魔法使い ルキフォ その2

 火霊宮の一角。リュードたちの住む居住区の部屋の一つ。その扉がそっと開かれた。男が顔を覗かせ、人気がないのを確かめる。夜もふけたこの時刻、廊下に人のいる様子はなかった。男は部屋を出ると、廊下を静かに歩き出した。曇りがちな夜空から新月に近い三日月がときおり顔を覗かせる。窓から忍びこむ頼りない月明かりが男の顔を浮かばせた。


 グレンである。頭には新しくなった包帯が巻かれている。

 グレンはそのまま進んで行き、一旦曲がり角で足を止めた。顔を僅かに出して廊下の先を見る。少し進んだ所に扉があり、その前に見張りが二人立っていた。グレンは見張りの他に人がいないのを確かめると、何食わぬ顔でそちらに向かって歩き出した。

 向かって来る人影に気づき見張りがにわかに緊張する。グレンは構わず進むと、扉の前で立ち止まった。


「グレン様」


 見張りの一人が言った。人影がグレンだと判って、緊張が解けたようだ。


「フィンナに会わせてもらえないか?」

「それはできません」


 雰囲気は和やかながらも、見張りはきっぱりとそう言った。


「なぜだい?」


 あまりにもあっさりと尋ねられたので、見張りが思わず互いの顔を見合わせた。


「式典が始まるまでは、フィンナ様を部屋から出すな。また、誰にも会わせるなと言われております。リュード様から聞いておられないのですか?」

「聞いているよ。でも、恋人に会うなというのは、あまりにも野暮じゃないかな?」


 グレンが軽い調子で言ってのけた。二人はグレンの言いたいことを納得した様子であったが、それでも思案しているようだ。


「頼む。ここのところ忙しくて会いに来ていないから、ご機嫌とりをしておかないとね。彼女をここに連れて来て以来、口をきいてくれないんだ」


 グレンとフィンナの関係はどの門派にも知れ渡っている。当然、精火門の人間なら知らぬ者はない。だから、恋人と妹を捕らえたグレンに、フィンナが怒っていると想像するのは難しくなかった。自然と見張りの顔がにやけ顔になる。

 グレンはそれを見て、懐から金貨を一枚ずつ取り出し、見張りに手渡した。


「まあそこまで言われるんでしたら、なあ?」


 片方の相槌にもう片方が応えた。二人ともいかにもといった訳知り顔をしてみせる。


「ただ、鍵は私たちが持っていませんので……。なに、すぐに取りに行きますよ」

「君たちが持ってるんじゃないのか?」

「いいえ。鍵はリュード様と、見張りが詰めている部屋にあるだけです」


 グレンの表情が少しだけ曇った。中からは鍵が開かないようになっているのだから、何かあったときにすぐ中に入れるように、扉の前の見張りに鍵を持たせていると思ったのだが、どうやら見当違いらしい。思っていたよりも用心深いようだ。


「待ってくれ」


 鍵をとりに行こうとする男を、グレンが止めた。グレンが来たことを知っている人間は少ない方がいい。グレンは少し早めに行動を起こすことにした。


「どうしました?」


 立ち止まって振り向きかけた男の首に、後ろから腕をかけた。素早く力を入れて締め付ける。男は抵抗しようとグレンの腕を掴んだ。だが、グレンが首を締め付ける方が早かった。

