第214話 許されぬ行い


「はっ」


 空が茜色に染まり始めた頃、キルギス・ハイエンは円形闘技場のある一室のベッドの上で目を覚ました。

 しばし呆然と天井を眺めた後、彼は頬に鈍い痛みを感じながらゆっくりと身を起こす。


「ここは⋯⋯」


 辺りを見回し、ぽつりとキルギスは呟いた。

 いくつも並んだ簡素なベッドに、薬品や包帯が並べられた棚、痛みを感じる頬に手を当てて、治療を施されたのだとキルギスは理解する。

 同時に、シアラ・アーレンスに吹き飛ばされた記憶が蘇った。


「救護室、か⋯⋯」


 俯いて、暗い声をキルギスは漏らした。

 何もできずに敗北を喫したという事実が、彼の心に深い影を差す。不意打ちだったなどとあの少女を責める事はできない。彼女は一切の油断なく相手を仕留めただけで、勝負の最中に動きを止めていたのは自分だ。それに不意打ちでなかったとして、あの攻撃にどう対処できていただろうか。たった一撃で意識を刈り取られてしまったというのに。


 認めるしかない。自分は酷くシアラ・アーレンスに劣っていた。相手にならない程に。


 強くなったつもりだったが、どうやら同時に自分にはどうしようもない驕りがあったらしい。まだまだ未熟にも程があった。


 自身の愚かさに、キルギスは羞恥心すら覚えていた。


 そして、はっと顔を上げる。


「そうだ⋯⋯彼は⋯⋯!」


 カエ・ルーメンスはどうなった。彼も同時にシアラ・アーレンスにやられたのか? 勝負は――


「カエ・ルーメンスなら⋯⋯本戦への出場を決めたよ」


 結果を確認しようと慌ててベッドから飛び出そうとしたキルギスは、その声に動きを止めた。

 同時に、のそりとキルギスの正面のベッドから何者かが這い出るように身体を起こす。自身以外に誰も居ないと思っていたキルギスは、驚き毛布の中に潜り込んでいたらしい人物へと視線を向けた。


 黒みがかった銀の髪に、金に程近い黄色の瞳。可憐な少女にしか見えないその顔は、覇気の感じられない酷く疲れたような表情を浮かべている。


「ミツキ・メイゲツ⋯⋯」


「やあ⋯⋯」


 キルギスが呟くと、ミツキは片手を上げようとする素振りを見せたが、それすらも面倒だったのか僅かに浮いた手は直ぐにベッドの上に落ちる。

 とてもランクAの採掘者マイナーで、名高い『月下美麗』のリーダーとは思えないが、同じ採掘者であるキルギスはミツキがそういう人間だと知っていた。とはいえ、これまで直接話した事はない。


「⋯⋯どうしてここに?」


「観戦していたら⋯⋯疲れたから⋯⋯休ませてもらっていたんだ⋯⋯そうしたら⋯⋯動けなくなって⋯⋯気づいたら⋯⋯こんな時間だ」


「そうか⋯⋯」


 ぽつぽつと、非常に小さな声でミツキはキルギスの問いにゆっくりと答える。

 キルギスはマイペース過ぎるミツキに少々困惑しながらも、先程の彼の発言について訊ねた。今は、それが何よりも重要だった。


「カエ・ルーメンスが、本戦への出場を決めたというのは本当かい?」


「うん、本当⋯⋯だよ⋯⋯圧勝だった」


「そう、か⋯⋯圧勝、か⋯⋯」


 その事実はキルギスにとって絶望そのものだった。頭は真っ白になり、心は砕けそうになる。到底受け止められるものではない。


 自分が足下にも及ばないだろう相手に、カエ・ルーメンスは圧勝したというのか。それは彼との間に遥かな実力差があるのだという事を示し、自分は惨めな敗北者であるという変えようもない現実をキルギスに突きつける。


