will.男の娘〜君は知っているか?日本最大の差別と人権無視を〜

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第1話 美和

美和



「いらっしゃいませ」


このお店に続く直通のエレベーターのドアが開いた瞬間、太月姐さんの野太い声が中に乗っているお客さんを迎えた。


「親分さんお待ちしてました」


カウンターでドライシェリーを舐めていたママが、エレベーターの中の客に駆け寄り、手を引いてVIPルームへと連れ去った。


その後ろを、苦虫を噛み潰した様な顔でお付きの若い衆が歩いている。


端正な顔立ちにすらりとした身の丈…その顔に不似合いな左の頬の大きな傷跡。


年の頃は30前だろうか…眼光の鋭さが如何にもボディーガードといった風情だ。


エレベーターから最初に降りて来た客を「親分さん」とママが呼んでいるのだから、多分この街のヤクザの親分なのだろう。


席に着く様に言われたらどうしよう…。


この店で働き出して一週間…まだヤクザさんの席に着いた事は一度も無い。


やっと見つけた私の居場所……この街に住まう人達だけが、私が何者で有ろうと色眼鏡で見る事はない。


出来る事なら……一日も早くこの街に慣れ、そしてこの街で当たり前に暮らしたい。


だけど、怖い思いをするのは嫌い。


江戸時代から春を売って栄えた場所。


赤線廃止後、売春宿は確かに減ったが、法律すれすれの怪しげな店が立ち並び、ヤクザとは縁の切れない街…。


今となっては世界中にゲイの街と知られる、新宿二丁目はそんな街だ。


動物分類上のオスの身体を持って生まれた女の子。


物心ついた頃、性同一性障害なんて言葉も無く、親にさえ自分の心の中を話す事は出来なかった。


初めて口紅を塗った日、私は自分の性に目覚めた。


母の鏡台の鏡の中で、仁王像の様な形相をした父と向かい合った。


「小僧が…!」


父はそう言って、まだ小学生の私を殴りつけた。


いや、殴り続けたと言った方が正しい。


今思い返しても良く命が有ったと思える程、父は私を殴り、そして蹴った。


それ以来…私は自分が女である事を隠して生きて来た。


率先して不良の仲間に入り、特攻服を着て夜の街を走り回った。


レディースの女の子達が着ている、赤やピンクの特攻服が羨ましかった。




「美和ちゃん、太月ちゃんのヘルプに付いて奥のお客さんをお願い」


奥のお客さん…つまりVIPルームのヤクザの親分の席。


ママからの指示に私は顔色を失った。


マーフィーの法則ではないが、人生…嫌だと思うと必ずそちらの方へ流れが向かうから不思議だ。


「見習い実習生」と書かれたネームプレートが作り物の胸の上に有る事を確かめ、私は重い気持ちで太月姐さんの後を追った。


お店の最奥に有る他の客室とは隔離された洋室。


絢爛豪華…赤を基調とした部屋の中に、光を乱反射させるゴージャスなシャンデリア。


気を抜けば眠ってしまいそうな、いかにも座り心地の良さそうな皮のソファー。


映画館の様な壁一面を埋め尽くす巨大なモニターの中で、アリアナ•グランデが歌っている。


その他の壁にはヒロヤマガタのカーニバルやティンカーベルと言った色鮮やかな絵画が並び、まるでアートギャラリーの様だ。


一歩間違えば、統一性のないチンドン屋の楽屋に間違われそうなこの空間も、選び抜かれたセンスの良い調度品のおかげで、ハイセンスなお洒落な空間へと演出されている。


6畳一間の私の部屋が、すっぽり入ってまだ余り有る空間…。


その部屋の中央に置かれた大きな応接セットの真ん中で、親分さんは太月姐さんとくだけた調子でお喋りを楽しんでいた。


「太月、お前また太ったんじゃないか?タツキなんて名前じゃなくて、フトヅキて素直に読ませた方が客も分かりやすいだろ」


親分さんはそう言った後「ガハハ」と大きな口を開けて笑った。


途端に太月姐さんは顔色を変え、親分さんに言葉を返す。


「んまー悔しいわっ!よくもぬけぬけと人が一番気にしてる事を…」


相手がヤクザの親分だけに、私はハラハラした思いでその様子を見ていた。


「なんだ、お前でも今更体重をきにするのか?」


親分さんはまだ口撃を緩めるつもりはない様だ。


ハイヒールを履くと、180センチはあろうかと言う長身の太月姐さん。


グラマラスと言えば聞こえは良いが、ロケットの様に飛び出した胸と、座布団を巻いた様な腰回り。


他の追随を許さないほどのド派手な化粧…親分さんが言うように、わずかな体重の増減など気にも留めないだろうと私でさえ思う。


それなのに…太月姐さんは親分を許さない。


「ひっどい!あんたねぇ…」


今にも噛みつきそうな勢いで太月姐さんが親分さんに向き直った時、VIPルームの入り口のドアが開き、ワゴンを押した黒服を引き連れ、この店「will」の泉ママが現れた。


「あら、太月ちゃんどうしたの?親分さん怯えてるじゃない」


宝塚歌劇団の男役を彷彿させる様なスラリと伸びた手足。


手入れの行き届いた華奢な指先が、和服の胸元に挟んだハンカチーフを摘み出した。


ひとつ一つの仕草が、そのまま男だったとしても性別を感じさせない美しさに輝いている。


私は眩しいものでも見る様に、ため息の出るような思いでママの姿を見上げた。


「マァマ、このジジィ酷いのよぉ。私のこと豚みたいに言うんだから」


「ジジィ」と言う言葉に、お付きの若い人の眉毛が動いた。


私はそれを見逃さなかった。


「あら、ダメよ親分さん、太月ちゃんはこれでもダイエット中なんですから」


カナリヤのような澄んだ声でママが親分さんをたしなめた。


「誰も豚なんて言ってないよ泉ちゃん。俺はまた太月が太った様だからフトヅキに改名しろって言っただけさ」


親分さんはそう言ってまた「ガハハ」と笑った。


「ほらまた」


太月姐さんはそう言って勢い良く親分さんに向き直り言葉を続けた。


「だいたいあんたねぇ、誰のおかげでいっぱしのヤクザになれたと思ってるのよ。この泉ママがあんたのために骨身を削って尽くしてきたからでしょ?その店一番のこの私に、なんで言い草なの」


