第120話 あいいろ通り


 商業区南にある宿場街は、様々な酒場や宿屋が多く建ち並ぶ場所だ。多くの観光客が訪れるイーリストは宿泊施設も充実しており、安価に泊まることのできる宿から、高級宿まで非常に豊富な種類が所狭しと軒を連ねている。


 僕が『夜花苑ナイトガーデン』からノエルを連れ出したのは、丁度宿場街の辺りだったらしく、路地から一歩通りに出れば、そこは夜にも関わらず人で賑わっていた。

 星湖祭が近いため、イーリストを訪れる観光客が増えているのだろう。宿場街もこの時期は一年でも一番の繁忙期のはずだ。


 そんな人混みの中を、ノエルは僕の手を引きながらすいすいと歩いていく。時折通った後や周りに霧吹きで何やら液体を噴射しているが、一体何をしているのだろうか。

 僕は何処に連れて行かれるのだろうか。


「⋯⋯ノエル、それ何?」


 恐る恐る、僕はもう何度目かの霧状の液体を噴射したノエルに尋ねてみる。

 すると、彼女は笑顔で答えてくれた。


「消臭剤」


「あ、はい」


「追ってこられないようにね」


「あ、はい」


 それを、僕に吹きかけるだけで問題は解決しない? お風呂とか行く必要ある? ないよね?

 ていうか匂いで追ってくるって野生の獣じゃないんだから⋯⋯あれ、これ最近全く同じ事思ったな。


 そもそも僕にはそんなに匂いがついているのだろうか。自分の腕を持ち上げて嗅いでみるが、よくわからなかった。確かに若干香水のような匂いがするような気もしないでもないが、こんなものでバレるとは思えない。というか、こんな人混みを歩いていたら色んな匂いつくだろうし⋯⋯もう帰らない?


 嫌な予感しかしないんだよね。

 そんなに匂いがあれなら、僕その辺りの水路に飛び込むからさ。


「⋯⋯そういえば、よく僕の居場所がわかったね」


 一体どうやって突き止めたのだろうか。フィオナやエルと違い、ノエルに僕の居場所がわかるような能力はなかったはずだ。⋯⋯考えていて頭がおかしくなりそうだが、なかったはずなのだ。

 だというのに、水上を移動していた僕たちをどうやって特定したのか。今後のために聞いておく必要があるだろう。まさか遊覧船全てをチェックして回ったわけでもないだろうし。


 ノエルは振り返らずに答える。


「匂い、かな」


「あ、はい」


 僕さぁ⋯⋯そんなに臭い? おかしくない?

そんなに臭い?


「《深紅の花嫁ブラッドブライド》を使うと、血の匂いに凄く敏感になるんだよね。特にノイルのは、ある程度は離れてても居場所がわかるよ。まあ元々それも計算に入れてたし」


「あ、はい」


 そうなんだ。ノエルはすごいなぁ。


「ちなみに、ある程度って⋯⋯どれくらい?」


 尋ねるとノエルは振り返り、口の前で指を一本立て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「ひ、み、つ」 


「あ、はい」 


 有効範囲を教えてくれる気はないらしい。


 エルの精霊、フィオナの《ラヴァー》、そしてノエルの《深紅の花嫁》。

 シアラの《絆ぐ鎖トワノキズナ》は範囲こそそれ程広くないが、射程内であればいつまでも追ってくるし捕まると何故か僕の力では破れない。

 店長は何故か僕の居場所がすぐにわかるし、アリスちゃんの下僕は確定だし⋯⋯改めて考えてみると、僕っておかしな事になっている気がする。


 プライバシー、なくない?


 ⋯⋯決めたぞ、僕は今決めた。

 マナストーンの件が片付いたら、僕はしばらくの間『私の箱庭マイガーデン』の中に閉じこもる。


 ⋯⋯アリスちゃん居るからそれも無理だね。


「⋯⋯ノエル、自由に生きることができるのって、素晴らしい事だよね」


「⋯⋯? うん、そうだね」


「だからさ、忘れないでほしいんだ。自由の大切さを」


「うーん、わかった。ふふ、どうしたの急に」


 どうしたんだろうね。ただ、思ってしまったんだよ。もしかしたら僕にはそれはもう二度と手の届かないものではないのか⋯⋯ってね。

 僕は一人ニヒルな笑みを浮かべ、ノエルに手を引かれ続けるのだった。







 嫌な予感はしてたんだよ。

 嫌な予感はしてたんですよ本当。


 僕は目の前に屹立する建物を見上げながら、どうしたものかと頭を悩ませていた。


 ノエルが僕を連れてきたのは、宿場街でも裏通りと呼ぶべき場所にある宿だった。四階建て程の、漆喰塗りの壁の建物は通りに面した側に窓はなく、代わりにアンティーク調の壁掛けランプが規則的に取り付けられている。入り口は樫の木のアーチ形両開き扉で、扉のすぐ上には謎の彫刻が取り付けられていた。


 一見すれば、普通の建物だ。

 だが、規則的に並んだランプはハート形だし、樫の木の扉にもよく見ればハートの装飾が施されている。そして何より、扉の上に取り付けられている彫刻は間違いなく、ハートだ。ハートの中で、男女が抱き合っているようなデザインである。


