第200話 抗えぬ運命⑤
友剣の国での婚姻――つまり結婚の手続きが非常に容易であることは有名だ。
申請に必要なものは基本的には当事者二人の身分証明書と証人だけで、友剣の国在住ではない国外からの観光客であっても結婚は可能である。
婚姻手続は時間を要することもなく直ぐに済み、結婚許可証さえ受け取ってしまえば、後は国内ならばいつでもどこでも結婚式を挙げる事ができてしまう。
身分や宗教、種族の違いなど一切気にする事もなく、本人達の好きなように結婚してくれて構わない――というよりも、その方が喜ばしい事である、という考えだからこそ、これ程容易に結婚が可能なのだろう。争いを廃止あらゆる垣根を取り払い、平和を愛する多種多様な文化が融和した友剣の国ならではの文化だと言える。
結婚式を挙げる為に友剣の国を訪れる者も多いそうだ。
その思想自体に文句をつける気は一切ないし、煩雑な手続きの必要もなく、国に夫婦として認められる文化は、面倒くさがりの僕にとっては好感が持てる部分だ。
しかしながら、今回に限っては人生の大きな転機と言っても過言ではない婚姻を、なんなら手続きしたその日に行えてしまう友剣の国に文句の一つでも言いたくなってしまった。
友剣の国で発行される結婚証明書は、国外でも有効である。当然、三大同盟国のイーリスト、ネイル、キリアヤムでもその証明書があれば夫婦だと認められるのだ。
つまりだ、既に手続きが済んで結婚証明書を発行されたアリスと僕は、正式に夫婦となった事になってしまう。頭がおかしくなりそうだ。全く知らない内に配偶者ができていた人間など、世界広しといえど中々居ないだろう。頭がおかしくなりそうだ。
当事者(僕)が居なければ手続きは行えなかったはずだが⋯⋯そこは僕そっくりの
とにかく、僕の預かり知らぬところで、僕とアリスは配偶者となっていた。ファミリーネームは両方のものを名乗るつもりらしい。
今後、彼女はアリス・アーレンス・ヘルサイトと名乗るらしく、僕はノイル・アーレンス・ヘルサイトだそうだ。
何としてもこの名が広がるのは阻止しなければならない。
まさかここまでやるとは思わなかった。いや、想定しておくべきだったのかもしれない。何故ならアリスは目的を達するためならば、あらゆる手段を尽くし、決して手は抜かない。欲しいものは全て手に入れようとする。
例えこの行いで周囲から命を狙われようとも、今後一切気を抜けない状況になろうとも、絶対に引かないし取り消さないだろう。それがアリス・ヘルサイトだ。アリス・アーレンス・ヘルサイトの事は知らない。
どうすんだよこれ⋯⋯。
まーちゃんという運命の相手が居るにも関わらず、婚約者が既に二人いて、その上で婚姻した相手も居る。
なんだいこの状況は?
ちょっと自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
しかもそのクズはこれまた別の女性との婚約を賭けて、至極真っ当⋯⋯とは言えないかもしれないが、純粋で一途で真っ直ぐな男性と戦う事になっているし、状況的に負けるわけにはいかないので負ける気もない。
加えて、更に他の女性から告げられた想いを保留してくれるよう頼んでいる。
なんだいこの男は?
頭がおかしいのかな?
何をどうしたらそんな外道な行いができるのか、僕には僕の事がもうわからない。どうしたらいいのかももうわからない。
果たして僕が⋯⋯あまりこういう言い方は良くないが、一人を選んだとして意味はあるのだろうか。ないような気がしてきた。
ノイル・アーレンスとは一体何なのか。
僕と僕にはどうやら大きな乖離があるようだ。
だって僕ならこんな状況には絶対にならない。だから多分僕は僕じゃないんだ。
そうか、そういう事だったのか。
僕じゃなくて全部ノイル・アーレンスってやつのせいなんだ。あと『魔王』。
なんだ、安心した。
つまり僕は悪くないんだな。
くそぅ! ノイル・アーレンスとついでに『魔王』め!
絶対に許さないからな!
