ロシアンルーレット

月之 雫

ロシアンルーレット

 毎日のことだが、朝の満員電車は気が滅入る。

 ぎゅうぎゅうと押しつぶされ、体の自由もきかず、荷物のように運搬されていく。

 いや、荷物の方がまだ、相手が動かないだけマシかもしれない。

 今朝もいつものように、これのどこに乗るスペースがあるのだと思われるすし詰めの車内に乗り込み、人に揉まれてどこかへ行ってしまいそうな鞄を手で押さえる。

 その時、むに、と手の甲に柔らかな感触がする。

 誰かの尻が触れているのだ。

 痴漢と間違われたら嫌だなあと思いつつその尻の主を見ると、俺と同じ黒い学生服姿だった。

 男ならいいやと安堵する。

 既に俺の手は鞄とその尻の間に挟まって動かせなくなってしまっている。

 相手が女性だったならかなりピンチな感じである。

 ホッと一息ついたのも束の間、学生服の後ろ姿の彼が俺を振り向き、どぎつい目で俺を睨み付けた。

 触るな、変態。と、言葉にはしなかったものの、目がそう言っていた。

 冗談じゃない、男の尻なんて好きで触ってるんじゃねえ。

 そう言い返してやろうと思ったが。

 彼の顔があまりにも綺麗で思わず見とれてしまった。

 女顔というわけではないが、いわゆる美形というやつで、計算しつくされた人形みたいに整っている。

 この顔なら女じゃなくても触ってもいいかななんて不謹慎なことを思ってしまうぐらいに。




 そんな出会いをしてから俺は、なんとなく毎朝同じ時間の同じ車両に乗り込んでは彼の姿を探した。

 いつも同じ時間の同じ車両に乗っているらしく、ここに来れば必ず会えた。

 ただ、乗客の数が多いため、決まった車両といえども意識して探さないとどこにいるか分からない。

 最初は、あの顔が見れたら辛い満員電車もちょっとは幸せ、ぐらいに思っていたのに、いつの間にかずいぶんのめり込んでしまったらしい。

 できるだけ近くの場所をキープ出来るように、頑張って人波をかき分けてみたりと、徐々に気合いが入ってくる。

 そんな日々の努力で分かったことは、彼は同じ高校の3年生、つまり先輩であること。

 背は俺よりも20センチぐらい低いこと。

 電車を降りてから俺は自転車で学校に向かうが、彼はバスに乗り換えること。

 そして、左足を少し引きずること。

 話したこともなく、名前すら知らないその人を、俺はいつしか好きになっていた。




 その日、彼は入り口横の壁際のスペースに嵌まるようにして立っていた。

 俺はいつものように彼の近くを目指し、壁に凭れた彼の目の前のスペースを確保することに成功した。

 声をかけるでもなく、ただ黙って向かい合う。

 それだけで幸せなひとときだった。

 ここから、降りる駅まで20分程度。

 あまり無遠慮な視線は向けられないが、ちらりちらりと怪しまれない程度にその綺麗な顔を覗き見た。

 彼の方は、もちろん俺なんかには興味があるはずもなく、両耳にイヤホンをして何か音楽を聴いていた。

 何を聴いているのかと、かすかにもれてくる音に耳を澄ませたりしている俺は、かなりやばいのかもしれない。

 そんな自分が自分でおかしくて、堪えきれずに苦笑いを浮かべた。

 すると今まで俺の方なんか見向きもしなかった彼の目が、じろりと俺の方を向いた。

 舐めるような視線が、俺の上を移動していくのが分かった。

 初めに尻を触って睨まれたとき以来、二度目の視線。

 あのときも思ったが、感情むき出しの強気な視線だ。

 物怖じしないというか、好戦的というか、お綺麗な顔に似合わず暴力的な目をする。

 いや、綺麗だからこそきつく感じるのかもしれない。

 そんなところがまたたまらなかったりするのは、俺にマゾの素質があるということなのだろうか。

 彼は何か言いたそうな目で俺を睨んだが、けれどすぐに関心をなくしたように今まで通りによそを向いてしまった。

 もっと俺を見てほしい。

 そんな気持ちがわき上がる。

 ヤバいなと思いながらも、自分の気持ちが止められない。

 声すらも知らないこの人が、たまらなく好きだ。


 悶絶したくなるような気持ちをぐっと堪えていたそのとき、金属の擦れる嫌な高音が響き渡り、体ががくんと揺れた。

 電車が急ブレーキをかけたのだ。

 バランスを崩した人の波が、前方、そして側面へ押し出されるような格好で俺の背後から押し寄せてくる。