 そもそも、この通りは薄暗く、そして男女の連れ合いが圧倒的に多い。周りの建物も殆どが似たようなもの――つまり連れ込み宿ラブホテルだ。

 明らかに他の通りとは雰囲気が違い、決して子供が迷い込んではいけない場所といえばわかるだろうか。


 宿場街にはこういった通りがそれなりに存在するが、大抵の人は婉曲的な言い回しで『あいいろ通り』と呼んでいた。通りの地面も藍色に塗られているため、すぐにわかり、知っていれば誤って迷い込む事はない。

 きっと、ノエルは知らなかったんだな。


「じゃ入ろっか」


「おかしくない?」


 一切の迷いなく手を引こうとしたノエルに、流石に僕は抵抗する。

 この宿を選択するのはおかしいよね。もっと普通の所でもいいよね。なんなら公衆浴場で良かったよね。

 何がどうなったらこんな場所に連れてくるという選択肢になるの? 


「どうかした?」


 なんで、心底不思議そうな顔なんだろう。もしかして僕がおかしいのだろうか。ノエルの表情を見ていると、自分が間違っているのではないかと思えてくる。

 いや、そんなわけがない。騙されるな。これは明らかにおかしい。

 頭を振って正気を保ち、ノエルへと向き直る。


「どうかしたも何も、ここがどういう宿かわかってる?」


「わかってるよ?」


「あ、はい」


 首を傾げられ、僕は額に手を当てた。大きく息を吸って吐き出す。わかってるか。そりゃまあわかってるよな。


「その⋯⋯流石にここに入るのは、マズいと思うんだ」


「どうして?」


「いや、どうしてって⋯⋯ほら、お風呂なら他の宿でもいいし⋯⋯」


「普通の宿だと、空きを探すの大変だよ?」


「なら公衆浴場に⋯⋯」


「そっちも人が多いし、二人で入れないから」


「そっか⋯⋯⋯⋯⋯⋯そっか、じゃねぇ」


 今ノエルは何て言った?

 二人で、入る?

 どういうこと? シアラじゃないんだからそんな事しないよ。


「二人では入らないよ⋯⋯?」


「え⋯⋯?」


 何で、何でそんな悲しそうな顔するの?

 僕は今当たり前の事を言ってるはずなんだ。何も悪いことは言っていない。非常に常識的な対応をしているだけだ。くそ、何なんだ。どうして罪悪感が襲ってくる。この世は不思議だが、負けるんじゃないノイル・アーレンス。


「いや、だって⋯⋯僕たちはそういう関係じゃ⋯⋯」


「私とじゃ、いや⋯⋯?」


 そういうのはずるくない?

 嫌かどうかと訊かれたら、嫌なわけがないもん。僕だって一人の男だし、寂しそうに上目遣いで迫られると嫌だと言えるわけがなくない?

 僕の心が弱いのかなこれ。


「嫌ってわけじゃないけど⋯⋯ほら、その⋯⋯あれが⋯⋯あれして⋯⋯あれだし⋯⋯僕にはまーちゃんが⋯⋯」


「ぷ⋯⋯」


 しどろもどろになっていると、ノエルはくすりと、堪えきれないかのように笑った。


「ふふふっ、冗談。冗談だよノイル。ふふっ

顔真っ赤でかわいいね」


「⋯⋯⋯⋯本当、やめてよ」


 僕は大きく息を吐き出し、肩を落とした。心底安心したが、男心を弄ぶのはやめてほしい。僕はそれ程強い子じゃないんだ。


「ごめんごめん、可愛かったからつい」


 可愛くはない。気持ちの悪い男があたふたしていただけだ。ノエルの感性は少しズレていると思う。

 まあとにかく、冗談なら良かった。

 さっさとこんな場所は離れて――


「それじゃ、入ろっか」


「何で?」


 冗談って言ったじゃん。

 この宿に入ると冗談じゃすまなくなるって。


「大丈夫だよ、普通にお風呂に入るだけだから」


「公衆浴場で良くない?」


「こっちの方がゆっくりできるでしょ?」


 くそ、何を言っても逃れられない。

 僕の手を掴んだまま一向に離そうとしないし、手を振り払って逃げたとしても、ノエルには《深紅の花嫁》がある。

 『夜花苑』で遊んでいたという秘密も握られているし所詮は一時凌ぎでしかない。

 しかも、無理やり逃亡すると彼女が機嫌を損ねる可能性が高く、そうなればこの程度の要求では済まなくなるだろう。


 僕は悩みに悩み――そして折れた。


「⋯⋯わかった。入ろう」


「うんっ」


「ただし、朝言ったように適切な距離は保って必要以上の接触はなし、お風呂に入ったらすぐに出る。それを約束してほしい」


「あの人は適切な距離に見えなかったけど? なんで?」


「あ、はいすいません」


 クールな表情でノエルに言い聞かせていた僕は、すぐに痛いところをつかれ、頭を下げるしかなかった。


「大丈夫だよ、私とノイルの仲だもん」


 そんな僕に、ノエルは全く安心できない事を言って微笑むのだった。







「クソッ! やられたね⋯⋯まさか精霊の監視を抜けるとは思わなかった」


 王都イーリストの上空、そこから眼下に広がる煌々と明かりの灯った美しい街を見下ろしながら、エルシャン・ファルシードは彼女に似合わない汚い言葉を吐いた。


 エルシャンが異変に気づいたのは、入浴を済ませ、いつものように精霊の目を借りノイルを監視しようとした時だ。彼につけていたはずの精霊が、いつの間にか側を離れていたのである。

 精霊はどこかいい加減な思考ではあるが、エルシャンからマナを与えられれば仕事はこなしてくれる。だが今回は、エルシャンからの命――お願いをほっぽり出し、持ち場を、ノイルの側を離れたのだ。


「⋯⋯やってくれますね、お義父様」


 森人族ではなくとも、精霊に干渉できないわけではない。例えば、精霊の嫌う匂いなどを知っていれば、それを纏うことで遠ざけたりすることはできる。しかし、そんな事をノイルは知らないし、エルシャンは絶対に教える気もなかった。ならば考えられるのは、彼を連れ出したグレイ・アーレンスが、意図的に精霊を追い払ったということだ。


 何のためにか――決まっている。男同士でいかがわしいお店に行くためだろう。


 そんな事は、許されない。


 しかし、一度精霊の監視を離れてしまえば、再び精霊たちに呼びかけノイルを見つけるのは殆ど不可能であった。

 彼らに細かい人の見分けはつかない。エルシャン自らがしっかり教え込んだ精霊ならば話は別であるが、大抵の野良の精霊は、「あ、あいつ。あれ? あいつ?」と全く違う人物の居場所を教えてくる。精霊避けを未だ使っている可能性も高い。


 故にエルシャンに出来ることは、自らノイル・アーレンスを探すことだけだった。


「先輩、先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩どこですか先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩わたしの先輩先輩先輩先輩先輩どこ先輩先輩先輩先輩先輩先輩」


 エルシャンから少し離れた位置では、銀翼を生やしたフィオナ・メーベルがまさに血眼になって、眼下の街を凝視し、親指の爪を噛みながらぶつぶつとひたすらに呟いていた。


 あれではいけない。とエルシャンは思う。

 自分が言えたことではないが、完全に冷静さを欠いている。

 まあ、無理もないだろう。ミリス・アルバルマに自慢の《ラヴァー》を破壊されたその心中は察するまでもない。


 いい気味だとでも言いたいところだが、今回ばかりはフィオナの《愛》が破壊されたのはエルシャンにとっても都合が悪かった。


 早くノイルを見つけなければ、愛する彼の身が危険なのだ。


 だが、手かがりがない。用意周到だったのか、屋敷を出てからのノイルの足取りはなかなか掴めなかった。


 行かせるべきではなかった。親子の時間を尊重するべきではなかったのだ。エルシャンは歯噛みするが、今更そう思ってももう遅い。


「⋯⋯⋯⋯シアラ、手がかりは?」


「⋯⋯⋯⋯ない、あっても、お前には教えない」


 静かに上空へと舞い戻った漆黒の巨翼だけを出現させたシアラ・アーレンスに、エルシャンは問いかけるが、彼女は忌々しげに顔を顰めそう言った。


 シアラは先程から度々地上へと降り立ち、そこで《絆ぐ鎖》を発動させている。しかし射程内であれば自動的に対象――ノイルを追う力を持った鎖に今のところ反応はないようだった。


 彼女の魔装マギスは目立つが、シアラの身のこなしと闇夜に溶け込んだその色により、王都は騒ぎにはなっていない。

 いや、いっその事騒ぎを起こすべきかともエルシャンは考える。


 だがしかし、これから先もノイルと過ごしていくためには、下手な事は出来ない。何よりノイルからの印象が悪くなるのは耐えられる事ではない。


 エルシャンは一度頭を振った。


 冷静にならなければ。

 とはいえ、あまりにも見つからなさすぎる。

 ノイルが立ち入るべきではない店はあらかた見て回った。それでも見つからない。

 何か根本的な見落としをしている⋯⋯そんな気がしてならなかった。


 そういえば、地上でノイルを捜索しているノエル・シアルサはどうしているだろうか。

 まあ、一般人と殆ど変わらない彼女の探査能力には、あまり期待はしていないが。

 新しい魔装を発現させたらしいとはいえ、それはあまり使い勝手のいいものでも、特殊な能力があるものでもないと聞いている。

 ただ単純に、身体能力を爆発的に上げるものでしかない。ノイルの血をエネルギーとするそれは、単体では大した力にもならないだろう。


「やはり、ミリスからあの鏡を奪うべきか⋯⋯いや、無理だろうね」


 それは、最も確率の低いやり方だ。

 交渉にも応じてはくれない。


「⋯⋯恨みますよ、お義父様」


 そう呟き、エルシャンはノエルに監視をつけなかった自らの単純なミスに気づかないまま、ノイルの捜索を続けるのだった。

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