第一話 空を飛ぶ夢

 玄関のドアチャイムが鳴り、出勤する服装の上からエプロンを着けて皿を洗う母さんが二階に向かって叫んだ。

「ネム、アマテラさん来てるわよー」

「いま出るー!」

 階段を駆け降りてきた妹は、制服の上着に袖を通しつつ俺の目の前を横切り、食卓に置きっぱなしになっている自分の皿のバターロールを、鞄を持っていないほうの手で掴み取ってかぶりつく。朝食を咥えて登校する奴、初めて見た。食パンじゃないけど。……かくいう俺も妹と同じ学校の生徒である以上、始業時間も同じだから、のんびりしてはいられない。最近、毎日のように遅刻ギリギリで起床しては友達を待たせる妹と同じく、俺もまた寝不足だった。同じ夢ばかり見るせいだ。


 同じ夢ばかり、といっても、タイムループもののSFみたいに同じストーリー展開を繰り返すわけじゃない。夢の舞台が同じ。夢に出てくる街が同じなのだ。午前中の授業をどうにか乗り切った俺も、弁当がもたらす満腹感には勝てず、午後の退屈な授業中、教科書の陰に突っ伏して昨晩の続きを見始めてしまった。

 夢の中の街は、俺の家も駅も学校も現実に似ているが、現実とは微妙に違う。それと、夢の中では空を飛べる。夢の世界の空気には粘り気があるので、助走をつけて倒れ込みながら、空中を泳ぐつもりで両手を大きく掻けば、低空飛行が始まる。玄関から住宅街を通って駅前商店街へ行ってみよう。高架線路の下の、落書きだらけの短いトンネルをくぐり抜けると、並木道も商店街も現実とほぼ同じ。路肩の店では白熱電灯がいくつも点いていて、その下で干物かなにかを売っている。でも店番の人やお客さんの姿はない。商店街の向こうにはスーパーマーケットがあるが、そこでも人の気配は感じるのに人はいない。不条理だけど、夢の世界とはこういうものだ。ここまでに飛んできた道のりだって、現実よりも大きな建物とか、妙に入り組んだ歩道橋とか、夢を見るたびに毎回少し違っている。なのに、俺の住んでいる街が元になった同じ街だと分かる。

 ファストフード店やドラッグストアや居酒屋が並ぶ大通りをぐるぐる巡っていると、後ろに高速回転するなにかを感じた。追ってくる、という、嫌な感じがして、振り返る前から、それが空飛ぶ独楽だとわかった。商店街を、住宅街を、公園をかすめて逃げる。ところが、何かから逃げる悪夢のお約束どおり、急ごうとするほどスピードが出せなくなる。普段なら一人でのんびり飛び回る夢なのに、こんな展開は初めてだ。行く手に建物がなくなり、草色の斜面があらわれた。川辺のサイクリングロードへ上がった俺は、土手沿いに飛びながら追っ手を見た。空中に黄色い独楽がいる。赤い独楽がいる。緑の独楽がいる。青い独楽がいる。軽自動車ほどの大きさの四つの独楽は上下対称で、どれも上面と底面が銀色に輝いているが、側面はおもちゃっぽい鮮やかな原色だ。速さが違いすぎる、こいつらからは逃げ切れない、じきに追いつかれる!そう思ったとき、今度は川のほうから黒いものがせり上がってきた。


 黒くて細長い巨大なものが俺と併走している。黒いボディの奥に幾筋もの緑の光が流れ、鏃のようにシャープな先端近くのフタが開き、乗れ、という感じがした。勢いをつけて横へ飛び込めば、コックピットの内装は合皮に似た感触で、つやのあるアイボリー。俺を乗せて閉じたフタの裏には継ぎ目もなく外界の光景が映し出された。

「飛行機……?ロケット!?」

 黒い騎体が加速し、ここにいれば安心だ、と思った。……が、突然、前につんのめる感じがして、風景が独楽のいる方向へ一八〇度回転した。

「何だ!?」

 俺の両横に黒い腕が持ち上がり、まっすぐ伸ばした両肘から、開いた両手の先へ緑の光輪が収束して、追ってくる独楽めがけて光線が発射された。搭乗しているからよく分からないはずなのだが、槍みたいな形態だったとき後ろに伸びていた四本の長いパーツが、どうやらこいつの両腕と両脚で、今のこいつは俺が乗っている腹部を中心に上半身と下半身とが起き上がり、人型に変形したらしかった。

「こいつ、ロボットなのか!?」



“vorstellung”



 黒い両手から出た二発の光線を受けて黄色い独楽と赤い独楽が砕け散ったが、残る二体への狙撃は間に合わず、次発を撃つ前に緑と青の体当たりを喰らってしまった。騎体は河川敷に墜落したものの、俺の身体は背もたれから降りてきた幅広のパッドで操縦席に固定されているので、コックピットの中を跳ね回ったり天井に頭をぶつけたりせずに済んだ。夢の中だから何が起ころうと痛くもかゆくもないはずなのに、このままでは危ない、と感じた。

「座ってるだけでいいのか?なにか俺にできることはないのか!?」



“わたしは、あなた”



 こいつが、俺……?背後へ回った独楽が二手に分かれて、左右から挟み討ちをしようと迫る。河原にへたり込んだままの騎体を立ち上がらせようと、俺は奥歯を食いしばった。

「立ぁぁてぇぇぇええええっ!!」

 操縦席の肘掛けに突っ張った腕に力を込めて踏ん張ると、黒い腕が俺の動きに同期して巨大な騎体が腰を上げた。いいぞ、操縦できる!お次は飛んでみよう。黒い脚で砂利を踏み砕き、跳び上がった勢いのまま、空へ!と強く念じる。騎体がぐんと上昇して二体の独楽の突撃を避け、コックピットの中で俺は両腕を広げた。

「これでいいんだな?」

 両肩から手のひらへ、エネルギーの流れを意識すると、俺の姿勢と同じように左右へ伸びた巨大な腕から指先へ、ふたたび光輪が流れてゆき、戻ってきた緑の独楽と青の独楽とをすれ違いざまに鋭い光線の刃が切り裂いた。


「……テツヤ!おい、テツヤ!!」

「っるせえな……」

「いつまで寝てんだよ。帰ろうぜ」

 耳元で怒鳴っていたのはクラスメートのコージだ。

「え?授業終わり?」

「とっくに放課後!!」

 気がつくと、俺は白紙のノートに突っ伏した格好のままで、机の上には教科書やらペンケースやらが広げっぱなしだった。授業はぜんぜん聞いていなかった。“巨大ロボットに乗って戦う夢”なんてガキっぽいことを打ち明けられるわけもなく、エロ動画の観すぎかー?とコージにおちょくられても無視した。

 一時間とはいえ熟睡したはずなのに、まったく眠気が解消しない。むしろ本当に戦ったかのように疲れている。ぼんやりした頭で電車に乗り、帰宅した俺は、連日の夢のうちでもひときわリアルすぎる変な夢を頭の中で反芻しながら晩飯を食べ、コージから借りたノートの下手くそな字を解読して午後の授業の内容を書き写し、風呂に入り、歯を磨き、ベッドに潜ると眠りの世界へスムーズに吸い込まれた。

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