「お兄ちゃん⋯⋯それは何を考えてる表情なの⋯⋯?」
世界の汚点を拭い去る事を考えていたら、眉根を寄せた薄目のテセアにそう訊ねられた。しまったな、ノイルという巨悪のせいで少し怖い表情になっていたのかもしれない。
僕はテセアにクールな笑みを向けた。
「この世の悪についてだよ」
「どうしたの急に」
テセアが僕の頬をぺちぺちと叩いてきた。大丈夫だよテセア、僕は正気だから。正気じゃないやつはノイル・アーレンスってやつだ。あと『魔王』。
「というか、何でテセアは当たり前のように居るのかな?」
僕が今居る場所は、友剣の国にはそこら中に建っているという結婚式場だ。その中でもここは比較的に小さなものらしく、こじんまりとした一室には、両開きの扉から続く中央の赤い絨毯の敷かれた通路を挟んで、左右に長椅子が等間隔で並べられており、扉から見て一番奥のちょっとした壇上となっている所に僕らは立っていた。
すぐ側の壁には大きな窓が取り付けられ、そこからは整然と整えられた式場の庭が見渡せると同時に、夕陽がたっぷりと差し込んでいる。
壇上へと続く階段には精緻な細工が施されたアーチが立っており、天井からはきらびやかだがどこか素朴さも感じるようなシャンデリアが下がっていた。
まあ、小さな式場だ。それ以外の感想はない。様式は多分イーリストのものだろう。そういえば僕は、誰かの結婚式など参列した事がないので詳しくはわからないが。
アリス程の女性が結婚するともなれば、大きなニュースになるだろうが、その辺りは一応配慮してくれたらしい。これは公にはならない秘密の結婚式というわけだ。
アリスは「まあまたその内でけぇのを改めて挙げりゃいい」と言っていたが、結婚式とはそう何度も行うものなのだろうか。いや、別に何度やってもいいと思うけど。当事者双方の合意さえあれば。当事者双方の合意さえあれば。
「私が立会人だから」
「なるほど」
ノースリーブの黒のドレスに、白いボレロを羽織ったテセアは、楽しくなったのか相変わらず僕の頬を軽く優しくぺちぺちと叩きながら、屈託のない笑みを浮かべた。
「こいつめ」
「ひゅへへ」
僕は愛らしい妹の頬をお返しにぐにぐにと引っ張る。
このドレスは以前服を揃えた時に買ったものだが、テセアは嬉々とした笑顔で旅の荷物に詰め込んでいた。そんなにかさばる物を持っていく必要があるのかなと思いつつも、うきうきしていたテセアが可愛かったので何も言わなかったが、止めるべきだったか。
おそらく、イーリストを出る前からアリスとテセアの間では打ち合わせが済んでいたのだろう。いや、可能ならば程度の計画だったのかもしれない。『魔王』の一件もあったため、半ば強引に実行したのだと思う。
ぺちぺちぐにぐにとしばらくの間お互いの頬を弄り合い、満足した僕らはどちらからともなく手を離した。
「⋯⋯テセアは、何かおかしいと思わないの?」
「強引だとは思うし、この先大変だとも思うよ」
肩を落として訊ねると、テセアは困ったように笑いながら答える。流石テセアはよくわかってらっしゃる。
「でも、アリスとの結婚は大賛成だし、お兄ちゃんも幸せになれると思うから。それに、お兄ちゃん相手ならこれくらいはしないと」
ダメだ、この子は本気で僕の幸せを願ってくれている。そして、アリスに懐きすぎていた。
アリスとの結婚が必ず僕の幸せに繋ると信じ込む程には、アリスに懐柔されてしまったようだ。まあテセアにとって初めての友達で、頼れる相手だったのだから仕方ないところはあるが⋯⋯。
「これでプレゼントも渡せるね」
「あ、はい」
ダメだ、もはやテセアは僕の味方であって味方ではない。僕もこの笑顔に何も言えない。
かといって他に助けは――
「⋯⋯⋯⋯」
僕は式場を改めて見回し、全てを諦めるしかなかった。
来賓席には既にびっしりと黒スーツの集団が着席しているからだ。失礼な言い方だが、一体どこから『
長椅子に座りきれない人達は、とにかく空いている場所に立っている。人口密度と圧が凄かった。