 戦う段階にすら至らない、完全な敗北。


 あの少女の足下にすら届かないというのなら、カエ・ルーメンスはどれ程の高みに立っていたのだろうか。


 どちらがミーナ・キャラットに相応しいのかなど、比べるまでもなかったのだ。自分が一人で騒いでいただけ。

 彼より自分が優れているなどと、酷い思い上がりだった。


「愚かという言葉では、到底足りはしないな⋯⋯」


 向き合いたくない現実と向き合い、キルギスは自嘲の薄い笑みを浮かべるしかなかった。


 失意の底にいるキルギスに残っているのは、もはや絶対に叶うことのない恋心だけだ。


「彼女を⋯⋯泣かせないで、くれよ⋯⋯」


 せめて、せめてそうならないようにと、キルギスは願う。そう思う事自体おこがましいのかもしれないが、これくらいは許して欲しい。自分にはもう何も残されてはいないのだから。


 キルギスは最後に一度だけミーナの姿を思い出す。しかし、頭の中に浮かんだのはカエ・ルーメンスに向けられた幸せそうな笑顔だった。


「ふ⋯⋯」


 もう一度、しばらく旅に出よう。

 今の自分には時間が必要だ。

 しばらくここで気持ちを整理して――


 そう考えた所で、キルギスは未だミツキが同室に居た事を思い出し、声をかける。


「すまないけど、少し一人にしてくれないかな」


 しばしの間があって、いつの間にか仰向けになっていたミツキは起き上がらずに応えた。


「⋯⋯そうしてあげたいけど、ここは居心地が良いんだ⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯わかった。それじゃあ僕が出ていくよ」


 まあ仕方ないだろう。どこに居ようがミツキの自由で、勝手な頼み事をしたのは自分だ。断られても文句は言えない。

 どこか別に一人になれる場所を探せばいいだけの話しだ。


 そう思いながらキルギスは重い腰を上げる。


「それに、君に伝えないといけない事がある」


 そして救護室を出ようとドアノブに手をかけたところで、背後からミツキに再度声をかけられた。


 伝えないといけないこと⋯⋯?


 開けようとした扉を閉じ、キルギスは振り返る。


「シアラ・アーレンスは、カエ・ルーメンスの妹だ」


 ミツキは気怠そうに身体を起こしながら、しかし今までの遅すぎる口調とは違い、やや力の込められた声でそう言った。

 キルギスを見る目も、先程までとは異なり眠たそうではあるが真剣味を帯びている。

 窓から差し込む夕陽が逆光となり、彼の顔に影を落としていた。


「妹、だと⋯⋯?」


 どういう事だ。


 キルギスが眉根を寄せ、そう訊ねようとすると、ミツキは彼よりも早く口を開く。


「彼の本名はノイル・アーレンス。『神具』により容姿を変化させ、別人として麗剣祭に出場したんだ」


「ノイル・アーレンス⋯⋯」


 キルギスはその名に聞き覚えがあった。

 『精霊王』のお気に入りで、彼女の婚約者かつ『創造者クリエイター』とも婚約したという真偽不明の噂が流れていた、実在するのかすら疑わしい人物である。


 ミツキが立ち上がり、窓枠に寄りかかりながら言葉を続ける。


「あの二人は最初から手を組んでいたんだ」


「⋯⋯なに?」


「言ってしまえば、完全な不正さ。ノイル・アーレンスという人間が、麗剣祭を勝ち上がるためのね」


 不正⋯⋯だと?


 キルギスはミツキの言葉に愕然とする。


「『黒猫』さんをコントロールし、カエ・ルーメンスに注目させ、他への警戒が薄くなった所をシアラ・アーレンスが叩く。後は二人で激戦を繰り広げたように見せればいい。君は彼らの策に利用されたんだよ。『黒猫』さんへの想いごとね」


 ――キルギスさん、そこまで強い想いがあるのならば、僕と勝負しましょう――


 ⋯⋯確かに、やや唐突にキルギスへと勝負を持ちかけ、麗剣祭への出場を促したのはカエ・ルーメンスだった。


 しかし、では、ミーナを何時間も待たせていたのも、やたら親密に振る舞っていたのも、予選開始前の見せつけるような行為も、全て計算尽くだったと言うのか。自分を意図的に煽るための。


 納得できる部分は多いが⋯⋯。


 顎に手を当てて思案していたキルギスは、ミツキへと向き直った。


「君の言っている事が本当だとして、何故そんな事をした? それに、シアラ・アーレンスの強さは本物だった。僕など利用せずとも予選の突破は容易だったはずだ。そもそも、君は何故そんな事を知っている?」


