33時限目 窮地(2)

「シオン!」


 イムドレッドの声にぼんやりと気だるげな瞳で、シオンは顔を上げた。


「……あ、イム」


「無事か! 俺の顔が分かるか!?」


「う、ん。イムも元気そうで良かっ、た……」


 シオンの声は弱々しくかすれていた。焦点が合っておらず意識が朦朧もうろうとしているようだった。そのまま目を閉じて、彼はがっくりと気を失った。


「バカ野郎……どうしてこんなところに」


 イムドレッドは怒りに満ちた表情で、無言で並ぶエスコバルのメンバーを見た。


「……お前ら」


「少し話をしてもらいたくなるようにしただけだ。大丈夫、身体に害はないし依存性もない。ちょっと眠くなるくらいだ」


 彼の後ろからパブロフがゆっくりと歩いて追ってきていた。ぐったりとうなだれるシオンを見下ろしながら、彼は言った。


「ルブランの嫡子ちゃくしか。確かにこれは金が入用になるね。あそこの家は確か取り潰し寸前だったか。先代が詐欺にあって、かなりの借金を抱えているとか」


「……」


「君が私たちと手を組んだのはこの子のためかい?」


「だからどうした」


「どうというほどでもない」


 パブロフがちらりと合図を送る。トニーはナイフの切っ先を、シオンの頬の近くに掲げた。


「例えば、この子の命が脅かされていたら、君はすぐに動いてくれるのかな」


「……脅迫か。上等だ」


「交渉だよ。これから先、君がエスコバルに協力してくれれば良い。君がいれば私たちはもっともっと強くなれる。他の二つの組織を潰して旧市街を支配するだけじゃない。王都まで支配できる。成り上がれるんだ。良い話じゃないか」


 パブロフの言葉に耳を貸すことなく、イムドレッドはシオンに当てられたナイフを睨みつけた。


「それをシオンからどけろ」


「答えは?」


「良いからどけろ!」


 そう叫んだイムドレッドは懐から、毒の入った小瓶を取り出した。


「どけないと、こいつを撒く」


「だからと言って、この子が助かる訳でもない」


「……その時は地獄の果てまで、お前たちを殺しに行く。絶対に殺す」


「冷静になれよ、イムドレッド。そこまで悪い話じゃないはずだ。俺なら君の力を有用に使うことができる」 


 イムドレッドの脅しにも関わらず、トニーはシオンからナイフを離そうとしなかった。決定権は自分にあると言わんばかりに、冷たい笑みを浮かべていた。


「さぁ、どうする? 私たちの味方になってくれるか。それともこの場の全員殺すか?」


 パブロフの言うことは全て当たっていて、イムドレッドは攻撃に転じることができなかった。この小瓶は脅しにすらなっていない。彼は目を閉じるシオンを見下ろした。


「……くそっ」


 何もできない。


 自分にとってシオンが致命的な弱点であることがバレている。イムドレッドは唇を噛み締めて、小瓶を床に降ろした。


 俺を導いてくれた手のひらだ。それをこんなところで失う訳にはいかない。イムドレッドは両手を挙げて降参した。


「……分かった」


「良い子だ」


 トニーがナイフを収めた。イムドレッドは悔しそうに歯ぎしりをした。自分の甘さを噛み締めて、シオンを巻き込んでしまったことを後悔していた。


「イム……」 


 うなだれたイムドレッドを、シオンが必死に顔を起こし、青ざめた顔を向けていた。ぱくぱくと口を動かして、なんとか言葉を紡ぎだそうとしていた。


「……めだ」


「シオン、無理するな。喋るな」


「だ、めだ」


 シオンは震える声で言った。朦朧もうろうとする意識の中で、必死に自分の言葉を探した。


「だめだ。人を殺しちゃだめだ」


「何を言って……」


「君は道具なんか、じゃ、ないよ」


 辛そうに息をしながらシオンは、すがりつくようにイムドレッドに手を伸ばした。


「僕が君のことを知っている。だから、おいで、僕と一緒に帰ろう」


 シオンの瞳から涙が伝った。ぽろりとこぼれた涙のしずくは、まっすぐに伸びた髪を伝って、床へと落ちた。崩れゆく意識のふちから、シオンは必死に言葉を吐き出していた。


「俺は……」


 シオンの手を取ってイムドレッドは呟いた。

 本当は帰りたい。あの断裂の向こう側の穏やかな景色を見たい。運命から逃れて、好きなように生きてみたい。


 でもそれを取ってしまったら、自分はさらに大事なものを失う。心の奥底から出かかった言葉を押し殺して、彼は言った。


「ごめん、俺は帰れない」


「イム……そんな」


 シオンはがっくりとうなだれ再び意識を失った。その様子を見ながらパブロフが口を挟んだ。


「けなげな友情だね」


「それ以上茶化すようなら殺すぞ、パブロフ」


 ひゅうと口笛を吹いて、パブロフは言った。


「そう噛み付くなよ。今日から俺とお前はパートナーだ。まずは他の組織を潰して旧市街を取ろう。おい、そこの彼女を地下室に入れておいてくれ」


 そう言うとトニーは気絶するシオンを部下たちに受け渡した。


「話が違うぞ……!」


「ほんの一週間さ。話を聞かれてしまったからには、すぐには帰せない。計画が終わるまではここで軟禁させてもらう。大丈夫、危害はくわえないよ」


 パブロフは「最大限の譲歩だ」と付け加えると、イムドレッドの前に立った。イムドレッドは男に担がれたシオンに視線を移して、拳を握りしめた。


「本当だな。計画が終われば無事に帰すんだな」


「もちろん」


 シオンの姿が扉の外に消える。階下へと降りていく足音を聞きながら、イムドレッドは自分の無力さにうなだれていた。結局、シオンを危険にさらしてしまった。


 甘かった。

 こいつらの非道さと狡猾こうかつさを甘く見ていた。自分の犯した過ちを実感して、イムドレッドはただ立ちすくむしかなかった。なすすべなく遠ざかる足音を聞いていると、ふと、その音が終わりを告げた。


「……ぐあっ!」


 階下から男の叫び声が聞こえてきた。痛々しい打突音の後で、階段を上がってくる音が近づいてくる。


「なんだ……?」


 パブロフは眉をひそめて、部屋のドアの方を振り向いた。その足音は、もうすぐそばまで来てドアノブに手をかけていた。かつてない緊張感が部屋を包む。


 ドアを開けて入ってきた男は、数週間はまともに寝てなさそうな表情で言った。


「どうも、おじゃましてます」


 シオンを抱えたダンテは、部屋の中にいるパブロフを見て「あー最悪だ」とぼやいた。

  

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