精霊皇の娘 エスティ
ベッドにもぐり込んだエスティをグレンとフィンナが覗き込んでいた。
「ねえ、兄様。わたし明日がたのしみ」
グレンに向かって笑顔で話す。まだ幼いエスティの瞳が期待に輝いていた。
「エスティも明日で十三歳だな。天翔界の父と母もきっと祝ってくれてるよ」
グレンの手がエスティの額に触れた。エスティはこくんと頷く。
「さあ、今日はもう寝なさい。明日は朝から大変ですからね」
フィンナが優しく言った。
「うん。ねぇ、姉様……」
「判っているわ。ちゃんと用意していますから。心配しなくても大丈夫よ」
フィンナはエスティの言葉に笑顔で応えた。
「? 何のことだ?」
グレンが不思議がってエスティに訊いた。だが、エスティは何も答えない。
「フィンナ?」
質問の矛先をフィンナに向けた。
「殿方が尋ねるのは野暮というものよ。ねえ、エスティ?」
「そうよ、兄様」
エスティもフィンナも笑うだけで答えようとはしない。グレンには何も判らないので、ただ首をかしげるだけだ。
「大勢の人が、エスティの誕生日を祝いに来るからね。リュードも明日には来るって言ってたよ」
グレンが言った。考えるのを諦めたようだ。
「リュードが?」
嬉しそうにエスティが名前を繰り返した。
「エスティはリュードに会えるのが嬉しいのかい?」
「うん。だってリュードが来てくれれば、兄様が二人になるもの」
「俺がか?」
真面目に問うグレンを見て、エスティが可笑しそうに笑った。
「ううん、違うの。グレン兄様とリュード兄様の二人になるってこと」
「どうして、二人になるといいの?」
フィンナが尋ねた。エスティは悪戯っぽく笑って、
「あのね、グレン兄様はフィンナ姉様のものだからエスティとあんまり遊べないの。だけど、リュードがいればもう一人兄様がいるから遊んでもらえるからなのよ」
「あらあら」
フィンナが笑う。
「どこでそういうことを覚えるんだ、まったく。それにしても、リュードは俺の代わりになるのか? それじゃ気の毒だな」
親友の顔を思い浮かべ、グレンが笑った。
「違うもん。リュードは兄様の代わりじゃないもの。でも、兄様なの!」
「判った判った、俺が悪かった」
むきになって喋るエスティにグレンは真顔で謝った。本当は笑いたいのだが、そうするとエスティはますます機嫌を悪くしてしまう。
笑いを堪えているため、グレンの頬がひきつった。フィンナはそんな二人を楽しそうに見つめていた。
「エスティ、大丈夫よ。明日はエスティにグレンを返してあげますから」
「本当に?」
「ええ。でも、明日だけですよ」
「うん」
「……俺は物か」
元気よく頷くエスティにグレンは半ば呆れていた。エスティはフィンナと組んで、グレンをからかっているのだ。
「さあ。もう寝なさい」
これ以上からかわれないよう、グレンはエスティを寝かしつけようとした。
「うん、おやすみ。兄様。姉様」
エスティはおとなしく目を閉じた。グレンとフィンナは寝息が聞こえてくるまで、エスティを見ていた。エスティが完全に寝たと判ると、二人は音をたてないように静かに部屋を出る。
エスティは眠りの中へと入っていった………………。
〈……エスティ……〉
どこかで名を呼ぶ声がした。エスティは辺りを見回した。
不思議な場所だった。幾つもの色彩を持つ淡い光に包まれた世界。その中ををエスティは漂っていた。
「誰? 兄様なの?」
〈……エスティ〉
低い、はっきりとした声が再びエスティの名を呼んだ。声のした方向に意識を向ける。体がその方向に向かう感覚が僅かにあった。周りの景色に変化はない。
〈エスティ〉
今までで一番はっきりと声が聞こえた。それは耳から入ってくる感覚的な声ではなく、直接心に響いてくる精神的な声だった。
目の前の空間に大きな揺らぎが生まれた。そこに何かの姿が浮かび上がる。
エスティの体がこわばった。しかし、不思議と恐怖はなかった。
〈よく私の呼かけに応じてくれた〉
エスティに話しかけるそれは、人の姿をしていた。しかし、その存在は人の形をとったまま常に変化していた。真っ白な鎧で固めた騎士に見えたかと思うと、質素な衣装ながら気品のある女王の姿をとっていたりする。若い乙女になったかと思えば、白い顎ひげを蓄えた老人に変わったりもした。声も始めに聞いた低い男性のものから、女性のものまで様々声がエスティの心に飛び込んできた。ただ、その存在の瞳だけが変わらずに、常に銀色を保っていた。
「誰?」
エスティは声を出した。それと同時に自分の心から、今喋った言葉が飛び出ていくのが判った。
〈私は精霊皇。すべての精霊の主〉
