第132話 夢を現実に


「ノイルさん」


「あ、はい」


 なんとなく、いや間違いなくこうなる気はしていたが、僕は案の定普段『六重奏セクステット』の皆が過ごしている世界へと来ていた。


 ずっと呼びかけられているような感覚はあったからね。なんなら昨晩からあったよ。でもほら、昨夜は応えられるような状況じゃなかったからさ。いや別にやましい事をしていたわけじゃないんだけどね。タイミングってあると思ってさ。無視してたわけじゃないんだ。タイミングをね。タイミングって重要だからね。


「すいませんでした」


 僕はいつも通り池を囲んで座っている皆に、椅子から降りて誠意を込めて謝罪する。もちろん〈土下座キッスザグラウンド〉でだ。


 皆が怒っているかはわからないが、意図的にここに来ないようにしていたのは良くなかっただろう。というか、魔法士ちゃんの声が冷たくて怖かった。氷の魔法かな?


「そんな事はしなくていいよノイル。別に自分たちは怒っていない。話をしたかっただけだ」


 苦笑するような変革者の声に、僕は恐る恐る顔を上げ、改めて皆を見た。

 正面の変革者から時計回りに、守護者さん、狩人ちゃん、僕、魔法士ちゃん、馬車さん、癒し手さんと、席の位置に大きな変化はない。

 魔法士ちゃんと馬車さんが入れ替わっているのは、多分無理矢理魔法士ちゃんが席を交換したのだと思う。


 とりあえず、僕は自分の席に腰をおろした。


「ええ、怒ってません。たとえ半獣人ハーフの女と一晩過ごそうが、ノエルとかいう女と一晩過ごそうが、怒ってませんよノイルさん」


 魔法士ちゃんがにこりと微笑み、僕は固まった。

 あ、やっぱり知ってるんですね。ノエルの件はともかく、ミーナのこともそういえばソフィと話したからね。普段皆がどこまで僕の行動を把握できるのかは知らないが、見事にバレてるわこれ。


「私は寛容ですから、このくらいじゃ怒りません。ノイルさんのせいじゃありませんしね」


 ははっ、嘘だぁこいつめ。

 だって声が冷たいよ?

 突き刺ささってくるよ?


「でも、気をつけてくださいね? 私とノイルさんはもう恋人同士なんですから。いくら私でも怒っちゃいますよ?」


 いつの間にそうなったんだろう。この世は不思議だなぁ。

 僕の知らない間に恋人ができちゃうんだから。僕にはもうまーちゃんという恋人がいるのにね。


「あらあら、余裕のない女はついに妄想と現実の区別までつかなくなったのかしら。本当に哀れねぇ」


 癒し手さんが温和な口調で棘しかない事を言った。魔法士ちゃんがゆっくりと癒し手さんの方を向き、二人はにこやかな笑みを交わす。

 間に挟まれている馬車さんが、天を見上げていた。


「いえ、事実ですよ? だって私はノイルさんに好きって言ってもらいましたから」


 言って⋯⋯言ったな。

 僕もだよって反射的に応えただけだが、言ったな。


「それが? 私もよく言ってもらったわよ?」


 僕が鼻水垂らしてた頃にね。思春期に入った僕はスンってしてたよ。まあ決して照れ始めたわけじゃなく、クールな男になったからだけどね。


「大好き大好き、結婚するっていつも言ってくれたわぁ」


 だからもうやめませんか癒し手さん。

 僕スンってなったじゃないですか。途中からスンってなったでしょ。

 恥ずかしいので本当にやめてくださいお願いします。


「はぁー」


 頬に手を当ててうっとりとした笑みで、僕の恥ずかしい思い出を語っていた癒し手さんに、魔法士ちゃんがこれみよがしに呆れたような息を吐き出し、心底馬鹿にするように肩を大きく竦める。


「そんなノイルさんがまだ性欲も知らないような頃の思い出を持ち出すなんて」


 性欲とかいうのやめない?


「どっちが余裕のない女なんですかね」


 魔法士ちゃんはしたり顔で目を閉じ、ゆっくりと頭を振る。


「というか、それって洗脳みたいなものじゃないですか? まだ無垢なノイルさんに擦り寄って自分を擦り込んで、やってることが犯罪じみてません?」


「そんな考え方しかできないなんて、可哀想ね。あなたの思考が犯罪者じみてるだけでしょう?」


 すげぇや癒し手さん。

 なんでそんな冷静に切り返せるんだ。


「わ、私も、好きって言われたことくらいあるから! それくらいで何よ!」


 すげぇや狩人ちゃん。

 ここに割って入るんだ。


 でも、僕は知ってるよ?

 狩人ちゃんが隣でずっとぶつぶつ「大丈夫、怖くない怖くない」って小さな声で勇気を奮い立たせていたのを知ってるよ?