 男の体から力が抜ける。気絶したのだ。


「グレン様、何を!?」


 後ろで見ていた男がグレンを掴もうと動いた。グレンは体を入れ替え、締め落とした男を盾にするように対峙する。

 男の足が止まる。その瞬間、グレンは気絶した男を突き飛ばした。

 それを思わず受け止めた相手はバランスを崩し、倒れないように踏ん張った。グレンは距離を詰めてこめかみへ掌底を叩き込んだ。

 呻き声を上げて、もう一人の見張りも床に倒れる。


 倒れた男たちを引きずって扉の前まで連れて来る。念のために男たちの服を漁ってみたが、やはり鍵は出てこなかった。

 グレンは立ち上がると、ドアノブに手をかけた。手のひらから炎が生まれノブを舐めるように包込んだ。炎が消えた後には、ドアノブは跡形もなく蒸発していた。

 ドアノブのあった場所に手をかけて、扉を引いた。そのまま中に入る。部屋の中は真っ暗だった。


「フィンナ?」


 グレンが呼かけた。返事は返ってこない。ベッドのあるあたりまで歩み寄る。そして、人型に膨らんだ寝台に触れようとした寸前、グレンの背後で気配が生まれた。

 驚いて振り向いたグレンの鼻先に、水で造られた短剣の切っ先が止まっていた。


「今度は殺しに来たの?」


 硬い表情でフィンナが言った。


「冗談はやめてくれ。フィンナを助けに来た」


 伸ばしてきたグレンの手を、フィンナは撥ねのけた。


「フィンナ……」

「来ないで。これ以上私を苦しめないで。お願いよ、グレン」


 フィンナの持つ水の短剣が、グレンの左胸に当てられた。


「フィンナ、俺だ。グレンだ」


 グレンは自分の胸に刃先が食い込むのも構わず、フィンナに近づいていった。フィンナの手が震えている。


「これ以上来ないで。私にあなたは殺せない。でも、これ以上グレンを冒涜するのなら、私は……」


 フィンナの言葉に力はなかった。グレンは何も言わずにフィンナに近寄っていく。短剣はグレンの皮膚を破って侵入し、服に血をにじませた。


「ああ」


 水の短剣が消えた。フィンナが力をなくして床に座りこもうとする。グレンはそれを抱き止めて、フィンナの髪、頬の順に優しく触れた。


「迷惑をかけたね」

 グレンの優しい声。手から頬に伝わる暖かみ。それは、フィンナの知っているいつものグレンだった。


「グレン。正気に戻ったのね。グレン……」


 今まで張り詰めていたものが一気に弾けた。フィンナはグレンの胸で泣いた。恋人のグレンにさえ、滅多なことで涙を見せたりはしない。そのフィンナが泣いていた。グレンは、精神的にどれだけフィンナが追いつめられていたかを知った。


「もう大丈夫だよ、フィンナ」


 フィンナはグレンの胸の中で何度も頷いた。その様子は十歳近く離れたエスティと変わりはなかった。


「でも、なんで?」


 なぜ正気に戻ったのかと訊いているのだ。精神的に混乱しているフィンナは、まだ十分に喋れないでいた。


「君が術を、ぎりぎりのところで外してくれたたろ? あの時に上手く壊してくれたみたいだ」


 グレンは自ら頭の包帯を取ってみせた。そこにはまだ頭環があった。グレンはそれを外して、輪を内側から両手で引っ張ってみせた。

 金属製の頭環があっさりと折れる。

 グレンとフィンナが対峙したあの時、最後にフィンナが放った術が、グレンの額にあった頭環に亀裂を入れたのだ。魔導具の構造はグレンも知らないが、結果的にその亀裂が機能を阻害する結果となった。