精霊皇と名乗った存在は、姿を変えながらエスティの心に語りかけた。
「せいれいおう?」
〈そうだ。私の声を聞くことのできる、人間の娘よ。そして、私の祝福を受けることのできる精霊皇の娘よ〉
精霊皇の言葉にエスティは戸惑った。
「わたしが、精霊皇の娘?」
〈お前は人間の娘であると同時に、私の娘でもある。千三百年ぶりに生まれた私の娘。さあ。私の祝福を受けておくれ〉
精霊皇が動いた。
「ちょっと待って!」
焦って叫ぶエスティを見て、精霊皇の姿が揺らいだ。
〈なぜ、私の祝福を拒む?〉
不思議がる精霊皇の心がエスティに伝わってきた。
「だって、判らないもの。何が起こったのか判らないもの。いきなり祝福って言われても、わたし判らない」
エスティの不安な感情を読みとったのか、精霊皇の表情がすべて優しいものとなった。暖かい心がエスティの中に流れ込んでくる。
エスティは精霊皇を不思議そうに見つめた。
〈許しておくれ、私の娘。私は生まれて十三年目のお前を祝福したかった。精霊にとって十三は大切な数字。祝福の数字。千三百年周期で生まれた娘を、私は祝福したかった〉
愛情とでも言うべき暖かな感情がエスティを包んだ。それは懐かしい、父と母を思い出させた。事故によって幼いエスティとグレンを残して死んだ、優しかった両親のことを。
エスティの頬を涙が伝った。
〈おお。なぜ悲しむ。お前が祝福を望まないのなら、私はそれをやめよう。だから、泣かないでおくれ〉
「そうじゃないの。ただちょっと思い出したことがあっただけ」
〈なら、私の祝福を受けてくれるのか?〉
エスティは頷いた。
「誕生日のプレゼントなら喜んでもらうわ。でも、どうしてわたしなの? 十三歳になる子供は他にもたくさんいるはずなのに……」
〈それはお前が私の声を聞くことができたから。千三百年周期で私の声を聞くことができる子供が生まれる。お前は千三百年ぶりに生まれた私の娘。呼かけに応えることのできた、だだ一人の娘だから〉
「でも、わたしは元素術を使えないし、精霊の声も聞くことはできないもの。それに元素術はそんなに昔からなかったわ」
〈他の精霊の声は問題ではない。重要なのは〝私〟の声が聞けるかどうかなのだ。そして、お前たちが元素術と呼ぶものができる遥か以前から、私や精霊たちの声を聞ける人間はいたのだ〉
精霊皇は諭すように、エスティに優しく語りかけた。
〈さあ、目をつむって。私の祝福を……〉
エスティは言われたとおりに目をつむった。精霊皇がエスティを柔らかく抱擁した。エスティの中に暖かな力が流れ込んできた。
〈祝福とは、私の力を分け与えること。これでお前は他の精霊の声を聞くことができる。精霊がいつもお前を守ってくれる。でもこれは大きな力。だから、お前が力の使い方を理解できるまで、ここで見たいくつかの記憶を閉じよう〉
エスティの体が小刻みに震えた。流れてくる力の大きさを知って、恐ろしくなったのだ。
〈大丈夫。お前ならきっと使えるようになる。私の娘なのだから〉
精霊皇がエスティから離れた。
〈さあお行き、私の娘。お前はここでのことは忘れてしまうだろうけど、私は忘れない。いつでもお前を見ているよ。そしてお前が心の底から私を必要とするときは、必ずお前の元に現れよう〉
こうして一年後の十四歳の誕生日にエスティは目覚めたのだ。精霊皇の力を継いだ証である銀の瞳を持って。
★
雨が降っていた。激しく叩きつけるような雨だ。地面だけでなく窓にも、雨は容赦なく叩きつける。エスティは窓際の椅子に座ってじっと外を見ていた。
気がついたらこの部屋に閉じ込められていた。窓や扉にはすべて鍵がかかっており、エスティには開けれないようになっている。鍵を壊せるほどの力はエスティにはない。
ここが火霊宮の一室だということは判った。だが、判ったのはそれだけだった。リュードはルキフォがどうなったのかを教えてくれない。ただ、もう会うことはできないだろうとだけ、エスティに告げた。それにあの時以来、グレンとフィンナにも会うことはなかった。二人は火霊宮のどこかにいるのは間違いないらしかった。
寂しかった。たまらなく寂しかった。エスティにはもう、なにが起こったのかすら考えることができなかった。グレンやリュードはすっかり人が変わってしまった。あの兄の光のない瞳は、今思い出してもぞっとした。そして、リュードはどうしてしまったのだろうか。昔はああじゃなかったのに……。