 同時に不可解な点も多い。


「絶対に失敗したくない計画を実行する際は、保険も含め、あらゆる手を尽くすだろう? 意味があろうがなかろうが使えそうな手は打っておく。誰だってそうするよ。自分もね・・・・


「⋯⋯その絶対に失敗したくない計画とはなんだ」


 ミツキが目を細めた。


「魔王の復活」


「魔王⋯⋯」


「麗剣祭優勝という肩書を使い、友剣の国に取り入った後、勇者の剣から魔王を解放する。それが、ノイル・アーレンスと――『黑狼煙コクエン』の目的だよ」


 『黑狼煙』、その犯罪組織の名は当然ながらキルギスも知っている。ミツキは男性にしては長い、やや乱れていた髪を整えるように片耳にかけると言葉を続けた。


「彼の正体は『黑狼煙』の構成員⋯⋯いや、そのリーダーだ」


「⋯⋯何故、君はそんな事を知っている」


「『月下美麗』――つまり自分たちが元の家名を捨て、オウカ国を去らざるを得なくなった理由⋯⋯それを作った存在が『黑狼煙』だったから、かな」


「ずっと奴らを追っていた、と?」


「ああ」


「周りに協力は求めなかったのか?」


 ミツキはキルギスの問いにゆっくりと頭を横に振る。


「求められなかったんだ。ノイル・アーレンスの王都での噂は知っているだろう?」


「詳しくはないが」


「それは全て事実だ。どうやったのかはわからないけど、『精霊王』や『創造者』をも、彼は既に取り込んでいる。自分たちは『黑狼煙』に決して気取られないように動いていた。もはやどこに潜んでいるかもわからない奴らの仲間に情報が漏れないよう、自分と姉さん達だけで動くしかなかった」


「ならば何故、僕に話す」


 ミツキはじっとキルギスを見つめた後、疲れたように息を吐き、肩を竦めて微かな笑みを浮かべた。


「ノイル・アーレンスを止めるために、一人でも味方が欲しかったのと⋯⋯気を悪くするかもしれないけど、君は利用された事で逆に潔白が証明されたんだ。眠っている時に『黒猫』さんの名を呼んでいたのさえ演技だったのなら、もうどうしようもないけど⋯⋯気絶した振りでないことは起きる前に確認させてもらったよ」