 グレンは傷を負ってしまったが、怪我の功名とでも言うべき幸運だった。


「そう。でも、よかった……」


 恥ずかしそうにフィンナが離れた。だいぶ落ち着いたようだ。


「エスティの話は聞いてるか?」

「ええ。でも結婚なんて随分と思い切ったことを考えたわね、リュードも」


 からかうような視線をグレンに向けた。


「莫迦。楽しんでいる場合じゃない」

「あら、優しいお兄様としては、かわいい妹が親友のお嫁さんになるのはやっぱり許せないの?」

「そんなことはない。エスティが望んでいるなら、誰とでも結婚させるさ。ただし、本当に結婚するなら、相手にあと二、三年は待ってもらうがね」


 真面目なグレンの表情に、フィンナは吹き出した。どうやらもとに戻ったようだ。


「でも、リュードは一体何を考えているんだ」

「エスティを守ることだけよ」


 フィンナが呟いた。


「エスティを守る?」

「そうよ。気づいてなかった? グレンがエスティにご執心なの」

「いや。気づいてはいたが、恋愛的な感情だとは思わなかったな」

「私もそう思うわ。何かに追いつめられた結果、無理にエスティを見ているような気がするの」

「それが、結婚……。随分思い切ったな。おまけにレストーグ様を監禁して、精火門の乗っ取りもしている。リュードの奴、これからどうするつもりなんだ」


 グレンの言葉には、心配している響きがあった。どんなになってもやはり、グレンにとってリュードは親友だった。できればこれ以上騒ぎが大きくならないうちに、リュードと話し合いたかった。そしてリュードの暴走を止めたかった。


「たぶん、どうもしないと思うわ」

「どうもしない?」

「ええ。だって、今の状態ならエスティを守るのに都合が良いんですもの。

 グレン、よく考えてみて? 今までは四つの門派すべてが敵だったのよ。それが今だとエスティには精火門がついている。そして、精火門にエスティがいるということが他の門派に知れれば、簡単には手が出せないわ。特に、エスティが精火門の長の妻になってしまえばなおさらね」

「その為に、リュードは精火門を手に入れたのか……?」


 グレンは驚いた。何がリュードをそこまでかり立てたのだろうか。リュードはエスティの為だけに、自分の親を監禁し、親友だったグレンを利用したのだ。それは本当にエスティが引き金になって起こした行動なのか。

 もしそうだとすれば、エスティもリュードも悲しすぎる。


「ミランの口振りからしても、間違いないと思う。私ね。そう考えると自分が判らなくなったわ。やり方は乱暴だけど、エスティを守るには確かにいい方法かもしれない。どうするの? それでもエスティを助ける?」


 フィンナはグレンに訊いた。ここ半月ばかりの出来事で、随分と弱気になっている。ルキフォの時といい、自分の判断に自信が持てないのだ。

 グレンは考え込んだ。確かに今の状態ならエステイは自分たちが守るより、安全かもしれない。このまま元素術の全門派を精火門が支配すればもっと確実だ。おそらくリュードもそれを考えているのだろう。エスティはまだ充分に精霊皇の力を操れないが、それでも他の門派への牽制にはなるだろう。だが……。


「エスティを助けよう。いくら自分を助ける為とはいえ、リュードにここまでしてほしくなかったはずだ。それに、これ以上リュードが突き進めば、悲しむのはエスティだ。エスティが望んだのでないのなら、リュードを止めるべきだ」

「判ったわ」


 フィンナは短くそう言った。

 グレンたちは、外で倒れている見張りを部屋のなかへと担ぎ込んだ。


「さあ、行こう。まずはエスティに会わないとな」

「場所は判っているの?」

「見当はついている」


 グレンは部屋を出た。フィンナが後に続く。


「戦力として期待しないでね。精水門の元素術が発動しにくいから」


 フィンナが歩きながら言った。

 この火霊宮には火の元精霊以外は必要以上に活性化しないよう結界がしてあった。それは、どの門派の霊宮も同じだ。自分の門派の支配する元精霊以外は活性化しないようにしているのだ。そうすれば、万が一攻め込まれても、霊宮内においては守備側の方が有利に戦えるからだった。


「判ってる。エスティも君も、俺が守るから」


 グレンの少しおどけた口調に、フィンナは笑ってみせた。だが、ずぐに二人とも表情がひきしまる。どんなに明るく振る舞ってみせても、二人の胸には複雑な思いが渦巻いているのだ。

 二人は角を幾つも曲がり、階段を昇った。目指すエスティがいる部屋はすぐに見つかった。扉の前にはフィンナの時と同じように、見張りが二人立っていた。

 フィンナは影に隠れ、グレンだけが二人の方に歩いていく。そのまま近寄って、男たちに話しかける。二、三言葉を交わした後、男が一人、グレンに背中を見せた。

 フィンナの時と同じ要領で、後ろに向いた男を気絶させる。それを見たもう一人がグレンを襲おうとするのを、フィンナが素早く近寄り、後頭部を殴って気絶させた。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 フィンナが軽く一礼した。

