精水門 フィンナ

 エスティが行方不明になってから、十日が過ぎようとしていた。行方不明になった二日後にリュードから連絡があった。あれ以来互いに連絡をとっていない。

 日に日に、フィンナの中にある不安が増大していく。自分もエスティを捜しに出ていきたかった。だが、無闇に動き回ることはできない。フィンナがグレンの恋人であることは、精水門も周知の事実だ。公然とフィンナを問ただすようなことはなかったが、目をつけられているのは確かだろう。


 精水門が行うエスティの捜索から、フィンナは外されていた。フィンナを使えばエスティを誘き寄せる餌となる代わりに、こちらの情報を与えた上でエスティ逃がしてしまう可能性もあるのだ。それを承知している上の人間は、最後の切り札としてフィンナを使うつもりだった。

 ふと、恋人の顔が浮かぶ。グレンはどうしているのだろう。あの青年の安否は、エスティと同じぐらい彼女の心を悩ませた。


 三日前に精地門の霊宮があるグランフォレストで争いがあったことは耳にしていた。バッシュが倒されたことも含め、瞬く間に各門派に伝わった。ほぼ間違いなく三日前エスティはあの街にいたのだ。そして、バッシュと一戦交えた。しかし、いかに精霊皇の力を持っていようとも、エスティがバッシュを倒すのは無理だろう。

 なら、とフィンナは考える。

 エスティとグレンと一緒で、バッシュはグレンが倒した。リュードの手に落ちたというのは嘘だ。グレンとエスティは一緒にいる。

 無いに等しい、微かな希望だった。そしてその可能性が低いことも判っていた。

 八日前にリュードはフィンナに対し牽制の意味を込め、グレンが自分の手にあることを伝えてきた。フィンナは信じたくなかった。

 だが、リュードがなんの確証もなしにああいった駆け引きをする男ではないと知っている。


 昔から好かない男だった。精火門の長の息子でありながら、気取ったとこなど微塵もない。人当たりもよくまったくの好青年といえた。でも、あの男の瞳の奥には得体の知れない炎が宿っていた。何かに怯えたような、恐ろしいほど純粋で強い炎だ。

 その炎がある時は憎しみを持って、またある時は畏敬の念を抱いて、親友であるはずのグレンを見ているのだ。グレンは気づいていないようだったが、表れた二つの感情は極端に強いものだった。


 考えるだけでは始まらないのは分かっていた。何度か知り合いを通じて、エスティに関する情報を流してもらった。しかしそのどれもが期待外れだった。グランフォレストの街からどこに向かったのか。火霊宮のあるトリフ山脈か。それとも自分のいるウォティカの街に来るのか……だとしたら下手に動けない。

 自室の窓に立ち、目の前に広がる大きな湖を見る。湖面は碧く澄みきっており、フィンナの思いなど知らぬふうだ。しばらく物思いに耽っていたが、思い立ったようにフィンナは窓辺を離れた。

 小船で湖に出よう。少しでも気を紛らわさないと、つぶれてしまうわ……。


        ★


 ルキフォは輝く湖面をじっと見つめていた。そばにはエスティが草村で眠っている。二人はこの場所で休憩をしていた。

 暖かな日差しが二人を包む。湖は風も無いのに小さな波が幾つも立ち、光を乱反射していた。その様子が光を受けた水晶に似たとこから、この湖はアクアクリスタルと呼ばれていた。

 ルキフォたちはウォティカの街中を通るのを避け、湖ぞいに大きく回り込んでいた。グランフォレストのような事態を起こさないためだ。幸いなことに目指すフィンナの住む屋敷は、街から少し離れた、湖に面した場所に建っている。エスティの記憶を頼りに、二人はフィンナの元へと向かっていた。