何の決まりなのか相変わらず皆サングラスをかけているが、その目が期待や興奮で輝いているのがわかるからすごい。というか何で皆さんお喋りしないの? 無言で視線を注いでくるのやめてください。
当然のように壇上に最も近い最前列の位置には、一号さんが涙をハンカチで拭いながら腰をおろしている。僕をタキシードに着替えさせている時から既に彼は泣いていた。一号さん――本名はべステケットさんと言うらしいが、彼は一体何なのだろうか。どんな立場でアリスを見ているのだろうか。一つわかるのは、彼はあまりにもアリスに対して過保護過ぎるという事だけだ。
タキシードに着替えさせられている時も、「アリスちゃんを泣かせるような事があれば、許さない」とドスの利いた声で言われ、泣きたいのは僕だった。
泣いているのは彼だけではない、黒スーツの集団は多くの人が時折、サングラスの下をハンカチで拭っている。感極まり過ぎていて怖い。
これはもう逃げる事など絶対に叶わないだろう。逃げたら間違いなく粛清されるし、逃げる隙間がない。怖い。
僕はそっと客席の方から顔を逸らし、無心で大きな窓の外を見つめる。夕陽が目に痛かった。
『新婦、入場』
と、その時室内に厳かな声で謎のアナウンスが鳴り響いた。仕込みが凄い。
黒スーツの集団が一糸乱れぬ動きで式場の入り口の扉の方を向く。よく仕込まれている。
だらだらと冷や汗を流しながら扉を見つめていると、ゆっくりと両開きの扉は開かれた。
「⋯⋯⋯⋯」
そして――美しいウェディングドレスを纏いブーケを抱えたアリスが、新二号さんに付き添われ、現れてしまった。
巻き起こる拍手、拍手、拍手、拍手。
黒スーツの集団は手がちぎれるのではないかと思う程の勢いで、それでいて騒がしくなり過ぎないようにゆっくりと歩みを進めるアリスへと、万感の想いが込められているかのような拍手を送る。そこに堪えきれなかったのか、静かに待機していた皆の嗚咽が時折混じっていた。
感動的な場面なのだろう。きっとそうなのだろう。この結婚式に双方の合意があれば。双方の合意があれば。
アリスも皆の前なので、ぶりっ子モードなのは雰囲気でわかるが、しずしずと壇上へと歩みを進めている。僕はもう、汗でシャツがべっとりだった。今この瞬間が夢であってほしい。早く覚めてくれ。
しかし、僕の懇願も虚しく、目が覚めることもなく、新二号さんに連れられたアリスは、僕とテセアの前に辿り着いた。
「アリスちゃんを⋯⋯ゔぇぇ⋯⋯たのみまずぅ⋯⋯」
もはや号泣している新二号さんは、僕にアリスを託すと壇上からおり、空けられていたべステケットさんの隣に座る。ぽんぽんと肩を叩かれ、二人は号泣しながら頷き合っていた。僕も泣いていいだろうか。
「お兄ちゃん」
「あ、はい」
二人をぼんやりと眺めていた僕は、テセアに囁かれてはっと意識を戻しアリスに向き合う。
彼女はヴェールの下で、穏やかな笑みを浮かべていた。
僕らが向き合った事を確認したテセアは、満足そうに頷く。
まずいぞ、式がつつがなく進行している。
「この場に、私たちは愛を祝福するために集まりました」
テセアの言葉に、再び会場からは拍手が起こる。もう止められない。
「愛し合う二人を愛する皆に見守られ、今日この日、この場所で、二人は結ばれます」
くそ、それはおかしいと言いたい。言ってしまいたい。言うか、言ってしまうか。
「テセア、ちょっと――」
「ノイルくん」
待ったをかけようとした僕の言葉を遮ったその猫なで声に、ぞわっと背筋に寒気が奔った。
恐る恐るアリスへと視線を戻せば、彼女は頬を染め潤んだ瞳で、微笑んでいる。
僕の知らない顔に、知らない呼び方。違和感が物凄いが、黙れと言われているのははっきりとわかった。
「アリスちゃんね、今、とーっても幸せなの」
これ以上何もさせないためなのか、アリスは順序や礼法など無視して、本題へと直行した。いや、友剣の国での結婚式に決まりなどないのだが。
「初めて会った時は、あなたのことをこんなに好きになるなんて、思わなかった」
「あ、はい」
「でもね、今はこう思うの」
「あ、はい」
「あなた以外ありえない。あなたを絶対に離したくないって」
「あ、はい」
脅しかな?