すべての元凶は精霊皇の力だった。なぜ、こんな力に目覚めたのだろう。始めは少しだけ嬉しかった。グレンやフィンナの役にたてると思ったからだ。でもこんなことになるのなら、目覚めてなどほしくなかった。思うように扱えないのなら、なおのこと必要ない。何の役にも立たない。
最近、エスティはよく夢を見た。内容は起きたら忘れてしまうのだが、何か大事な夢だったような気がする。自分がこの精霊皇の力に目覚める原因となった、あの長い眠りの内容に関係があるような気がした。もしかしたら、あの時見た夢をもう一度見ているのかもしれなかった。
扉の鍵が開く音がした。エスティはそれにまったく反応しなかった。じっと、豪雨で景色など見えない窓の外を眺めている。
扉を開けてリュードが入ってきた。足音がしても、エスティは振り返ることさえしない。リュードは構わずに歩いて、エスティのそばで立ち止まった。
「また、食事をとっていないんだって? 駄目だよ、エスティ。食べないと体に悪い」
「……ほしくないもの」
喋るときもエスティは窓の外を見たままだ。
「まだ、ルキフォとかいう少年のことを考えているのかい?」
「…………」
「もう、彼とは会えないよ。だから早く忘れるんだ」
「…………」
「もう、会えないんだよ」
「…………約束。約束したもん」
エスティはぽつりと呟いた。
「約束? そんなのは無駄なんだ。もう、無駄なんだよ」
「絶対に守るもん。ルキフォは約束を守るもの……」
「なぜ判らないっ。約束なんて無駄なんだっ。もう、ルキフォはエスティに会いにこないんだ!」
リュードの言葉に熱がこもった。エスティが初めて、リュードの方を向いた。その瞳にはいっぱいの涙が溜っていた。
「どうして、リュードにそんなこと判るの? リュード、ルキフォのこと何も知らないくせに! なんでそんなこと言えるの!」
エスティの剣幕に、初めはリュードもただ驚くだけだった。しかし、次第に怒りがこみ上げてきたのか、ぎゅっと握った拳を思いっきり壁に叩きつけた。エスティの体が大きく震えた。
「いい加減にするんだっ。ルキフォは死んだ。谷から落ちて死んだんだっ。あの高さから落ちて生きているはずがない!」
そこまで言って、リュードははっとした表情になる。
「すまない。言い過ぎた」
「……なんでそんなこと言うの? リュード変だよ。ねぇ、なんで? そんなこと言うリュードなんて大嫌い」
「エスティ……。僕は君を守ろうとしているんだ。そのために色々今まで準備してきた。もうすぐ、それができるんだ。そうすれば、何も心配せずに暮らせるようになるんだよ?」
「いや。もう、何が何だか判らないよ」
「エスティは僕を信じればいいんだ。ルキフォやグレンでなく僕を。そうさ兄さんを信じる必要はないんだ。エスティ、君を守るのは〝兄〟じゃない。僕なんだ」
半ばとり憑かれたように、そして自分に言い聞かせるように、リュードは呟いた。
「……リュード、出て行って」
「一人にして」ではない。「出て行って」だ。それは強い拒絶の言葉だった。
「エスティ?」
呆然としてリュードが訊く。
「リュードなんか嫌い。大嫌い!」
「エスティ……」
「出て行って!」
リュードの手が伸びかけて止まった。エスティの小さな肩が震えていた。リュードはそれ以上何も言わずに部屋を出て行った。鍵をかける音がして、すぐに足音が去って行った。
「もういや。何が起こったのか判らない……」
涙がこぼれ落ちた。思えば、約半月前に逃げ出してから泣いてばかりいるような気がする。昔はもっと笑って過ごせる時間のほうが多かったはずなのに……。
涙は止まることなく流れ続けた。
——泣いてる女の子がいま目の前にいる。ここで助けなきゃ、絶対に俺は後悔する。そんなのは嫌だ。
ルキフォの言葉が蘇る。少女はいま泣いていた。
——だからエスティがなんて言おうと、俺は君を助ける。
助けて欲しい。あの少年に。兄のように自分を守ると言ってくれたあの少年に。
「助けてよ、ルキフォ」
言葉にするといっそ涙が出てきた。泣くことででルキフォが来てくれるなら、いつまででも泣いていよう。
誰でもいいから教えてほしかった。自分はこれからどうなるのか。兄はどうなったのか。フィンナはどうしたのか。リュードはなぜ変わったのか。
そしてなにより、ルキフォはどこにいるのか。それが一番知りたかった。エスティはルキフォが死んだなどと考えていない。あの少年は今度こそ約束を守ると言ったのだ。
「ルキフォ……助けて」
再び呟く。だが、その細い呟きは雨の音にかき消され、決して外へと流れていくことはなかった。
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