 ルキフォは立ち上がって湖の岸を見た。遥か彼方にウォティカの街が見えた。そこから少し右に視点をずらす。湖に迫り出す形で屋敷が建っていた。

 体を動かすたびに痛みが走った。応急処置をしてはいるものの、当然のことながら十分な処置とは言えなかった。いかにゴルド特製の薬草を使ったとはいえ、簡単に治るものではない。療術は対象の治癒力を高める施術であって、傷を立ちどころに治してしまう奇跡ではないのだ。

 十分な休養も取らずに歩き詰めでは、治るものも治らない。

 さらに視線をさまよわせるルキフォの目に、小さな点が飛び込んできた。小さすぎてよく見えないが、それは小船のようだった。


「エスティ、起きて」

「んん……」


 気持ちよさそうに眠っていたエスティが、むくっと起き上がる。


「どうしたの?」

「小船だ。こっちには気づいていないみたいだけと、ひとまず隠れよう」


 二人は背の高い草叢に体を伏せた。小船は二人のいる湖岸に近づいたり離れたりを繰り返しながら、湖の中を遊廻した。

 五度目に小船が近づいたときが、もっとも二人に近づいたときだった。小船の様子が見てとれる。その小船には一人しか乗っておらず、漕ぎもしないのに船は進んでいた。乗っているのは女性らしいかった。

 それを見たエスティの表情が、警戒したものから驚きに変わった。ルキフォが止めるまもなくエスティは飛び出した。


「フィンナ姉様!」


 叫び声に気づいて、船上の女性がエスティを見た。相手も驚いているようだ。小船が岸へと向かって来る。

 ルキフォは立ち上がり、草叢からゆっくりと抜け出した。エスティの後ろに歩いていく。

 そんなルキフォを見て、船上のフィンナの表情が変わった。


「エスティ、どきなさいっ」


 フィンナが叫び、湖の水が幾筋もの細い流れと化してルキフォを襲った。ルキフォは横に跳んだ。水流がルキフォの足を掠めた。いつもなら簡単に避けれるのに、怪我のせいで反応が遅れた。地面に倒れながら、ルキフォは〝魔法〟を顕現し、高速詠唱させる。


「〝貫く光の牙〟」


 妙な姿勢で撃っため、光の矢は小船の近くの湖面を穿ったのみだ。


「元素術じゃない?」


 見慣れぬ術法にフィンナが困惑する。


「姉様、やめて! ルキフォも!」


 エスティの言葉と同時に、フィンナは大量の水をルキフォに送った。水はルキフォに覆い被さり、その体包みこもうとする。


「〝弾ける光の瞳〟」


 ルキフォは自分を中心に光の盾を押し広げたが、光は水を押し返すことなく、そのまま素通りしてしまった。


「なに!?」


 水は〝魔法〟ごとルキフォをあっさりと包んでしまった。水に包まれたルキフォが苦しそうにもがく。包んだ水がうごめき、ルキフォを押し潰そうとする。〝魔法〟は息のほうは問題ないようだったが、水に絡め取られて動けないようだった。

 ルキフォの口から泡が漏れる。肺の中の空気がすべて搾り出されようとしていた。


「姉様、お願い。ルキフォを自由にして。味方なの!」


 フィンナは戸惑った。エスティの必死な表情は本物だ。だとしたら自分は間違いをおかしている。

 ルキフォを包んでいた水が地面に落ちた。解放されたルキフォが倒れたまま咳き込んでいる。エスティがそばに駆け寄った。


「ルキフォ、大丈夫?」

「あまり…大丈…夫じゃな……い。随…分…手荒なこと……をす…る……な」


 咳き込みながらルキフォが答えた。台詞の半分はフィンナに向けられたものだ。


「知らなかったの。謝るわ」


 ルキフォを見て言った。謝ってはいるが、警戒はしているらしく声が堅い。そしてエスティの方を向く。しかし意識はルキフォに向けられていた。


「エスティ。この子は? グレンとは一緒じゃないの?」

「ルキフォよ。ここまでずっとわたしを助けてくれたの。バッシュから守ってくれたのよ」

「この子が……」


 信じられないといった様子で、フィンナは呟いた。バッシュといえば元素術使いの中でもかなりの使い手だ。目の前の少年は見慣れぬ術法を使っていたが、それほどの力があるようには見えない。


