第65話 テントウムシと希望 ―― 回想 ――

 希美代とジルが帰った後の夕食時。3Dテレビは地味なドキュメンタリー番組を流していたが、伊緒には全く頭に入ってこなかった。


「今日のお客さんは随分と…… かしましかったな」


 いつも通り静かにぽつぽつと喋る父はぽりぽりと小気味いい音を立ててキュウリのみそ漬けをかじっている。


「え、ああ、うん」


 伊緒はアジの開きを箸で突いてはいるが食べる気にはなれない。


「何やら大変なことになっているようだな」


 素知らぬ顔でご飯をかき込む父。


「……いや、そんなこと、ないよ」


 俯き箸を持つ手も止まる。


「……伊緒」


 父は茶碗や箸を持つ手を机に預けると伊緒の方を向いた。


「?」


「何かを、誰かを守りたかったのか」


 伊緒の父は細いが少し真剣な目で伊緒を見つめる。


「!……」


「もしかするとあれか、前うちに来たことのあるアンドロイドのお嬢さんのことか」


「わかる?」


「前に二度ほどうちに来たことがあったな。あんなに浮ついた、と言うか、いや、うきうきしてたのは、お前が小さい時に三人で旅行に行って以来じゃないか?」


「えっ、そう、そうだった、かな」


 父親にまでみっともない姿を見せてしまった事が伊緒には恥ずかしい。


「あれ…… や、あの子は――」


「ん?」


「や、んむ、そうだな……」


 父は珍しく何か逡巡している様だった。そしてようやく口を突いて出た。


「む、まあ、そうだな ――があるのか」


「!」


 伊緒には衝撃だった。一度や二度しかシリルを見たことがない父親でさえシリルの秘密を看破していたとは。これはやはりシリルには人間と違わぬ心があるのだという確証と言える。だがそれと同時に他の大多数からも同じようにシリルの秘密を見破られるリスクもあるという事だ。伊緒は好悪入り混じった複雑な気持ちにさせられる。


「仕事でアンドロイドに接することが多い。感情や人格のインストールされたタイプのアンドロイドでもあそこまでは人間と親しくはなれない」


 伊緒は一瞬で血の気が引く。


「しっ、親しくって、それ一体どうゅぅ……」


 伊緒の声はだんだんと小さくなって、最後はかき消すように消えた。沈黙が流れる。淡々とした3Dテレビのナレーションと黙々と父が噛みしめる漬物の音しかしない。


「さあな」


「う……」


 3Dテレビを見つめ素知らぬ顔で答え食事を続ける父。しかしその細い目は少し笑っていたかも知れない。その素知らぬ顔のまま父は言葉を続けた。


「伊緒、お前にも心がある」


「うん」


 父の言う言葉の意図が分らなかった。その父は相変わらずTV画面に視線を向けたままだ。


「お前の心はまっすぐだ。誰よりもまっすぐだ。希望を捨てずに自分の心を信じろ。進め。前へ。どこまででも進め。お前ならそこへ行ける」


 父のその素っ気ない言葉に目を丸くする伊緒。伊緒は突然両肩を掴まれて、強い力でガクガクと揺すられたような、そんな衝撃を受けた。父はもう何かを見透かしているのかも知れない。伊緒が決意してからまだ数時間しか経ってないのに。

 伊緒は座り直し手を膝の上に置いて父の方を向く。父は不思議そうな顔をして伊緒の方に細い眼と顔を向けた。そして伊緒は力強い声で自分の決意について宣言をする。


「――父さん。あたしアンドロイドドクターになる!」


 伊緒は、既に希美代やジルと長い間話し合い、アンドロイドドクターになろうと決意していた。そうしていつかシリルの脳機能を復旧させる。それには医大の院に入る必要があるが、一斉試験の成績が芳しくなかったため医大受験資格を持っていない伊緒は、その取得のための試験勉強から始めなくてはならない。最終的に、医大の試験を通過するなど何浪してもごく僅かの可能性で、現役合格など夢のまた夢であった。だが伊緒の家の経済状況では医大浪人する余裕など全くない。つまり伊緒はこの後期授業期間で勝負を決めなくてはいけないのだ。


 大学合格の壁だけではない。大学での勉強についていけるかの不安。院に進みアンドロイド医学を専攻できるようになれるか。それらのハードルを乗り越えられたとしても、シリルの脳機能を復旧できる保証など全くない。可能性はゼロに限りなく近いと言ってもいい。それでもいい、例え万が一シリルを復元できなかったとしても、全ての心持つアンドロイドの福音になりたい。所有者の勝手で傷つくアンドロイドの助けになりたい。もうあたしのような人もシリルのようなアンドロイドも生み出したくない。それがあたしが救い出せなかった愛するシリルへの、せめてもの償いだ。


 伊緒はこれからの目標を手に入れたものの、全てにおいてそれが叶うとは思っていなかった。伊緒は自身を信じきれないまま受験の荒波に乗り出していった。時には昼休みにお弁当を食べながら、シリルを想って人知れず泣いて過ごすこともあった。


 それでも伊緒は希望のないまま勉強の虫となった。ひたすら学んだ。遊びも笑いも喜びも捨てて失った彼女は、勉学の事しか頭になくなった。


 昼休み、シリルと過ごしたいつもの場所でお弁当を食べながらタブレットを器用に操作する伊緒。無表情にかつ機械のように効率的で能率的な動きで勉強と食事を同時にこなしている。

 いつの間にか、もう卵焼きの色で心を動かされることはなくなった。今の伊緒はある意味以前のシリル以上に機械のようだった。


 ふとその時ブラウスの左袖に何かがいるのに気がついた。赤地に黒い七つの星を描いたちっちゃなちっちゃなテントウムシ。あの時シリルは確かナナホシテントウと言っていたんだっけか。伊緒はシリルに告白をした時のことを思い出した。もう数えきれないほど昔の出来事だ。


 じわっと涙でテントウムシが滲んでしまいそうになる。伊緒は頭を振ってこらえた。意味ない。涙なんて意味ない。シリルを取り戻すまでもう泣かない。そう誓ったんだ。伊緒は唇を噛みながらちょこまか歩くテントウムシの行く先に箸を置いた。テントウムシが箸に乗る。


 伊緒は箸を秋空に向けて高々と掲げ、祈る。


 シリルが還って来ますように、シリルが還って来ますように、シリルが還って来ますように、シリルが還って来――


 伊緒には聞き取れない小さな羽音を立てて、テントウムシは螺旋を描きながら天高く飛び去って行った。


『唱える作業を何度も繰り返すと叶う確率が上がるの?』


 そんなシリルの言葉を思い出した。今回は3.5回しか唱えられなかったけどきっとこのおまじないは叶う。絶対叶う。だって成功率百パーセントなんだもの。

 数カ月ぶりに伊緒の顔にほんの微かな笑みが浮かんだ。

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