1-3 放課後

 太陽の傾く放課後。配布物を届けることと、村瀬さんのお見舞いを目的として、車を走らせた。入院先は、町の病院ではなく、山間の療養所サナトリウムであるらしい。紅葉こうようが鮮やかな山道を行く。

 やがて、木々の海を抜ける。涼やかな木陰に囲まれた、木造の建物が現れた。大正時代に建てられたのであろう、白く塗られた壁に、翡翠色の屋根。近場に療養所があることは知っていたが、実際に訪ねるのは初めてだ。

 受付の人に来院の目的を告げて、村瀬さんの病室の場所を教えてもらう。村瀬さんの病室は、二階の角部屋らしい。階段をのぼり、部屋へ向かう。ギシリギシリと鳴る床が、建物の年季を感じさせた。

 201号室。ここだ。ノックをしてから、扉を開ける。カラカラと、引き戸が音を鳴らす。

 病室の患者は村瀬さんだけらしく、がらんとした空間だった。窓際のベッドの上で、上半身を起こし、窓の外を眺める少女がいる。俺が扉を開けたことで、こちらに振り向く。


「新田先生。」

「村瀬さん。こんにちは。…体調、いかがですか?」

「えっと…今はだいぶ、よくなりました。」


 彼女は、ぎこちなく笑った。彼女がなぜ入院するに至ったのか、まだ理由を教えてもらえていない。


「そうですか。よかった。これ、今月の学級新聞です。藤岡さんが、今月も面白い記事を書いてくれましたよ。それから、蒼眞がお見舞いに来たがっていました。入院していることだとか、体調不良の詳しい話は伝えていないですが…長期の欠席になるらしいことは伝えてしまいました。すみません。」

「いえ、そんな…。入院の事も、お伝えいただけたらありがたいです。むしろ、私の方から直接伝えられず、すみません…。お見舞いも、来てもらえたら嬉しいので…。あまり賑やかだと怒られちゃうかもしれませんが。」


 ふふ、と村瀬さんは微笑んだ。それでも、彼女の目の下にうっすらと浮かぶクマが気になってしまう。


「…その。お父さんの方からはまだ詳しいお話を聞いてませんで。入院の理由について、教えてもらうことは…難しいですか?」


 俺の問いかけに、彼女は迷いの表情を見せる。それでも、彼女は言葉を選びながら、俺の疑問に答えてくれた。


「先生。手を、出していただけますか?」

「…手?」


 彼女の意図が読めず、俺は一瞬戸惑ったが、おそるおそる右手を差し出した。村瀬さんも右手を伸ばす。しかし、彼女は手を重ねるのではなく、彼女の右手首を、俺の指先に添えた。まるで、彼女の右手の脈を測るように促しているような。


「…。」


 どくり、どくりと、彼女の血が流れていることが、指に伝わってくる。どこか、ぞわりとした。俺は、血が苦手だ。脈を感じることも、俺にとっては恐ろしい。

 顔を上げて、彼女の瞳を見る。彼女は、じっと俺の表情を見つめていた。彼女は何を求めているのか。


「…私、生きていますか?」


 彼女はそう俺に問うてきた。

 何を訊かれているのか、俺には分からなかった。


「生きているでしょう?こうして、俺と話しているし、脈もある。」

「そうですか。…よかった。」


 俺の言葉を聞くと、彼女はそっと右手をしまった。それでもどこか、彼女は怯えたような表情を浮かべていた。


「どうしてか、すごく不安なんです。自分の意思が薄れていくような、私が私でなくなるような、漠然とした不安が拭えないんです。」


 彼女の声は震えている。


「すみません。ここしばらく、気持ちが不安定なんです。最近は、夢と現実の境界が曖昧で。何度も何度も死んでしまうような夢を見て、そのときの痛みが忘れられなくて、いつか本当に死んでしまうんじゃないかって、でも、でも、今はこうして」


 彼女の呼吸が荒くなっていく。


「やだ、もう、痛いのも、怖いのも、いやだ、閉じ込めないで、引き裂かないで、殺さないで、やめて、もう」

「___村瀬さん」

「やだ、やだ、助けて、ごめんなさい、私」

「村瀬さん!!」


 涙と狂気でぐちゃぐちゃになった彼女の顔を見ていられなくて、俺は思わず声を荒げた。彼女はハッとして、俺の目を見る。


「…ごめんなさい。最近はずっとこんな調子で…。精神的に不安定なんだろうと診断されて、一時的にこちらの療養所に入院することになりました。町の病院よりも、心身ともに休まるだろうと。」

「そうでしたか…。」


 彼女が、ここまで不安定な様子を見せることは初めてだった。俺が知る村瀬さんは、穏やかで、誰にでも優しく、微笑みを絶やさないような人物だった。ここまで大きな声を出すことも、狂気ゆえに涙を流すことも、俺が知る中では今まで一度もなかった。


「あなたをそうさせたのには、俺に原因がありますか?」

「…え?」

「学校や、俺自身に問題があって、村瀬さんを追い詰めたのだとしたら___」

「違います、そうじゃないです!本当に、違いますから…。」

「なら…。」

「…分からないんです。どうして、こんなに心がぐちゃぐちゃなのか。まるで、私じゃない、別の人の感情がもうひとつあるような…。いえ、すみません、変ですよね。たぶん、映画の観すぎか、小説の読み過ぎなんです。しばらく、静かなところでゆっくり休んだら、心も整理できるでしょう。」

「そうですか…。」


 何かの創作に影響された結果だと言いたいのか。はたしてそのようなことが本当に彼女に影響をもたらすのか、ここまで精神を乱すほどの原因になり得るのか。否定したい気持ちになるが、今はこの仮説が彼女にとっての薬にもなると思えば、言葉を飲み込むほかなかった。


「…分かりました。それでしたら、村瀬さんがゆっくり休めるように、俺もできる限りのことはします。何か欲しいものがあったら、先生に言ってくださいね。図書館の本を借りてきたりだとか、給食のパンをこっそり持ってきたりだとか、そのくらいのことはできますから。」


 後者は半分冗談のつもりで言ったが、彼女は微笑んで頷いてくれた。それから、少し考えた後、彼女はこう言った。


「わがまま、言ってもいいなら…。職員室前の金木犀のお花、摘んできていただけませんか?ここには、金木犀が植えられていなくて。」

「金木犀、ですか。」

「はい。好きなんです。あのお花が。」

「そうだったんですか。わかりました。一枝、持ってきましょう。」

「ありがとうございます。」


 どうしてあの花が好きなのか。訊ねようと思ったが、ついぞ口には出さなかった。

 それからもしばらく話していたが、気づけば遅い時間になってしまい、俺は立ち上がる。


「…あまり長居をするのもよくないですね。俺はここでお暇します。明日は、金木犀のお花を持ってきますね。」

「ありがとうございます。帰り道、暗いと思うので…気をつけてください。」

「はい。それでは。」


 俺は軽く会釈をして、病室から出た。帰り際、彼女は寂しそうな顔をしていた。

 明日も早くお見舞いに来よう。彼女がひとりである時間を、なるべく減らさなければ。それが今の俺にできることだ。

 すっかり暗くなった山道を、車で慎重に降りていく。山間の療養所は、夜の闇に飲まれていく。やがて、その姿は見えなくなった。どうしてか、もう彼女と会えなくなってしまうような、形容しがたい不安が、俺の心臓に張り付いて離れなかった。

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