「だったら、バッシュを倒したのはグレンじゃなかったのね?」


 覚悟していたこととはいえ、僅かな希望が閉ざされた。これでリュードの元にグレンがいるのは確実となったのだ。


「兄様とは離れ離れになったから……」


 エスティは今までのいきさつをフィンナに話した。姉様と呼ばれたこの女性は、「そう」とだけ呟いてエスティを抱き締めた。


「兄様が無事なら、きっと姉様のところに来ると思ったの」


 フィンナの胸の中でエスティが言った。こうしていると今まで溜ってきた不安が流されていくようだ。


「よく聞いてね」


 そうっと肩を持ち、優しく引き離した。目線をエスティに合わせる。


「グレンは無事よ。エスティは何も心配しなくていいわ。今はリュードの所にいるの」

「リュードのところに?」


 エスティの顔に安堵の表情が浮かんだ。エスティは優しい赤毛の青年を思い浮かべた。眼鏡の奥に浮かぶ穏やかな眼差し。兄とフィンナの次に心が許せる相手だ。エスティにとって、もう一人の兄といった存在だった。

 そんなエスティの気持ちを感じとり、フィンナは迷っていた。リュードには何か裏があると言っても信じるだろうか。いや、エスティは信じないだろう。大人たちの権力欲を知ってしまったこの少女は、フィンナが思っている以上におとなびている。だが、年相応の純粋さを持っていることも確かなのだ。

 だから、今は何も伝えない。もし何事もなくグレンと会えれば、エスティにとってこれほどいいことはない。後は大人同士で決着をつければいいのだ。


「いい? これから何があっても、私の言うことを聞くのよ。私の言うことだけを信じて。エスティ、いいわね?」


 エスティはこくりと頷いた。


「俺の疑いは晴れたかな?」


 ルキフォが言った。立っているのがやっとらしく、足元がふらついていた。フィンナに受けた新しい傷から血も出ている。


「ええ。グレンに変わってお礼を言うわ」

「エスティ。もう安心なんだね?」

「うん。兄様には会えなかったけど……」

「大丈夫。会えるよ」

「そうだよね」


 エスティが笑った。屈託のない明るい笑顔だ。フィンナは自分たち以外の人間に、エスティがこんな笑顔を向けるのを初めて見た。

 ルキフォも笑い返すと崩れるようにその場で倒れた。


「ルキフォ!」


 エスティが慌てて支えに入った。

 安心したとたんに、今までの疲れがどっと押し寄せてきたのだ。少年は気を失っていた。


「とりあえず、屋敷に連れて帰りましょう。怪我の手当をしないといけないわね」


 水がルキフォを抱え、そのまま小船に乗せた。続いてフィンナとエスティが乗り込む。

 三人を乗せた小船は、ゆっくりと向きを変えて進んでいった。


        ★


 ルキフォは庭の芝生に寝転がって、遥か上空を流れる雲を見上げていた。この屋敷にいた五日の間に体の傷もだいぶ癒えた。もう少しすれば動くのに不自由しなくなるだろう。


「ル~キフォ」


 エスティが現れ、覗き込むようにしてルキフォを見た。たれ下がった金髪が揺れている。


「何してるの?」


 澄んだ銀色の目を瞬きしながら、エスティは訊いた。


「空を見ていたんだ」

「空? なんで?」


 ルキフォが上半身を起こした。エスティはその芝生に座りこんだ。


「なんとなく、ね」

「変なの」


 それから二人はしばらく黙りこんだ。ルキフォがエスティを見る。まだ幼い横顔を眩しそうに見つめた。ここに来てから、エスティは随分明るくなった。不安が無くなったわけではないのだろうが、それでもルキフォが初めて見たときより随分落ち着いた。