 容赦なくかかってくる何人分もの体重に、俺の体も押し出される。

 壁近くだった俺は、咄嗟に彼の頭のすぐ横に手をつき、そしてもう片方の手ですぐ隣にある椅子の手すりに掴まって、その衝撃に耐えた。

 俺の両腕で囲まれた空間には彼の体があり、ここで俺が崩れるわけにはいかないと、必死で腕を突っ張る。

 そのまま動けないでいるうちにつんざく音は止み、衝撃もおさまる。ただ、体勢を立て直すにはまだ時間がかかるようで、俺にもたれかかる体重はなかなか減らず、身動きが取れずにいた。

 落ち着いてみると、目の前に触れそうなほど彼の顔が近く、気付いてしまったらどうにも心臓がばくばくして止まらなくなる。

 早く戻ってくれ、後ろの人と横の人。

 俺が焦っても、ざわつく車内はなかなか収拾がつかない。

 車内アナウンスが聞こえていたが、内容は耳に入らなかった。

 息がかかるほど間近にあるその顔に、俺の意識は釘付けだった。


「どういうつもりだ?」


 彼の口が動き、そう言葉を発した。

 予想していたよりも低い、けれど予想通り魅力的な声。

 初めて声が聞けたと舞い上がった俺は、その言葉が自分に向けられたものであると気が付くのにずいぶん時間を要した。


「恋人気取りか?」


 高慢な口調とともに、俺をまたあの目で睨み付ける。


「え?俺?」


 きっと俺は、ずいぶんすっとぼけた顔をしていただろう。

 彼の言葉の意味が分からなくて。

 彼は、顔を背けることもなく、この至近距離から俺を睨んでいて。


「お前に守ってもらう謂われはない」


 眉間に目一杯皺を寄せて吐き捨てるように言われて、ようやくなんとなく状況が飲み込めてきた。

 今のこの俺の態勢は、腕の中の恋人を守るような、まさにそんな格好なのだ。

 いや、実際のところ、咄嗟に彼を庇おうと思ってそうしたのだから、そのもののシチュエーションなのかもしれない。

 それがきっと、彼を不快にしたのだ。

 見るからにプライドが高そうだし、誰かに守られることなんて気に食わないのだろうか。


「いや、でも、咄嗟のことで、俺も手をつく場所、ここしかなかったし」


 取り繕うように言い訳をしてみるが、さらに眉間の皺を増やしただけだった。


「おまえ、いつも俺のこと見てるだろう」


 断定的に、彼が言う。


「え?いや、あの…」


 予想外の言葉に動揺が隠せない。この距離では、滲み出る汗の一粒だってわかってしまうだろう。

 まさか、俺に気付いているなんて、思ってもみなかった。

 そんなに露骨にしているつもりもなかったし、俺が知る限り彼が俺の方を見たのは最初と今日の二回きりだ。


「また痴漢でもしようと思って狙ってんの?」

「ちがっ、何言ってる、んですか。俺がいつ、そんなこと」

「俺の尻、触ったろ?」

「あれは、たまたまです。触ろうと思って触ったわけじゃ…」


 あのときのことまで覚えているというのか。

 あのときからずっと、俺の行動を把握されているのか。

 冷や汗が背中を流れる。

 彼に近付こうとしている俺の全てを知られているのだろうか。

 いつも、知らない振りをして、見ていたのだろうか。

 必死で弁解する俺を、蔑むような目で見て彼は、にやりと口の端を上げた。


「わかってるよ、そんなこと」


 ぐい、と、俺の肩を両手で押し返す。

 意外にも力強く、まだ俺にかかっている残り数人分の余分な体重も一緒に押し戻し、俺はようやくもとの位置へと戻ることができた。

 ほどなく、電車が動き出す。

 目の前の彼は俺の肩に手を置いたまま俯いて、声を殺して笑っていた。

 俺はただ呆然と、彼の揺れる肩を見ていた。




「俺が好きなのか?」


 電車が降車駅に滑り込んだ頃、ようやく笑いから立ち直って顔を上げた彼は、相変わらず好戦的な目でそう言った。

 どう返事をしたらいいものか答えあぐねていると、彼は開いたドアからするりと出ていってしまった。

「また明日」

 最後に、そう言ったような気がするのは、俺の錯覚だろうか。

 ぼんやりしているうちに閉まりそうになったドアから、俺は慌てて飛び下りた。

 ホームに彼の姿は既になかった。



<終>

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