太月姐さんが悪態をついた瞬間、テーブルを叩く「バンッ!!」と言う大きな音がVIPルームに鳴り響いた。


「黙って聞いてりゃこの化け物が!テメェ誰に口聞いてるんだ!」


ゴージャスなシャンデリアが、揺れる様な大声で叫んだのはお付きの若い人だ。


「龍也!」


地響きの様な声は親分さん。


私はその様子をただ怯えた目で見ていた…見ているしかなかったと言うのに…親分さんが呼んだ「龍也」と言う名前に反応した。


「化け物とは何よ!この若造が!」


太月姐さんと龍也と呼ばれた若い人が向き合った。


緊張が走る。


「太月ちゃんダメよ。そもそも私たちは化け物なんだから」


ウフッ、と言う声が漏れ聞こえそうな可愛らしさで泉ママが笑う。


それにつられたのか、親分さんがまた大笑いをした。


私はその間も、龍也と呼ばれた若い人から目が離せなかった。


「そんなことより、先ずは乾杯しましょう」


泉ママの言葉を合図に黒服が忙しく立ち動き、テーブルの上が氷や割り物の水やお茶で埋まっていく。


「竈雫」と書かれた素焼きの小さな水甕から、泉ママが柄杓を使い、水甕の中に有った液体を江戸切子のオールドファッショングラスに注いだ。


そのグラスを親分さんの前に置いた時、それがお酒で有ることに私は初めて気が付いた。


よく見ると水甕の蓋には「芋焼酎」の文字…。


素焼きの瓶に入ったお酒なら見た事は有るけれど、この街では…ううん…このお店では、たった一杯のお酒を作る事さえ洗練されている。 


私はうっとりする様な思いで、泉ママの指先を見ていた。


いつか、こんな素敵なレディになれたら…泉ママの席に着くたび、私はその思いを強くして行く。


「龍也さん、お飲み物は」


たった一度、親分さんが呼んだ名前を記憶し、泉ママはおつきの若い人に何を飲むのかを聞いた。


「自分は水で」


眉間にシワを寄せたまま、龍也と呼ばれた若い人が答えた。


私は再び視線を龍也さんに向けた。


鋭い眼光に苛立ちを貼り付けた眉間の皺…他人の干渉を嫌う様な頬の傷…荒れた生活を象徴する様なドス黒い肌…でも…龍也さんだ…間違いない。


私が憧れ続けた人…。


そして、私の性を見抜いたただ一人の人。


10年前、私が所属していた暴走族のサブリーダー、相沢龍也さんだ。


10年ぶりの再会…あの頃…色素の薄い透明感の際立つ肌をしていた。


自慢のリーゼントさえ赤毛で、女の心を持つ私はいつも羨ましく思っていたのに…10年の歳月はこんなにも人の見た目を変えてしまうのだろうか。


あの頃の爽やかさを、今の龍也さんからは何一つ感じる事は出来なかった。


「龍也、お前も一杯飲め」


飲み物は水でいいと言った龍也さんに、親分さんはお酒を飲む様にすすめた。


「いえ、酒に酔ってたのでは親分を護れませんから」


居住まいを正し、龍也さんが言った。


「ふんっ、吹き上がってんじゃねぇぞ龍也、ここは俺の家みたいなもんだ。今日のお前の仕事は終わりだ。お前も飲め」


「しかし…」