 なるほど、ここに居た本当の目的はそれか。

 キルギスは更にミツキに問いかけた。


「この国にはどうやって入った? 結界は?」


「言ったろう? 彼は『創造者』の協力を得られる」


 確かに、『創造者』ならば結界を無効化する事も不可能ではないように思える。


「『精霊王』や『創造者』ではなく、自身が別人に扮して優勝者になろうとする理由は?」


「採掘者ではない者の方が、より特別視されるだろう? それに元々地位のある者とは別に、新たに権力者を生み出せる」


「⋯⋯『精霊の風』のメンバーは、全員が『黑狼煙』なのかい?」


「そこまではわからない。けど、自分と姉さんたちが見た限りは、少なくとも『黒猫』さんは違うと思っている」


 キルギスを安心させるかのように、ミツキは柔らかな笑みを浮かべた。

 『月下美麗』と『精霊の風』に少なからず接点がある事を、キルギスは知っている。


「だとしたら⋯⋯ミーナさんは⋯⋯」


「ノイル・アーレンスにとってはただの駒だろうね。全くの白という人間も、利用価値がある。ただし⋯⋯用が済めば消される可能性もあるんだ」


 俯いて拳を握りしめたキルギスに、ミツキは力強く頷いた。


「彼女の今の状態は、洗脳に近いものだろう。救うには、ノイル・アーレンスを止めて、『黑狼煙』を潰すしかない」


 そして、懐から何かを取り出すと、掌に乗せてそれをキルギスへと差し出す。


「君は自分から見ても間違いなく強者だ。だからこそこうして声をかけた。けれど、そのままではノイル・アーレンス達には到底敵わない」


 ミツキが取り出したのは、紫色の宝石のようなものが嵌った艶のある漆黒の腕輪だった。

 複雑な模様が彫られているそれを見ながら、キルギスは訊ねる。


「これは⋯⋯?」


「『神具』には『神具』で対抗するしかない」


「⋯⋯つまり、ノイル・アーレンスとシアラ・アーレンスの強さの秘密は、『神具』だということかい?」


「話が早くて助かるよ」


 満足げにミツキは頷く。


「そしてこれは、自分たちが『黑狼煙』を潰す為に集めた『神具』の内の一つだ。着用者の能力を高めてくれる。これがあれば、次は負けないよ」


「⋯⋯⋯⋯」


「無理にとは言わないけど、もし自分たちに協力してくれるのなら、これは君に譲る」


 キルギスへと歩み寄りながら、ミツキはこれまでにない鋭い瞳を彼に向けた。


「このままでは、『黒猫』さんは言いように利用され、弄ばれ、いずれは消される。いや、もっと残酷な目に遭うかもしれない。愛する人を救うためにも、どうか自分たちに君の力を貸してほしい」


 キルギスの両拳に、再び力が込められる。


「屈辱だっただろう? ノイル・アーレンスは君の想いを踏みにじって侮辱したんだ。これ以上彼を許せないだろう? でも君はそれ以上に、彼女がこれ以上穢されるのを見過ごしたくはないはずだ」


 屈辱⋯⋯確かにその通りだ。

 この上ない程の侮辱を受けた。

 キルギスの心にはミツキの言葉により火が灯る。

 そして、漆黒の腕輪へと手を伸ばした。


「そうだ、君は負けてなんかいない。嵌められただけだ。『黒猫』さんは彼のものではない。彼は彼女には到底相応しくないどころか、近づいてはいけない存在――敵だ」


 ミツキがそう言って微笑む。


「共に戦おう。君の敵、ノイル・アーレンスと」


 人は、信じたい言葉を信じるものだ。

 その言に多少の違和感があろうとも、無意識にそれを受け入れ、自分にとって都合の言い方を選ぶ。

 心が弱り、影が差した状態で、それが救いとなる言葉ならばなおさらだ。

 思い込んでしまうのだ、それが正しく間違っていないのだと。それこそが、正義なのだと。


 そんな誰にでもあって当たり前の、責めることのできない弱さを突く、甘い言葉の誘惑に――


「お断りだ」


 この男は負けることはなかった。


 キルギスは、手に取った漆黒の腕輪を――ぐしゃりとあらん限りの力で握り砕いた。

 一瞬、虚を突かれたかのようにミツキが目を見開き、その胴にハイエンは鋭く苛烈な回し蹴りを打ち込んだ。


 僅かにミツキの身体が後退し、その間に、キルギスは拳を握り身体から怒気を迸らせ構えを取る。 


「⋯⋯なん――」


「ふざけた嘘を吐くんじゃないぞ、ミツキ・メイゲツ!!」


 ぽつりとミツキから漏れた声を遮り、瞳をギラつかせキルギスは高らかな声を上げる。


「ああ、お前の言うとおり酷い侮辱だ。これ程の屈辱はない。そんな戯言で! ミーナさんや僕、そしてノイル・アーレンスを貶めた事はね!!」


「⋯⋯⋯⋯」


 歯を噛み締め、キルギスは黙り込んだミツキを睨みつける。

 

「あまり僕を侮るなよ。カエ・ルーメンスがノイル・アーレンスだということ以外は、全て真っ赤な嘘だろう。騙せると思ったのか、恥を知れ!」


 ゆっくりと、ミツキはキルギスの蹴りを防いだ手を下ろし、顔を上げる。その瞳は、背筋が凍りつきそうな程に冷たいものだった。しかし、キルギスの心の炎は、その程度で消えたりはしない。