 二人のやり取りちゃんと聞いてなかったね?


 今最悪のタイミングだったんだこれが。


 癒し手さんと魔法士ちゃんが、威勢よく立ち上がった狩人ちゃんにゆっくりと笑みを向けた。


「ひぅ」


 その圧に、せっかく振り絞ったのであろう狩人ちゃんの勇気は一瞬で霧散したらしい。

 精一杯の強がりでクールな表情をしていた狩人ちゃんは、すぐに涙目になった。

 膝が震えている。


「狩人ちゃん、今ね、私たちは大人同士で真剣なお話をしているの。だから悪いのだけど、大人しく座って待っていてくれるかしら? いい子だから」


「わ、私子供じゃないもん!」


「良かったね狩人ちゃん。好きって言ってもらえて良かったね。嬉しかったのかな? だから調子に乗っちゃったんだよね。わざわざ立ち上がっちゃってかわいいね狩人ちゃん。あざといね。でもそれただの社交辞令だと思うよ? なんで喜んじゃったの?」


「なんでそんなことゆうの?」


 やめなよ。


 お願いだからやめてあげて。

 もう泣いてるから狩人ちゃん。崩れ落ちちゃったから狩人ちゃん。

 恐怖で幼児退行したみたいになっちゃってるから。


「ひっ⋯⋯ぅ⋯⋯ぅぅ⋯⋯ひんっ⋯⋯」


 狩人ちゃんはその場にへたり込んで、まるで小さな子供のように両手で涙を拭っている。

 これは立ち直るまでにしばらく時間が掛かりそうだ。

 背中を擦ってあげたいところだが、今動けば絶対に事態は余計に悪化する。


「はぁ⋯⋯まったく。いいですか? 私がノイルさんに向けられた好きは、自称余裕のある女さんや、お子ちゃまに向けたものとは違うんですよ」


 一つ息を吐き出した魔法士ちゃんが、得意気な笑みを浮かべてそう言った。そして、恍惚としたような表情に芝居がかった仕草で両手を広げる。


「だって、ノイルさんは私の愛の告白に真剣に応えてくれたんですから!」


 そうだったかなぁ⋯⋯。

 もっと軽い感じじゃなかったかなぁ⋯⋯。

 最低かもしれないが、少なくとも僕はそんなつもりではなかったなぁ⋯⋯。


「ね! ノイルさん!」


「いや⋯⋯」


「ほら! 聞きましたか!」


 何をかな?

 僕はまだ何も言ってなかったよ魔法士ちゃん。


「私たちは愛し合っているんです!」


「いや⋯⋯」


「愛し合っているんです!!」


 どうしたもんかなこれ。

 癒し手さんももう若干引いてるんだよね。力技がすぎるよ。


「愛し合って――」


「あーわかったわかった。もうわかった。認めた。お前たちは結ばれたんだな。兄として祝福するわおめでとう。わかったからそろそろ本題に入ろうぜ」


 と、遂に耐えられなくなったのか、天を見上げていた馬車さんが片手を額に当てながら暴走する魔法士ちゃんを止めに入った。


「お兄ちゃん口臭いよ?」


「臭くねぇよ!」


 そんな彼に、魔法士ちゃんは不満げな瞳を向けて辛辣な言葉を言い放ち、馬車さんは声を張り上げて立ち上がる。


「うわ⋯⋯」


「おいやめろ顔を顰めんな。ふざけんなよお前おい。そのリアクションやめろおい」


「ごべんね」


「鼻をつまむんじゃねぇ!」


「ふ⋯⋯」


 と、これまで腕を組んで静観していた守護者さんが、ふいに小さな笑い声を漏らした。

 皆の視線が一斉に彼に集まる。狩人ちゃんだけは未だ泣いているが。


「⋯⋯今笑ったか?」


「いや」


 馬車さんが問うと、守護者さんは至って真面目な顔で短く応えた。

 でも、絶対に笑ってたと思う。だってスンってしてるもんあれ。笑ってしまったの取り繕ってるよあれ。


「ごめんなさい。お兄ちゃんの口が臭いせいで⋯⋯」


「臭くねぇし意味がわからねぇ!」


「ふ⋯⋯」


 再び、守護者さんから笑い声が漏れた。いや、今明らかににやついてた。

 