「なによ粋がっちゃって、親分が飲めって言ってるんだから、飲めば良いじゃない」


まだ機嫌の治らない太月姐さんが言った。


龍也さんは眼の動きだけで太月姐さんを威嚇する。


「龍也、お前さんオカマが嫌いかい?」


「いえ、自分はただ…」


「ただなんだい」


「………」


「龍也さんは親分さんに軽口を叩く人は誰だって気に入らないの。ねっ、そうでしょ?」


泉ママが口を挟んだ。


「いや、偏見が無けりゃ太月を化け物呼ばわりなんかしねぇさ」


「そうよ」


今度は太月姐さんだ。


「おだまり!」


泉ママの叱責に太月姐さんが黙る。


集中砲火を浴びた龍也さんは、なお一層険しい顔で返事もしない。


「さっき太月が言った事は全部本当の事さ…。泉はな、ずっと俺の女房として俺を支えて来たのさ…時には体を売ってまでな」


龍也さんが弾かれた様に顔を上げ、親分の顔を見つめている。


何か言葉を探しているのかも知れない。


そして私も…体を売ってまで親分を支えたと言う、泉ママの気持ちを知りたいと思った。


「親分、新人の女の子の前でする話しじゃ有りませんよ。せっかく逸材が入ったと言うのに、怖がって居なくなったら責任取ってくれます?」


泉ママが、やんわりと話題を別に向けた。


「ほう、泉ママが逸材と言うんだから、よっぽど見込みが有るんだな」


そう言って親分さんが私の顔を覗き込んだ。


私はただ作り笑いを浮かべるしか出来なかった。


「確かにペッピンさんだ」


「中身もよ」


親分とママの会話に、私は消え入りそうな面持ちで、居心地の悪さばかりが際立った。


親分さんは何かを思いついた様に膝を打ち「よしっ」と言ってから言葉を続けた。


「龍也、お前もこの席で飲んでも酒が不味かろう。この娘を指名で今日は閉店まで勉強させて貰え」


親分さんの言葉に、龍也さんは渋々と言う様相で頷いた。


「その前に一言だけ言っておく」


「はい」


「男が男に惚れるのはそんなに気持ち悪いか?


「いえ、自分はそんな事は思ってません」


龍也さんの言葉に、親分さんはニヤリと笑った。


「男が男に惚れて人生を掛けるのはヤクザの専売特許よ。お前さんだって男に惚れてこの世界に入って来たんだろうが」


龍也さんは頷くこともなく、黙って親分さんの話を聞いている。


「いいか龍也、ここに男はいない。いるのは完全な女だけだ。そこんとこを今日はこのお姉ちゃんに教わって来い。分かったか」


「分かりました」と龍也さんは深々と頭を下げた。


「ちょうどポールダンスのショーが始まるわ。美和ちゃん、龍也さんをホールの方へ案内して」


泉ママはそう言って私と龍也さんを送り出した。


私は、今親分さんが言った言葉に心を奪われて居たが、閉店までの2時間…龍也さんと二人きりになることの恐怖を感じ、暴れる心臓を抑えることに必死だった。

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