第22話 楽しい時間はいつか終わる
いつもよりも少し早く目が覚めた。目の前には見慣れた六畳間の光景。いつもと変わらない朝だ。が、早起きをしたというのに俺の心はどんよりしている。
その理由は……。
俺は寝返りを打つように身体をくるりと反対側へと向ける。すると小さく寝息を立てる先生が俺に背中を向けて眠っていた。俺に背中を向けているのは俺のことを見ながら眠りたくなかったのか、単に寝返りを打っただけなのかはわからない。
先生の背中をしばらく眺めていた俺だったが、不意にピピピと先生のスマホからアラームが鳴るのが聞こえて俺は慌てて先生に背を向ける。
しばらくすると先生がガサゴソと動く音が聞こえてくる。
「ん、ん……」
先生は無駄にエロい吐息を漏らすとアラームを止める。
そんな先生に俺は何故か寝たふりを続ける。昨日先生と喧嘩をしたばかりだし、まだ面と向かって会話をする勇気が俺にはなかったからだ。俺は先生に背中を向けたまま目を閉じていると俺を跨ぐようにして先生がベッドから下りるのが分かり、俺はうっすらと瞳を開く。
いつものネグリジェ姿の先生はボサボサの髪を手で押さえながら、台所へと向かうとコップに水を入れてそれを飲んだ。どうやらふくらはぎが痒かったのか、水を飲みながら右足をフラミンゴみたいに上げると足の爪でポリポリとふくらはぎをかいていた。が、コップをシンクに置くと不意にこちらを振り返る。
先生は俺の方へと歩いてくるとその場でしゃがみ込む。その拍子にミニのネグリジェが大きく捲りあがって中のピンクの布が見えていたが、俺に見られていることに気がついていないようで直そうとはしない。
先生はしゃがんだまま俺の顔を見つめていた。
眼前に迫る先生の顔に俺は少し動揺しながらも薄眼で彼女を見つめる。
先生はしばらく俺の顔を見つめていたが、不意に微笑むと手の甲で俺の頬を撫でる。先生の暖かい手の感触が頬に伝わる。先生はしばらく俺の頬を撫でたり髪を撫でたりしていたがその手を引っ込めると少し表情を曇らせた。
「ごめんね、先生は不器用だよね……」
先生は何故かそう俺に謝ると立ち上がり、いつものように学校に行く準備を始めた。
「…………」
そんな先生を眺めながら俺は思う。
先生を不安にさせたくない。できることならばすぐにでも進路を決めて先生を安心させてあげたかった。だけど、やっぱり俺には自分の将来のことを考えるような心の余裕はなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
先生の言うように春までの俺は将来に迷いなんてなかった。何て言い方をすると自分に確固とした未来像があるように聞こえるが、実際には周りに流されてなんとなく大学へ行って何となく就職して生きていくのだろうと考えていただけだ。
だけど、今の俺にはなんとなく未来を決めることができないでいた。
そうなった理由はやっぱりわからない。もしかしたら今の生活を手放すことが怖かったのかもしれない。なんとなく進路を決断することは、先生との生活がいつかは終わるという事実を追認することのように思えて俺には嫌だった。
本当に俺はまだまだ高校生だ。これだとただ俺が駄々をこねているだけじゃないか。いや、実際そうなのかもしれない。
だけど、先生がいずれ家を出ていくのはわかりきっていることだし、俺だっていつまでも先生とこんな生活を続けているわけにはいかないのだ。先生には先生の人生があって俺には俺の人生があるのだから。
「行ってきます……」
身支度を終えた先生は独り言のように小さくそう言うと部屋を出ていった。
※ ※ ※
その日の昼休み、俺は再び先生から生徒指導室へと呼び出された。
どうやら今日も先生からの説教が待っているようだ。スピーカーから名前を呼ばれた俺は重い腰を上げてとぼとぼと生徒指導室へと向かう。
ドアをノックすると「どうぞ」と少しトーンの低い先生の声が聞こえる。
ドアを開けると先生は昨日と同じように足を組んで椅子に座りこっちを見つめていた。