「ありがとう」


 ルキフォが言った。


「え?」


 エスティが振り向く。


「気を失ってる間、ずっと看ててくれたんだって? だから、ありがとう」

「ううん」


 エスティが目を逸らしてうつむいた。

 ルキフォがこの屋敷に担ぎ込まれてから目覚めるまで、エスティは眠らずにずっとルキフォのそばについていたのだ。フィンナが休むように言っても、決して聞こうとしなかった。

 一日半ぶりにルキフォが目覚めると、今度はエスティが気を失ってしまったのだ。


「ルキフォには、いままでずっと助けてもらったから。わたしのために怪我までしたんだもの。でも、わたしにはあれくらいしかできなかったから……」

「十分。エスティが看てくれたから元気になったんだから」

「わたしも療術師になれるかな?」


 悪戯っぽい瞳でエスティが言う。


「うん。保証する」


 二人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑いだした。

 平穏な時間だった。今までのことが嘘に思えるくらいに。この五日間はエスティにとっても、そしてルキフォにとっても静かで安らぐ日々だった。もう、自分は必要ないのではないか。そうルキフォは考えることがあった。


「ねえ……約束、だよね?」

「え?」


 どこか思い詰めた様子で、エスティが言った。ルキフォを見つめる瞳が真剣だった。


「一緒だよ。約束だよ」

「…………」

「ルキフォ。兄様に会えるまで、一緒にいてくれるよね?」


 エスティもうすうす感づいているのかもしれない。いくらエスティをこれまで助けてきたとはいえ、ルキフォは元素術となんの縁もない人間だ。エスティにとってはそうでなくても、フィンナたちにとっては部外者なのだ。元素術の問題に他人が踏み込んでほしくない。そう考えたとしても不思議ではない。


「……そうだね」


 曖昧な言い方だった。たが、エスティはそれを完全な肯定ととったようだ。

 エスティの顔がぱっと輝き、うれしそうにルキフォを見ている。


「絶対、約束だよ」


 エスティは立ち上がると、プレゼントをもらった子供のように、はしゃぎながら走っていった。ルキフォは屋敷の中に消えるまで、それをずっと見つめていた。


「約束……か」


 再び芝生に寝転がった。エスティのうれしそうな顔を思い出すと、なんともいえない苦い気持ちになる。

 エスティには話していないことがあった。しかしそれは、自分自身が決めることであって、エスティに話すようなことではない。ルキフォは迷っていた。

 地面に体を預けたまま、ルキフォはゆっくりと目を閉じた。


        ★


「今すぐにとは言わないわ。傷が完全に癒えたら、何も言わずに立ち去ってほしいの」


 ルキフォが目覚め、エスティが気を失った日。ルキフォはフィンナの訪問を受けていた。


「説明はしてもらえないんですか?」


 フィンナが思ったより冷静に、ルキフォは訊いた。瞳はまっすぐにフィンナを見ていた。

 いい眼をしている。そうフィンナは思う。できれば自分だってこんなことは言いたくなかった。エスティがあれほど信頼している人間だ。グレンや自分の何十分の一の時間で、この少年はエスティの信頼を勝ち取った。それだけのものをこの少年は持っているのだ。盲目的に、だからこそ純粋な人を守るという気持ちを。

 しかし……。


「貴方には悪いけど、私はエスティほど貴方を信用してないの。たぶん知っていると思うけど、エスティを取り巻く状況は、はっきり言ってよくないわ。文字通り、元素術すべての門派が敵ですもの。

 それにね。詳しくは言えないけど、状況は複雑になってきているの。敵と味方が微妙に入り混じっているのよ。エスティには判断が難しくなっているわ。その中に貴方のようにはっきりしない人間は入れられない。そばに置いとくわけにはいかないの……」


