モノクローム2
始業のチャイムが鳴り始めたと同時に、高槻は椅子の背にかけてあったよれよれの白衣を羽織った。
それから、机の上に無造作に置かれた、一昔前のデザインの黒縁眼鏡をかけ、教科書類一式を手に取る。
これが現在の高槻のスタイルだ。
あの4年前の夏の日、教師を続ける事を決意した後、いかにして上手く生徒たちと折り合いをつけるべきかを考えた。
あのままいろんなものを我慢するのでは到底続かないと思ったからだ。
その末に選んだのが、このダサくて淡々としたスタイル。
自分にとって一番負担なく生徒と適度な距離を取るためには、こんな小道具が有効だった。
こうすることによって、まず生徒の側に壁を感じさせる事が出来、向こうから不用意に近付いてくる事を抑止できる。
そして目の前のレンズという物理的な壁は、ともすると深く突っ込んでしまいそうになる自分に、距離を取らねばならないのだと思い起こさせるのに役立った。
そうして授業だけを淡々とこなす、どこか近寄り難い妙な先生像を確立してきた。
今では、この格好をする事で自分の中のスイッチを入れ替える事ができるようになっている。
理想の生徒に出会うまで、こうして仮面をかぶっていいればいいのだ。
いつか自分の使命を果たすために、教師であり続けたいと願うのだから。
高槻はいつもよりも少し軽い足取りで教室に向かっていた。
次の授業は、先日入学式を迎えたばかりの1年6組。今日がこのクラスとの初の対面となる。
自分の望む生徒との出会いがあるのか。
ほんの少し、心が浮つく。
けれどあまり期待はしていない。
過去三年間、およそ1000人の生徒と出会ったが、一人もいなかったのだ。
期待外れで終わる可能性の方が遥かに高かった。
小指の先程の小さな思いを更に胸の奥の方にしまい込んで、高槻はいつものように無表情で教室のドアをくぐった。
「1年間、このクラスで生物を教える高槻です。よろしく」
生徒たちの目も見ずに淡々と挨拶をし、自分のペースを見せつける。
「最初なので、まず顔と名前だけ覚えさせて欲しい。名前を呼ぶから、呼ばれたら手を挙げて下さい」
名簿の上から順に名前を呼び、そこで初めて相手の顔を見た。
認識し、頭に叩き込む、ただそれだけの作業だ。ここで深入りしていはいけない。
けれど、その二番目の名前を読み上げた時、高槻の中で何かが崩れた。
「江森竜平」
「はいっ」
思いがけず元気な返事が返ってくる。
高校生にもなると、まともな返事などしなくなるのが大多数だ。
変わったのが入ってきたかなと少し興味が芽生え、一体どんな子だろうと見てみたその顔は、驚いた事に見覚えのあるものだった。
あの時より少し大人びてはいるものの、相変わらず周りよりも幼く見える可愛らしい顔だちに、真直ぐな視線のくりっとした目。
竜平という名前も同じだ。
4年前、土手で高槻にに声をかけてきた小学生に間違いないだろう。
記憶の中ではいつまでも子供のままだからすっかり失念していたが、たった4年で小学6年生は高校1年生になってしまうのだ。
予想外の出来事に、高槻の中の壁がぼろぼろと崩壊していくのを感じる。
仮面をかぶった理性がそのあとも淡々と作業を続けていたが、高槻の頭の中に1年6組の生徒がインプットされる事はなかった。
心の中にあるのは竜平の事だけ。
あの元気な返事と、変わらない真直ぐな目。
きっと、あの頃と変わらない純粋な心を今でも持ち続けているのだろう。
まさに理想の生徒に、出会ってしまったのではないだろうか。
心臓が、ドクドクと脈打つ。
押し殺していた感情が沸き出してくる。
なんとかポーカーフェイスを守り通しはしたが、いつそれが崩れるかとヒヤヒヤしっぱなしの1時間だった。
気を緩めれば、頬が弛んでしまいそうで。
生物準備室に帰りつくと、高槻は堪えていた感情を放出する。
もし見ている人がいたならばかなり無気味であるだろうが、込み上げる笑いが止まらない。
「不意打ちとは卑怯だぞ、竜平」
次回から、1年6組にはかなり気を引き締めて行かなければなと自分に言い聞かせる。
理想の生徒を見つけたからといって、今までのスタイルを崩すわけにはいかないのだ。
出会ってしまったからこそ、このスタイルで教師を続けなければいけない。
また依怙贔屓などと言われれば、竜平も可哀想だ。
今まで以上に自制が必要となる。
けれど、それで楽しい日々が過ごせるのなら、厭わない。
江森竜平。
その、少し大人になった顔を、少し男らしくなった体つきを、少し低くなった声を思い起こし、高槻は叫びだしたいような気持ちになった。
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