「笑ったな?」


「いや」


 流石にもう無理ですよ守護者さん。笑ってましたよあなた。皆ばっちり見てましたよ。狩人ちゃん以外。

 馬車さんががりがりと頭をかき、一つ息を吐いた。


「はぁ⋯⋯別に隠さなくていいって。たまに変にツボに入るよな、お前」


「息吐かないでお兄ちゃん」


「しつけぇな!」


「ふ、ふふふ⋯⋯ふはっ、はははははっ!」


 とうとう守護者さんは堪えきれなかったようで、大声を上げて笑い出した。

 いつも冷静で落ち着いている彼のこんな表情は珍しい。余程口臭いネタが面白かったのだろう。


 あの雰囲気の中、守護者さんが空気を読まず笑ってしまったのは意外だが、そのおかげで張り詰めていた空気は霧散した。

 彼の豪快な笑い声につられて、皆の顔にも笑顔が浮かぶ。


 一人よくわかっていない様子の狩人ちゃんも、きょろきょろと皆の顔を見回し、よくわかっていないだろうが楽しげな雰囲気だと思ったのか、安心したように花が咲くような笑みを浮かべた。


 しばしの間、僕らの間では笑みが交わされ、そして――


「ははっ! ぶはっ! はははははっははっはひはははははははッ!」


「いや流石にそこまで笑われると引くわ」


 一人いつまでも笑い続ける守護者さんに、皆が真顔になるのだった。







「さて、ノイル。俺たちが言いたい事はわかっているな?」


 一人本当に長い間笑い続けていた守護者さんが、嘘のように鋭い瞳を僕に向け、そう問いかけた。

 なんだろう、真面目な話をしなければならないのは間違いないのだが、先程の大笑いする彼がどうしても頭から離れてくれない。

 いまいち集中できないのは、僕のせいなのだろうか。それとも彼のせいなのだろうか。


 まあしかし⋯⋯皆の気持ちは理解しているつもりだ。気を引き締めて話をするとしよう。


「うん、わかってるつもりだよ」


 だから僕は、無理矢理でも気持ちを切り換えて守護者さんに頷いた。


「ノイルさん、私たちの命は、一度終わってしまったようなものです」


 魔法士ちゃんが胸に手を当てながらそう言った。


「今こうしていられる事自体が、この上ない幸運なんだよ」


 変革者が憂いを帯びた笑みを浮かべる。


「お前が俺たちの事を考えて、身体を用意しようとしてくれてるのは嬉しいけどな」


 馬車さんが頭の後ろで手を組み、空を見上げた。


「私たちは、これ以上は望まないわ。いえ、これ程心地のいい居場所はないのよ? これ以上ないくらいに」


 癒し手さんが瞳を閉じ、言い聞かせるようにそう言った。


「だからノイル、危ないこと、しないでもいいんだよ?」


 狩人ちゃんが目に涙を溜めて、そう訴えてくる。


「と言っても、お前はやるのだろう」


「うん」


 守護者さんの言葉に、僕は再び頷いた。

 迷いはなかった。


「⋯⋯馬鹿だな、お前」


 馬車さんが仕方なさそうに笑う。


 そうなんだ、僕は馬鹿なんだ。馬鹿でわがままで、やはり皆とちゃんと一緒に生きたいと思ってしまうから、自分勝手に皆の身体を用意するよ。


 ここでの出来事を、現実に帰れば僕は忘れてしまう。感覚は残っていても、はっきりとは思い出せない。

 他愛のない会話も、触れ合った感触も、皆と過ごすこれからの全ての時間を、僕は覚えていたいのだ。夢の中だけの、夢のような時間を、僕は現実にしたい。


 それに、今はこうやって皆に会いに来ることができているけど、何かふとしたきっかけで、それが叶わなくなってしまう可能性もあるだろう。


 皆が僕の中に居てくれるのは、途方もない安心感があって心地いい。けれどやっぱり僕は、皆のためにも、僕のためにも、僕の中から皆を解放してあげたいのだ。


「どちらにしろ、アリスちゃんの事もあるしね。僕は【湖の神域アリアサンクチュアリ】にいかなきゃならない。だから、いつものように力を貸してほしい」


 とはいえ、結局は皆を解放したいという自分勝手なわがままに、皆を付き合わせてしまうことになるが――


「当然です」


「任せておけ」


「仕方ない子ね、ノイルちゃんは」


「私、頑張るから!」


「存分に自分たちの力を使ってくれ」


「俺たちは、一蓮托生だからな」


 力強く、『六重奏セクステット』は頷いてくれた。


「ありがとう」


 頼もしい皆の顔を見ながら、僕はふと思い出したことをなんとはなしに尋ねてみる。


「そういえば、店長は何を皆に話してたの?」


 訊いていいものかはわからないが、あの時店長は『六重奏』の皆と何を話していたのだろうか。


 途端に皆の顔から笑顔が消え、どこか神妙な面持ちになる。そして、魔法士ちゃんがぽつりと呟いた。


「それは⋯⋯あの女に、直接訊いてください」


 瞬間、目の前の景色が一瞬揺らいだ。


 ――話すかは、わかりませんけど――


 その声を最後に、僕の意識は現実へと戻っていくのだった。

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