を引き抜く動作の時点で、もう俺の攻撃の準備は済んでいた。
大角の圧力がなくなった偏心式機械大剣【撃鉄】の柄を引きながら持ち上げる。
すると持ち上げられた【撃鉄】の刀身に設けられたスリットの中を、重たい鉄の塊が手元まで落ちる。左手は伸びた柄の端を持ち、右手は鍔ギリギリを持って出来るだけ両手の幅を広く。
手に鈍い音と衝撃が走る。
俺は踏み込み、硬い大角で守られた正面ではなく、逃げるために横を向いてしまったイノシシのどてっぱらへ撃鉄を叩きこんだ。
遠心力によりスリットの中の錘が先端に移動し、イノシシの体毛に撃鉄が食い込む瞬間、錘が撃鉄の先端にぶつかりその衝撃が斬撃力へと変わる。
矢が効かない程の体毛と分厚い筋肉を切断し、骨を砕きながら内臓を破壊する。
一刀両断。
イノシシは真っ二つになり暴れることもなく事切れた。
「……ふぅ……」
この世界に来て一年と少し、俺は十六歳になったらしい。
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