神田の小話(短編集)

神田かん

『コロの写真』

 昔はよくおかんの実家に遊びに行った。だいたい二時間くらいの距離だったのだけれど、ものすごく遠く感じて車が苦手だった僕はいつも途中で吐く。おとんの好きなチューブのアルバムがかかり、当時は煙草を吸っていてその臭いを消そうと匂い玉と言われるいい匂いがする芳香剤が常備されていたのだけれど、僕にとっては地獄の臭いだったのだ。さらに途中からひたすら山道だからくねくねとカーブが続き、あがったりさがったりで子供向けのジェットコースターのようにうねりながら車は走る。だから毎回僕は吐く。そして真っ青な顔をしておかんの実家に着く。



 そこにはイケダのじいちゃんと呼ばれるおかんの父親がひとりで住んでいた。イケダのじいちゃんはいつもニコニコして僕を膝の中に入れてくれる。そこに座って僕はいつも甘栗をむいたりミカンの皮をむいたりしてくれるイケダのじいちゃんのために、新聞の折り込みチラシでくず入れを作ってあげた。すごいなぁすごいなぁといつも僕のことを褒めてくれた。僕はうれしくて何個も何個もくず入れを作ってはイケダのじいちゃんにプレゼントした。そんな僕をイケダのじいちゃんは飽きずに僕を何回も褒めてくれた。僕はイケダのじいちゃんが大好きだった。



 そこにはコロという犬もいた。柴犬の、ころっとしている犬だからコロ。なぜかはわからないけどコロとの記憶はほとんどない。とはいえイケダのじいちゃんの記憶もコロよりはもちろんあるけども、いつもニコニコしてたこと、頭がはげていたこと、小学校の五年生くらいの時にお葬式に行ったことくらいだ。あと、匂い。イケダのじいちゃんの家はいつも畳と線香の匂いがしていた。その匂いが大好きだったこと。その匂いがそのままイケダのじいちゃんの匂いだったこと。



 イケダのじいちゃんが死んだときの記憶。僕の首くらいの台の上に寝かされているイケダのじいちゃん。初めてあんなに号泣するおかんを見た。僕は涙は出なかった。なんでおかんはこんなにも泣いているのに、僕はまったく涙が出ないんだろうと不思議に思っていた。悲しいともつらいとも例えられない、ほとんど無の状態。あれだけニコニコしていたイケダのじいちゃんが目をつむったまま動かない。ただそれだけ。葬式後。家には最初はきれいに飾りなどが置いてあるんだけど、ちょっとずつイケダのじいちゃんは写真だけになっていった。写真の中でもイケダのじいちゃんはニコニコしている。でもその顔を見ても僕はなんとも思わない。だって褒めてくれないから。今になるとなんとなくわかる。誰かが死んで悲しいのはたくさん想い出があるからだ。たくさんその人とつながっているからだ。つながりが多いほど色んな気持ちが心を渦巻く。だからおかんはあれだけ号泣したんだと思う。でも僕がなんとも思わなかったのは、僕が思った以上にイケダのじいちゃんとつながりがなかったからだ。どういう歩き方をしていたのか、どういう立ち姿なのか、どんな食べ物が好きとか、どんな仕事をしていたのか、なにも知らない。ニコニコと匂いと栗とみかんくらいしかなかった。でも仕方がないのだ。年に二、三回しか会わなかったのだから。あぁ、今も生きていたらなぁと思う。



 あと覚えているのはコロの最後の日。特に散歩に出かけたり、エサをあげたり、遊んだりした記憶は全くないコロ。それでも唯一覚えているのは、イケダのじいちゃんが死んだあとのこと。どうやら大人たちの会議の結果、コロを自然に返すという話になった。僕の家はもちろん(一緒に住んでいる父方のじいちゃんとばあちゃんは犬が大嫌いだった)、母の姉妹が二人いたがどちらも、親せきや隣近所、どこもコロを引き取ることを選ばなかった。だからある日、なぜ僕が同行したのかわからないが、軽トラックに乗って山の近くの野原にコロを放しにいった、いや、捨てに行った。記憶が断片的だからかとてもあっさりしていた。野原に着くと、親せきの兄ちゃんがコロの首輪を外す。そして僕たちは軽トラに乗り込む。走り去る。それだけだった。あまりにもあっさりしていて、僕はこれでコロともう一生会えないのだということに気づかなかった。大人は勝手だと思った。子供に多くのことを言わないことで傷つかないようにしたり守ったりしているのかもしれない。気持ちはわかる。でも言わないのは言わないので傷つくこともある。子供でも案外察してる。



 だから僕の記憶に残っているのは、軽トラの後ろをダッシュで追いかけてくるコロの姿だけだ。それがやがて見えなくなり、それから一生会ってない。たぶんとっくに死んでいるんだと思う。僕の生活からイケダのじいちゃんとコロが消える。でもイケダのじいちゃんの写真はあるし見る。でもコロの写真は見たことがない。

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