 許せなかった。この男の行いは、絶対に許せるものではなかった。


「ミーナさんが操られているだと? 彼女はそれ程弱くも愚かでもない!! そんな嘘は彼女の強さ、高潔さへの侮辱だ!!」


 隙きを窺いながら、キルギスは怒りのままに言葉を発する。


「ノイル・アーレンスにしてもそうだ。彼が何故別人に扮していたのかは知らないが――彼は最後、僕へと誠実に向き合おうとしてくれていたんだ!! 彼の瞳は僕を嘲笑うでも、見下すでもなく!! 濁ってはいたがあの瞬間は真っ直ぐに僕を捉えていた!! 妹の行動は彼が指示したわけではないと、僕は確信を持って言える!! それに、彼はミーナさんのお弁当を全部しっかり一つも残さず食べきってみせたんだ!! 僕でも見ているだけで気分が悪くなった量を!! 笑顔で食べきっていた!! いい加減で決して相容れないし普段は卑怯なのかもしれないが、そういう男なんだ!!」


 ミツキは動かない。ただ黙ってじっと無感情な瞳でキルギスを見ているだけだ。


「あの予選で、ノイル・アーレンスを侮辱したのはむしろ僕だ!! 油断した結果彼と戦う事すらできなかった!! そんな僕を被害者のように扱い!! あまつさえ彼を貶めるなど!! 許される行いだと思うな!! 確かにあの予選は真っ当な決闘にはならなかったが、僕とノイル・アーレンス以外に口を出す権利はない!! あれは、紛れもなく僕ら二人の戦いで!! 僕は負け!! 彼は勝った!! それだけの話だ!!」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯はぁ」


 ふと、ミツキが息を吐き、彼の纏っていた凍てつくような空気が霧散する。肩を落としたミツキの表情は、普段の気怠気なものに戻っていた。


 それが、逆にキルギスには不気味で仕方がなかった。


「お前は一体なんだ、ミツキ・メイゲツ。お前の瞳は僕を一切見ていない。それどころか、何もかもを見ていない。人を人として見ていない」


 時間を稼ぐ為にキルギスは言葉を紡ぎながらも、もはやその正体などわかりきっていた。ミツキの発言は嘘ばかりだったが、真実も織り交ぜられていた。だからこそ一応の筋は通っていたのだ。


 おそらくは⋯⋯こいつこそが⋯⋯。


 『黑狼煙』のリーダーであり、友剣の国を滅ぼそうとしている人間だ。


 だが何故、どうしてそんな事になった。いつからだ。いつからミツキ・メイゲツは狂った。


 キルギスにそれはわからない。

 今はそれよりも、どうこの場を切り抜けるかが先決だった。

 事実を友剣の国、それだけではなく各国や採掘者協会に一刻も早く伝えなければならない。

 麗剣祭を中止し、この男を捕らえなければならない。


 ⋯⋯くそ、やはり人払いしているか。


 これだけ声を上げ時間が経っても誰も騒ぎを聞きつけ駆けつけてこないのならば、助けは期待できなかった。

 明らかに、実力はミツキ・メイゲツが自分よりも上だ。逃げる事も不可能だろう。


 ならばどうするか。

 武器もない。


 キルギスがミツキの一挙手一投足を見逃さないようにしながらも、思考を巡らせていると、ミツキは小さな声で呟き出した。


「⋯⋯⋯⋯意思が強いと⋯⋯抵抗される可能性もあるっていうから⋯⋯せっかく面倒な事までしてたのに⋯⋯ノイルへ敵意と憎悪を向けさせて⋯⋯役に立つかもわからないし⋯⋯ああ、簡単に騙されてくれると思ってたのに⋯⋯こんな事なら最初から力尽くで良かったじゃないか⋯⋯これまでは上手くいってたのに⋯⋯面倒くさい⋯⋯けど⋯⋯やれることは⋯⋯やっておかなきゃ⋯⋯ああもう⋯⋯明日までに間に合わせるには⋯⋯魂が砕けるかなぁ⋯⋯やりたくなかったけど⋯⋯都市の中で暴走しないように外に放り出しておいて⋯⋯」


 ぶつぶつとうわ言のように呟いている言葉は、キルギスに向けられたものではなかった。

 そして次の瞬間――


「⋯⋯?」


 声も出せず、ぴくりとも動けず、何をされたのか理解もできないままに、キルギスは床に倒れ込んでいた。


「⋯⋯腕輪じゃなくて、首輪にする? いいんじゃないかな⋯⋯なんでも」


 何者かと話すミツキの声を聞きながら、キルギスは意識を失うのだった。

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