「何か用ですか……」
俺はそっけなくそう言うと先生は少しむっと頬を膨らませる。
俺はそんな先生から視線を逸らしながら先生の向かいの椅子に腰を下ろす。
気まずい空気が室内に広がり、しばらく俺も先生は無言のままだった。
もっと素直になれればいいのに。俺はそんなことを考えながら窓の外を眺める。窓の外からは校庭でサッカーをしている男子生徒たちの声がわずかに聞こえてくる。
「近本くん、進路希望調査は出せそう?」
先に声を発したのは先生の方だった。先生の言葉に彼女を見やると先生の顔からは既に怒りの表情は消えており、心配げに俺の方を見つめていた。
「一晩で答えが出るぐらいなら、もうとっくに提出していますよ」
そう答えると先生は「そう……」と小さく呟いた。
そして、またしばらく沈黙が続いた。そして、次に口を開いたのも先生だった。
「白紙で出してもいいよ……」
「え?」
そんな先生の言葉に俺は思わず目を見開く。
「私ね、昨日の夜ゆっくり考えたの。それでね、やっぱり将来のことはゆっくり考えればいいって思ったの。焦って答えを出してもいい答えは出ないと思うから。他の先生には私からちゃんと説明しておくから安心して……」
先生の口から予想外な言葉が飛び出して動揺する俺。そんな俺を見つめながら先生は無理矢理なのかそれとも自然になのか笑みが浮かんだ。
「それとね、近本くんに一つ個人的な報告」
「なんですか?」
「先生ね、家が見つかりそうなの」
「はあっ!?」
唐突にそんなことを言う先生に俺は驚愕する。そして、先生は驚愕する俺に驚いたように目を見開く。
「実は弥生ちゃんのお父さんは不動産の仲介業もやっているの。それでね、弥生ちゃんに頼み込んで初期費用が要らない家賃の安い部屋を探してもらっていたの。そしたら、今はまだ入居中だけど来月には空く部屋を見つけてくれたんだ」
「そ、そうなんですか……」
「私ね、考えたよ。やっぱり近本くんにとって先生がこのまま近本くんの家にいることは良くないなって。先生と近本くんは担任と生徒だし、近本くんが将来のことをゆっくり考えるうえで私がいると邪魔になるよ。やっぱり……」
「…………」
俺は何も言えなかった。
そりゃ、先生が俺に気を遣う気持ちはわかるし、俺だってもしも生徒の家で居候なんてしていたら、すぐにでも部屋を見つけて迷惑を掛けようとしまいと考えるはずだ。
だけど……だけど……言葉で表すことはできないけど、俺はその先生の言葉がショックだった。
「べ、別に俺は迷惑だなんて思っていないです。俺はきっと先生がいてもいなくても将来のことは決められていなかったと思いますし」
と、とっさに嘘を吐く。
が、先生はそんな俺を笑みを浮かべて見つめたまま首を横に振る。
「ダメだよ。だって私と近本くんは先生と生徒なんだもん……」
と、今更そんな正論を振りかざされて俺は何も言い返すことができない。
そんな俺の手を先生が握る。
「近本くん。先生、近本くんには感謝しているし、できるならば何かの恩返しをしようと思っているよ。今まで先生に優しくしてくれてありがとう。先生は近本くんみたいな生徒と出会えて本当によかったと思っているよ」
「…………」
先生はしばらく俺の手を握っていた。が、不意に俺から手を放すと「言いたいことはそれだけ」と立ち上がる。
「貴重な昼休みを邪魔しちゃってごめんね。来てくれてありがとう」
そう言うと俺を置いて生徒指導室を出ていこうとする。
「ちょ、ちょっと待てくださいよっ」
そんな先生を慌てて呼び止める。
先生は俺に背を向けたまま立ち止まった。
「俺はそんなの嫌です。これからも先生と一緒にいたいです」
俺は先生の背中にそう話しかける。が、先生は俺に背を向けたままで振り返ろうとはしなかった。
「ありがとう。先生嬉しいよ……」
先生は俺に背を向けたままそう言うと生徒指導室を出ていってしまった。
※ ※ ※
その日、先生は夜遅くまで帰ってこなかった。放課後に夕食は一人で食べてねと言われていたから知っていたけど、誰もいない部屋に一人きりでいることは慣れているはずなのに、なんだか心にぽっかりと穴が開いたようで寂しかった。