「アリスちゃんは創人族で、色んな物を創ることができるけど」
「あ、はい」
「その中でも一番の傑作は、ノイルくんと間に生まれた――愛だよ」
「なるほど」
アリスのあからさまに狙いすぎた発言に、会場は割れんばかりの拍手に満たされた。アリスは照れたように「えへへ」と笑う。
この世界はきっと狂っている。
「ノイルくんも、幸せ感じてくれてる?」
一斉に拍手が収まり、会場中の視線が僕へと集まった。僕はごくりと生唾を飲み込む。
静まらないでよ。盛り上がっててよ。
「⋯⋯⋯⋯そうですね、僕も何でこんな事になったのか、本当にわからないよ⋯⋯」
脱水症状になるのではないかと思うほどの汗を流しながら、僕は肯定したようでしていない言葉を震える声で返すしかなかった。
「えへへ、嬉しいなぁ」
しかし絶対に僕の言葉の真意を理解しているアリスは、わざとらしく一際大きな歓喜の声を上げる。再び盛大な拍手が巻き起こった。
「これから、一緒に歩んで行こうね」
「もう僕はついていけてないけど」
「そんなことないよぉ。アリスちゃんとノイルくんは常に手を取り合うの」
「ははっ、引っ張られすぎて手がちぎれないようにしないと」
「そうなったら、アリスちゃんがまた手を創ってあげるぅ」
「それなら安心だぁ」
アリスは蕩けるような笑みを浮かべて恐ろしい事を言った。僕は笑うしかなかった。
絶対に逃さないという、強い意志をひしひしと感じる。
「二人の、意思の確認は済みました」
完全に食い違っているが、テセアは若干引き攣ったような笑みでそう言った。頑張っているようだが、僕にはわかる。しかしもはや完全にアリス派のテセアは、ここまできたら結婚式を完遂させるつもりらしい。後でもう一度頬をぐにぐにしてやろう。
「それでは――誓いのキスを」
絶対に後でもう一度頬をぐにぐにしてやる。
僕はそう思いながらテセアヘと抗議の目を向けたが、彼女は既に瞳を閉じていた。
キス、キスとは?
いや、結婚式だからこうなる事はわかっていた。しかしこれはもしかして、僕からする流れなのだろうか。する流れだよね。
相変わらず多量の汗を流しながら、僕はアリスへと向き直る。彼女は動くことはなく、期待するようなあざとい表情で僕を待っていた。
心臓がうるさい程に鳴っている。でも、ロマンチックな感じのやつではない。純粋な焦りから来るものだ。
黒スーツの集団は、じっと躊躇う僕を見ており、あまり時間をかけるのもまずい。この人たちに不信感を抱かれてしまえば、僕は今後夜道を歩けなくなる。
焦りに焦り、悩みに悩んだ僕は、周囲に気づかれないよう一つ息を吐き出して、アリスの顔にかかっているヴェールを捲った。
「⋯⋯⋯⋯恨むよ」
そして、アリスだけに聞こえるよう、失礼にも程があるが小さな声をかける。これくらいは言ってもいいだろう。
「クヒヒ、もう諦めとけ」
しかしアリスは気分を害した様子もなく、囁くような声で僕にそう返した。
「大人しく、アリスちゃんだけのもんになりやがれ」
悪戯っぽくそう言って瞳を閉じたアリスに、僕はもう一度小さく息を吐いて、ゆっくりと顔を近づける。
そうして、いつの間にか目を開いてワクワクしたようにこちらを見ていたテセアと、黒スーツの集団にガン見されながら、アリスと僕は短い口付けを交わすのだった。
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