 鍵をグレンの炎で溶かす。二人は静かに部屋の中へ入っていった。

 月もちょうど雲に隠れ、部屋の中は真っ暗だった。グレンとフィンナは、エスティが眠っているはずのベッドへと近づいた。


「待っていたよ、グレン」


 入り口付近から、リュードの声がした。二人は驚いて振り向く。部屋に明かりが灯った。扉の前にリュードが立っていた。ベッドからミランが起き上がる。二人は挟まれていた。


「エスティはどこだ」


 グレンが訊いた。


「君が来ると思ってね。安全な場所へ移したよ。なんと言っても僕の大事な花嫁だからね」


 リュードは冷たく笑った。


「本気でそんなことを言っているのか?」

「優しいお兄様としては、やっぱり妹のことが心配かな?」

「リュード、これ以上何をする気なんだ? 精火門を乗っ取って……。そんなことをして守ってもらっても、エスティは喜ばない」


 グレンを見るリュードの表情が険しくなった。


「だったら、グレン。君だけでエスティが守れるというのか?」

「……確かに。精火門がエスティについてくれれば、それほどいいことはない。俺とフィンナだけで守るよりも安全だろう。だが、エスティの意志を無視するような方法で助けてもらおうなどとは思わない!」


 グレンは親友を睨みつけた。束の間二人は睨み合う。最初に目を逸らしたのは、リュードだった。目を逸らしたまま含み笑いをする。


「無駄だよ。もう何もかもね。グレン、君に選ぶ権利はないんだ。エスティを守のは君じゃない。〝兄〟じゃない。エスティを守のはこの僕なんだ」


 再びグレンを見つめるりュードの瞳には、恐ろしいほど純粋で、必死に何かに対し抵抗しようとする意志が見えた。

 グレンは無言でそれを聞いていた。そして諦めに似た、寂しそうな表情浮かべた。グレンの周りに炎が生まれる。


「無駄だと言っただろ? 君は待ち伏せされてたんだ。僕がミランと二人だけでここにいたと思ってるのかい?」


 グレンの動きが一瞬止まった。用心深く気配を窺う。しかし部屋の中はもちろん、外にも自分たち以外の人間がいる気配はなかった。

 炎を放つ。グレンから飛び出した炎の矢は、リュード目の前でたち消えた。


「!?」


 グレンが驚きの表情を浮かべた。


「何度も言っただろう? 僕は何の用意もなしに君たちを待っていたわけじゃないんだ」


 腕を振り、グレンは再び炎を撃った。しかし、その炎は見えない壁に阻まれて消えてしまった。


「グレン?」


 フィンナの叫び声に振り返る。フィンナとミランの間に光を反射する何かがあった。それは、魔導具で造りだした《封牢結界》だった。光の加減でグレンとリュードの間に見えなかったのだ。

 元素術に対抗できるだけの魔術を魔導具で作り出すには、個人で持ち運べる大きさのものを作り出すことは出来ない。火の精霊を活性化させたこの火霊宮内で火の元素術を無効にするほどの結界を張るとなればなおさらだ。

 だが、この部屋には大きな魔導具は見あたらなかった。


「驚いたかい? 腕のいい魔導具師がいてね。信じられないくらい小さなものを作る。君の良く知る人間だよ。君の頭につけていた頭環もその人間の手によるものだ。

 もっとも頭環の方は不良品だったみたいだけどね」


 人数が多いだけならなんとか切り抜ける自信はあった。しかし、すでに結界に閉じ込められていては手が出ない。包囲された場合のことだけを考えて、グレンはこういった種の罠に気づかなかったのだ。注意不足の自分をグレンは呪った。


「明日の式典まで、おとなしくしておいてもらうよ。君たちは大事な証人だ。特に、フィンナ。君には精水門に報告してもらわなければならない、重大な使命がある」


 そう言って、リュードは部屋を出ていった。その後にミランが続く。グレンたちの目の前で、鍵の壊れた扉が閉じた。明かりが消え、部屋の中に闇色をした帳が降りていった。

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