 できるだけ言い方を和らげるつもりだったが失敗したようだ。しかし、ルキフォはそれほど気にしたふうではなかった。


「はっきりしないとは?」

「貴方、変わった術法を使うのね。元素術ではないわ。かと言って魔術とも少し違う。第一、術法としての魔術を行使できる人間なんてもういないのよ。魔術は学問になってしまったのだから、使えるといってもせいぜい魔導具師程度ね。それではバッシュを倒せない」


 ルキフォは黙ってそれを聞いていた。その様子は何かを考えているようでもあった。


「俺が使うのは〝魔法〟です」


 そう言ってルキフォは〝魔法〟をすぐ側に顕現させた。突然の出現にフィンナは驚く。だが現れたものが猫に似た小動物だと分かって表情を和らげる。


「それ、魔法とやらを使って出したの?」

「違います」ルキフォはフィンナの勘違いをやんわり訂正する。「こいつが〝魔法〟なんです。そして俺は〝魔法〟使いなんです」

「これが、魔法……。わたしの知らない術法だわ」

「魔術の流れをくむ術法だって、師匠は言ってました。必ず呪文の詠唱を必要する魔術の欠点を補うために生まれた技術だと。魔導具もそうだって聞きました」


 そう言って、ルキフォは自分の知る限りの知識をフィンナに語った。


「でも、魔導具師はたくさんいるのに、魔法使いなんて初めて見たわ。元素術に対抗できるほどの術法なら、残らないはずはないもの」

「〝魔法〟を扱える人間が、極端に少ないんです。〝魔法〟はこうやって存在するだけで魔力を必要とします」


 そう言って、ルキフォは〝魔法〟の喉を撫でてやる。〝魔法〟は猫のように気持ちよさそうに喉を鳴らす。こうしてみると、本物の猫のようだ。


「存在するだけで魔力を必要とする上に、術を行使すればさらに魔力は減っていく。それに耐えられるだけの魔力と〝魔法〟をその身に受け入れられるだけの精神的な器がないと、〝魔法〟は扱えません。だから伝えられる人も少ない」

「なら君は、その一握りの人間なのね」

「まだまだ半人前ですけど」


 少し照れたように少年は言う。

 フィンナに嘘を言うつもりは無かった。それは、嘘をついても仕方がないと思ったからであり、フィンナはエスティが信頼している女性だからだった。


「貴方が使う術法については判ったわ。初めて聞く話だけど、そのことについては貴方を信頼する。でもね。これからはバッシュ以上に厄介な人間を相手にしないといけない。危険なの。貴方はもちもん、エスティもね。何が起こるか予想できないのよ。だからできるだけ、不確定要素は除いときたいの」

「その不確定要素が俺ですか」

「そうよ」


 ルキフォは目を窓に移した。この部屋からも澄んだ湖が見渡せる。陽光を受けて湖面が輝いていた。


「どうしたら俺を信用してもえらます……って言っても、無駄ですよね」


 フィンナは何も答えなかった。ただ黙ってルキフォを見ている。


「…………分かりました」


 しばらくして、ルキフォは一言呟いた。


「ありがとう。こんな時期でなかったら、私も貴方を気に入ってたかもしれないわ」


 フィンナを見て、ルキフォは微笑んだ。フィンナは艶やかな笑顔でそれに答えた。


「傷が癒えるまでは、ゆっくりしていって。それがせめてものお詫び」


 そう言い残してフィンナは部屋を出ていった。ルキフォは再び窓に目を向ける。

 地霊宮からエスティを助け出したあの日。エスティを守ると約束した時が、随分と昔に思えてくる。出て行けばエスティを裏切ることになる。そう思うと心が痛んだ。

 正直言ってルキフォにはどうすればいいか分からなかった。所詮、自分は闖入者でしかないのだから……。


「後悔……するんだろうな、やっぱ」

 呟きが、一つこぼれた。


        ★


 そして、エスティたちがこの屋敷にきてから六日目の夜。ルキフォの姿が消えた。

 エスティが眠っている間に、ルキフォは屋敷を出ていった。一言も言わずに。そして置き手紙も何もなしに、ルキフォは去っていった。その次の日、エスティは部屋にこもり、ずっと泣いていた。