「ただいま……」
先生が帰ってきたのは十一時を過ぎてからだった。
「お、お帰りなさい……」
ベッドで漫画を読んでいた俺は漫画を置いて玄関を見やる。先生は俺の顔を見やると少し気まずそうに俺から目を逸らした。
ベッドから降りるとテーブルの前に腰を下ろしてお茶を飲む。そして、先生を見やる。
「どこかに行ってたんですか?」
「え? う、うん、ちょっとね……」
と、先生は曖昧な返事をする。
「ごめんね、ご飯食べた?」
「え? は、はい、それは大丈夫です……」
先生もまたテーブルの前に腰を下ろすと俺同様にお茶を飲む。俺はそんな先生を眺めながらそわそわしていた。先生を見やる。
「別に言いたくなければ無理に言わなくてもいいですが、どこに行ってたんですか?」
俺がそう尋ねると先生は少し動揺したように目をきょろきょろさせる。
「た、単に同僚の先生とご飯を食べに行ってただけだよ……」
嘘だ。先生の表情からそれがすぐに嘘だとわかった。俺はあえてそれを問いただそうとはしなかったが、先生をしばらく見つめていると先生は不意にため息を吐く。
「やっぱり、先生嘘が苦手だね……」
そう言うと先生はカバンの中から一枚の名刺を取り出してテーブルの上に置いた。
「近本くんに変に勘違いをされるのは嫌だから正直に白状するね。今日はこの人に会ってたの」
俺はテーブルに置かれた名刺に目を落とした。
「これって確か……」
「うん、夏に海で貰った名刺だよ」
やっぱり。
それは先生が夏の日にカラオケ大会に出場したときに貰った名刺だった。名刺にはトリプロという有名プロダクションの名前が書かれている。
「どういう風の吹き回しですか?」
俺がそう尋ねると先生は少し恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「ほら、私、近本くんから昨日、先生が中途半端だって言われたでしょ? それでね、色々と考えたの。せっかく頂いた話だから話だけでも聞いてみようって昼に電話をしたんだ。そしたらさっそく今日話がしたいって言われて……」
「先生、もしかして本気でアイドルに戻るつもりなんですか?」
そう尋ねると先生は笑みを浮かべて首を横に振る。
「そ、そういうわけじゃないよ。だけど、話ぐらいは聞いてみて、私も将来のこと色々考えてみようかなって思ったんだよ。近本くんの言葉のおかげ」
そう言うと、お茶を啜る。
「で、どうだったんですか?」
「うん、プロダクションの人はゆっくり考えてもいいって言ってくれたよ。って言っても限度はあるだろうけど、少なくとも今日明日で返事をしなきゃいけない話ではないみたい」
「そ、それはよかったですね……」
どうしてだ。俺は本当は先生がアイドルになるならば心から応援したいと思っていたはずだ。にもかかわらず、そんな先生の言葉に俺は素直に喜ぶことができないでいた。
どうしてだ。俺は先生がどこか遠くへ行ってしまうことが酷く怖かった。
「そういえば、来週はもう修学旅行だね」
先生は名刺を片づけると、不意に話題を変える。
「そ、そうですね……」
「楽しみだね」
「そうっすね……」
「そろそろ準備しないとだね」
「そうですね……」
それからの会話の間、俺は上の空で先生が何を言っていたのかよく覚えていない。
俺の環境はなにか急激に変わろうとしていた。そして、俺はそのことがどうしようもなく怖かった。今まで当たり前のように存在していたものが消えてなくなることが怖かった。
そして、俺はその恐怖心を払しょくするための解決策が思いつかないでいた。
このままでは先生はどこか遠くへと行ってしまうような気がする。今の俺にはそれがどうして嫌なのかも、嫌ならどうすればいいのかもわからないでいた。
わずかに開いた窓から吹き込む冷たい風は俺の心を冷やしていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます