第12話 喫茶店
顔に吹き付ける風に多村は目を細めた。時刻は夜の7時になろうとしている。夕飯の献立だろう、どこからか煮物の匂いが漂ってきた。多村も腹は減っていたが、一仕事すませてからだ。
地下鉄の駅に入ると風から解放された。帰宅ラッシュの車内は暖房と人いきれで暑いぐらいだったがコートは着たまま、おかげで顔が火照る。
駅を出るとまた冷たい風にさらされた。顔の熱を冷ましながら、多村は逢友社の稽古場へ向かった。前に来た時より若干時間が早いが、公演に向けて稽古に熱が入っているはず。いなければ日を改めるだけだ。
ビルの前の歩道に手向けられていた花はすでに片付けられ、死の痕跡はなくなっていた。
頭上を見上げると予想した通り、7階の窓に明かりが点いていた。間もなく開演する会田安宏追悼公演の稽古をしているのだろう。今日も事前に連絡していないが、一度来ているから、警戒しているに違いない。それは承知の上で、わずかでもほころびを見つけられればいい。
多村は正面を切って疑問をぶつけようと考えていた。なぜ口論の間もカメラを回していたのか。飛び降りの直前に止めたのはなぜか。この問いに、彼らはどういう答えを返すのか。
そこへ見覚えのある女がビルを出て行った。レンズの大きなサングラスをかけ、黒のロングコートを着たその女は足早に多村の横を通り過ぎた。女は大通りまで歩くと足を止め、左方向を窺っている。タクシーを拾おうとしているようだ。多村は慌てて駆け寄った。
「小林美恵子さんですよね?」
手早く警察手帳を見せた。非番でも警察手帳を持ち歩く刑事は少なくないが多村もその一人で、こういう時に役に立つ。
女はサングラス越しに多村の顔と手帳を確認した。葬儀で見かけた、かつて逢友社に所属した女優、小林美恵子だった。警察手帳を見せた時の反応は動揺か警戒かにわかれるが、小林はどちらかと言えば後者で少なくとも動揺は見られなかった。
「会田さんの件でお話を伺いたいんですが」
手帳を見た時点で想定できたのか、小林は合点がいったように小さく頷いた。
「亡くなられたことに関してお聞きしたいことがあるんです。お時間を頂戴できませんか」
多村は手帳をポケットにしまってそう言った。
小林は袖を擦り上げて腕時計を見た。高級ブランドのロゴが多村の目に入った。
「警察に行くの?」
「お話をお聞きするだけですので、近場で構いません」
「あんまり時間ないんだけど。少しでいい?」
いくらか思案してからそう言った。
断られるのを承知で声を掛けた多村には嬉しい誤算だったが、小林にも会田の死に何かしら思うことがあるのかもしれない。
相手が女優だから相応の店にしたいが時間がないとのことで、角にある喫茶店に誘った。小林は不満を見せることもなく従った。
入店するとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。ここに入るのは初めてだが古ぼけた外観同様、店内も昔ながらの個人営業といった様子でテーブルも椅子も使い込まれたもので、テーブルの上の照明もすすけていた。稽古場のそばだが、小林もこの店に馴染みはないようだ。
女優と会話をするのは勿論初めてでこの先もそうはないだろう。緊張しながら奥の席を選んだ。週刊誌に写真を撮られたらどうしようなどという冗談めいたことも頭をよぎった。
小林はコートを脱いで椅子に座り、サングラスを外した。スレンダーな身体は目を引くが、女優とはいえ美貌を売りにしているわけではなく、間近で見てもとりたてて美人というわけではない。化粧もあまりしてないようで、余計にそう感じた。
テーブルに置かれた灰皿を見て、失礼するわね、と断って小林はバッグから煙草を出して火をつけた。あなたは?と聞かれて、多村は首を振った。
注文を取りに来た店員に、二人ともコーヒーを注文した。
「それで、何を訊きたいの?」
店員の背中を見送ってから小林が言った。見つけたのは偶然で、質問は用意していないが、訊きたいことは山ほどある。
「今日は稽古場に行かれたようですが」
質問をかねた確認をした。
「差し入れを持って行っただけよ。公演が近いし、ああいうこともあって疲れがたまっているころでしょ。甘いものを差し入れただけ」
もともと疑ってはいないが、小林は事件に関わっていない。こうして話を聞いてくれることからもそれはわかる。しかし「ああいうこと」で片づけるあたり、会田の死を淡泊にとらえているようだ。そういえば、葬儀の時も神妙な顔をしていたが涙は流していなかった。
「劇団の方とは交流がおありなんですか」
「今日みたいに時々差し入れしたりする程度よ。OGだから知らんぷりってわけにもいかないから気にはしてるけど、とっくに辞めてるのにいつまでも先輩面されても鬱陶しいでしょう」
小林はそう言って短くなった煙草を灰皿でもみ消した。
「小林さんは、会田さんとは親しかったんですか」
同じ劇団の仲間だから親しいのはわかっているが、実際の仲はどうだったのか。そういう含みを持たせた。
「長い付き合いだからね。仲良くはしてたけど、正直に言って、好きかって訊かれたら微妙なところはあるわね」
小林は苦笑気味にはにかんだ。
「柳田さんとは?」
「私と仲が良かったかってこと?」
その問いの返しに、多村が頷く。
「ヤナちゃん、柳田を嫌いな人ってあんまりいないんじゃないかしらね。優しいし、誠実だし、男らしいし、誰からも好かれた男よ」
そこへ店員がコーヒーを運んできた。小林はブラックで口を付けた。
「会田さんと柳田さんはどういった関係だったんでしょうか」
その質問に、小林は上目遣いを多村に向け、語るのを惜しむようにまたコーヒーを口にした。
「先日、倉本俊夫さんにお会いしてお話を伺ってきたんです」
多村は誘い水のように倉本の名を出した。女優と話すのは初めてだが、俳優とは話したことを思い出した。
「倉ちゃん元気だった?」
小林は返事ついでにそう言ったが、倉本にはあまり関心がないように感じられた。会田と小林は同い年だから倉本の方が年上だが「倉ちゃん」と呼ぶあたりに小林の人となりが出ていた。目上の人間にも遠慮しないタイプのようで、それは刑事に対しても敬語を使わないことからも読み取れた。
「以前同じ劇団に所属していたそうですね。確か『麒麟座』という」
「そう。私たちは麒麟座の仲間で、私と会田とヤナちゃん、柳田は同い年で、劇団に入ったのも同じころ。昔は3人でよく遊んだわ」
懐かしそうに振り返った。
「でも所詮男と女だし。あの二人は子供の頃からずっと一緒だったんだから特別よね。お酒を飲むとよく昔の話を話してくれたわ」
小林は新しい煙草に火を着けた。吐いた煙が天井に上って行った。
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