「ルキフォの莫迦。嘘つき。約束だっていったのに」


 しゃくりあげながら、何度も何度も「嘘つき」と繰り返した。

 扉を叩く音がして、フィンナが入ってきた。ベッドに顔を伏せているエスティにそっと触れた。エスティが振り向いた。


「姉様……」


 フィンナに体を預け再び泣き始めた。


「エスティ、これでよかったのよ。あの子は元素術に関係の無い子だもの。これ以上足を踏み入れるべきではないの」

「でも、でも……」


 言葉が続かない。

 フィンナにとって予想以上の反応だった。おとなびているとはいっても、やはりまだ子供なのだ。

 フィンナは再会した日のように、エスティを優しく抱擁した。

 これでよかったのよ。フィンナはそう自分に言い聞かせた。ルキフォを巻き込む込むべきではない。そんな言葉は慰めにならないし、きれいごとでしかなかった。それは判っている。バッシュと戦った時点で、ルキフォは後戻りできないところまで踏み込んでしまったのだ。


 それでも、あの少年は連れていくべきではない。ここまで関わったのに残酷かも知れないが、所詮、ルキフォは元素術の人間ではないのだ。そうやってフィンナば無理矢理に自分を納得させる。そして、本当のことをエスティに告げない自分を心の中で非難した。


「エスティ。明日にはグレンに会いに、リュードの所へ出立しましょう」


 エスティは顔を伏せたまま縦に振った。

 ここから、リュードたちのいるトリフ山脈まで四日かけて北東へ進むことになる。精水門の人間に見つからないよう旅立たなくてはならない。

 リュードにはまだ何の連絡も入れてなかった。しかし、相手はエスティがこちらにいることに気づいているだろう。

 どうするか、詳しいことは考えていない。ただ漠然と、リュードを誘き出そうと考えているだけだった。信用できる元素術使いを何人か連れていこうとも考えている。それだけだった。


「エスティ。何が起こっても、私の言うことだけを信じてね?」


 最悪の場合を考えて、エスティに念を押した。おそらく、この台詞はこの先何度も言うことになるだろう。

 エスティは不思議に思いながらもフィンナの言葉に頷いた。


「さあ、今日はゆっくり休みなさい。明日からまた旅をしないといけないのよ」


 エスティをベッドの縁に座らせる。エスティはおとなしくそれに従った。


「姉様」


 部屋を出て行こうとするフィンナを、エスティが呼び止めた。フィンナは足を止め何事かと振り向く。


「ルキフォ、わたしのこと嫌いになったの? わたしのこと怒ってるの? だからいなくなったの?」


 瞳を潤ませながらエスティは訊いた。まばたきする度に、新しい涙がこぼれ落ちた。

 フィンナはエスティの所まで戻ると、目の前にしゃがみこんだ。視線をエスティに合わせ微笑む。


「そんなことないわ。ルキフォはエスティのことを怒ってなんかいないわよ」

「本当?」

「ええ。グレンに会って落ち着いたら、三人でルキフォに会いにいきましょう。ね?」


 エスティは少しだけ納得したようだった。


「あとで食事を運んできますから。朝から何も食べてないでしょ?」

「うん」


 食事と聞いてエスティの腹の虫が鳴った。

 それを聞いてフィンナが笑う。だがエスティはそれで何かを思い出したように、また小さく声を出して泣き始めた。


「…………」


 フィンナはそれ以上何も言わず部屋を出ていった。今この子に自分がしてやれることは何もないのだ。だって、この子が泣いているのは自分のせいなのだから。

 この日、エスティは決して泣きやむことはなかった。

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